陰キャに恋は早すぎる

ツワブキ

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 後ろ手で玄関の扉の鍵を締め、滉はそこで漸く安堵の息を吐いた。

 歩が最後にこのアパートの一室に足を踏み入れたのは、まだ寒さの厳しい真冬の頃のことだった。ちょうど滉は風邪をひいて、歩が看病してくれたのだ。

 あれからもう、三ヶ月も経ってしまった。ちゃんと礼すら言えていなかったことに、滉は今更ながら気付く。

 滉は握ったままだった歩の手をそっと離す。

 歩の大学からここまで、歩いている間も電車に乗っている間も、滉は歩の手をずっと握っていた。

 そうでもしないと歩が今度こそ滉の手の届かないところへ行ってしまう予感がしたからだ。

 滉は歩の表情のない横顔を窺い見る。顔が整っている分無表情でいられると迫力がある。

 その迫力に気圧されながら、滉はあの、と歩に声を掛ける。続きを促すように向けられた瞳は侮蔑の色を浮かべている。それに思わず後退りしそうになるのを、滉はぐっと掌を握って耐える。

「この前は看病してくれてありがとう。と、とりあえず座って話そう」

 歩は滉の言葉を聞き終えて小さく息を吐いた。



 滉の住む部屋は向かいに建つマンションのおかげで日当たりが悪い。晩秋から立春までの日が低い時期は、昼過ぎには向かいのマンションの影に入ってしまうので、室内は照明を点けなければ薄暗い。

 時計の針は午後三時を過ぎたところだ。春になり、日が差し込む時間が増えた今でもこの時間になるとやはり明かりが欲しくなる。

 滉は部屋の明かりをつけて歩を振り返る。

「座ってて」

 ソファを指して言うと、歩は小さくうんと言ってソファへと向かう。

 歩がソファに腰掛けたのを見届けて滉は僅かに安堵する。

 この部屋に歩がいることが日常だった日々が思い起こされる。それらの日々が今の滉にとって当たり前の日常ではないことが、ひどく淋しい。

 滉は500ミリリットルのペットボトルのお茶を二本冷蔵庫から取り出して、静かに冷蔵庫の扉を閉めた。そして、小さく一呼吸すると覚悟を決めて歩の方を振り返える。

「これ、良かったら飲んで」

 お茶の片方を歩の前のテーブルに置いてから、滉は歩の横に腰を下ろした。

「連絡、どうして返してくれなかったの」

 言って、滉はちらりと歩の顔を盗み見る。先程と寸分違わぬ無表情の横顔がそこにあった。

 歩は隣に座る滉を振り返らない。歩はじっと正面に置かれたペットボトルを凝視して黙っている。

「…」

「……」

 滉もこれ以上なんと声をかけるべきかわからず、視線を彷徨わせそして目を伏せた。

 二人の間に重い沈黙が流れた。

 思い返せば、二人きり時にこのような重苦しい沈黙を、滉は味わったことがない。

 歩はいつでも明るく、よく笑い、よく喋り、話題に事欠かなかった。歩はいつもその大きくくっきりとした瞳を細めて滉を見る。その顔には微笑みが浮かんでいて、滉の次の言葉を待っている。

 滉は元々丸い背をさらに丸めて顔を伏せる。

 しばらくの間二人はそうして黙っていた。

 しんとした部屋に、はあ、とため息が落とされた。歩のものだった。滉はそれにビクッと肩を揺らして、おずおずと伏せていた顔を上げる。歩は一瞬部屋の端に目線をやって不愉快そうに眉を寄せて口を開いた。

「もう、しのとは会いたくない」

 滉がえ、と言うのを無視して歩は続ける。

「もう連絡してこないで。大学にも来ないで。迷惑。」

 それは冷たい響きをもって滉に投げつけられた。滉はその冷たさに息を飲む。

「わかったならもういいでしょ。それじゃ、」

「待って!」

 滉は腰を浮かせかけた歩の手を反射的に掴む。それに今度は歩の体がビクッと反応する。

「な、なんで、」

 言葉がうまくでてこない。それでも、滉はなんとかそれだけ言った。どうしても納得などできなかった。

 幼い頃よりずっと仲のいい友達だった。滉のこれまでの人生で心を開くことができたのは唯一歩だけだ。歩といる時だけ滉は滉らしくあれた。そして、滉が滉らしくあることに歩はいつも肯定的だった。  

 そんな歩を失うことを思うと、底のない暗い穴に落ちるような心地がした。

 滉を一瞬で恐怖が支配する。

「や、やだ!」

 滉は思わず声荒げる。幼子のように首を振って現実から目を背ける。

「のん、俺、のんと友達でいたい。のんを怒らせるようなことしちゃったなら謝るし、もうしない。だから…、」

 言葉は続かなかった。滉は歩の手を掴んだまま顔を伏せる。

──のんを失いたくない…!

 それはもはや神頼みに近い。もう歩の側に居られないなんて嫌だ。考えたくもなかった。

 滉は歩の手をぎゅっと掴んだまま祈るように身体を折ってその手に縋る。

 同時に、ぽろりと涙が零れた。生温かいそれが堰を切ったように止め処なく溢れた。

──そうだ、歩がいない間ずっと自分は寂しかった。

 こんな風に、人前で恥も外聞もなく泣くのは初めてだった。そもそも、滉は子供の頃からあまり泣かない子供だった。

 幼稚園でかけっこで負けても、小学校で仲間はずれにされても、中学の卒業式で合唱しながら周りの同級生達が泣き出しても、滉の心はいつも凪いでいた。

 それなのに、歩が自分の前から去ろうとするのがこんなにも悲しくて堪らない。

 滉はぎゅっと目を瞑る。歩の顔が怖くて見られなかった。

「な、んで、お前が泣くんだよ…っ」

 沈黙を破ってふいに落とされたその苦しげな声に、滉は思わず伏せていた顔をゆっくり上げる。そして僅かに目を見開いた。

 そこには綺麗な顔を歪ませて涙を流す歩の姿があった。いつも美しく弧を描く桜の花弁のような唇はまるで何かを堪えるかのように戦慄いている。

 滉の心臓はそれを見て俄に鼓動を速めた。

「の、のん、泣いてるの…?」

「うっ、ぐす、」

 滉は自分が泣いているのも忘れるほど驚いて、歩の顔をまじまじと見つめる。歩はそんな滉の視線から逃れるように身体を捩らせて滉から顔を背ける。慌てて自由な方の腕の袖で目元を拭っているが、肩を震わせて嗚咽を漏らしている。

 滉は驚いていた。それは滉同様、歩も昔から全く泣かない子供だったからだ。

 凡そ負の感情なんてないんじゃないかと思えるほど、滉からみて歩はいつも朗らかでいて、穏やかで、どこか別の世界の人間のように感じていたからだ。

 そんな彼が自分の目の前で泣いていることに、滉はなぜだか涙が引っ込むほど焦っている。

「オレは、しののことが嫌い!もう、お前の顔なんてみたくない…!」

 歩は絞り出すようにそう叫ぶと、歩の腕を掴んでいた滉の手を思い切り振り払い、顔を両手で覆ってわっと泣き出した。

 滉はたっぷり数十秒を要して歩に言われた言葉を理解する。



(のんは、俺のことが嫌い…、顔も見たくないほどに…)
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