背徳の病

Q矢(Q.➽)

文字の大きさ
9 / 10

9

しおりを挟む


 案内してくれた仲居が茶を供して部屋を出ていった。姿が映り込むほどに磨き込まれた黒い座卓の上には、澄んだ淡緑色の液体を注がれた茶碗がそれぞれの前に置かれている。
 篠井は湯気の上がるその茶碗を手にして、少し息を吹きかけてから口にした。パーキングから5分程度歩いただけで噴いていた汗が、エアコンの効いた部屋に入って冷やされたからか、温かい煎茶が殊の外美味しく感じる。
 向かい合って暫し茶を味わい、先に茶碗を置いたシオンが口を開いた。

「実はここ、本当は夜の営業だけらしいんですが...」

「え、そうなのか?でも予約取ってたんだろう?普通に迎えられたよな。」

 視線を上げてそう聞くと、シオンはコクリと頷いて続けた。

「父に連絡して頼み込んでみたんです。知り合いと一緒に行ってみたいから、ご店主に頼んでみてくれないかって」

「お父さんに...」

「同世代の友達じゃなくて仕事先でお世話になっている落ち着いた歳上の方だと言ったら、そういう事ならと言ってくれて...」

「そうだったんだね」 
 
 その説明だと、まるで自分の方がシオンを世話してやっているかのようだ。実際には篠井が彼に迷惑をかけてしまった事への詫びだというのに。
 篠井は苦笑しながらシオンの話の続きを聞いた。

「父はここの引退したご店主にかなり気に入られてたらしいです。数年前までは仕事でたまに日本に来てたんですが、その時に特別にお昼に開けてもらった事があると聞いていました。
 でも今では息子さんの代になってると言うし、父も久しく日本に渡ってないので、無理かなと思ってたんですけど...父が掛け合ってくれたら、お昼で良いならと特別に入れていただける事になって」

「へえ、それはありがたいね」 
 
 篠井はそう口にしつつ、シオンの父親はどんな人なのだろうかと想像した。老舗の有名料理屋の引退した元店主なんて、頑固者のイメージがあるのに、そんな人物の懐に入り込み、便宜を図らせる事が出来るほどの人。シオンに似て人懐っこいのだろうか。もしそうではなくとも、きっと魅力的な人物であるのは間違いないだろうと思った。

「だから、今は僕と篠井さんの貸切り状態って事ですね」

 そう言ってシオンは悪戯っぽく笑う。

「貸切なんて初めてだよ。ちょっと贅沢な気分だ」

 合わせて篠井も微笑む。星付きの店を貸し切りなんて貴重な体験は篠井も初めてだ。正確には店側の厚意で特別に入れてもらっただけだが、他に客が居ない事には変わりない。
 
 なんとなく、見える庭園も先ほどまでとは少し違って見えるようだった。


「失礼いたします、先付けお持ちいたしました」

 不意に女性の声がして襖が開き、仲居が入って来た。彼女はゆっくりと2人の前に持って来た料理を置いていく。涼やかな硝子の小鉢が2皿、そして別の白い長皿に敷かれた飾り葉の上には数種類の料理が少量ずつ並んでいる。旬の魚や野菜を使ったそれらはどれも繊細で、彩りも鮮やかだ。添えられた果実の輪切りや小花が季節感を感じさせてくれてまた嬉しい。

「おお...良いねえ」

「日本料理の飾り付けは本当に美しいですね」

 嬉しそうな表情を隠しもせず、シオンは箸を手にして弾んだ声を出した。篠井にしても気持ちは同じだ。休みの日にこんな贅沢をするのは久々なのだから。

「じゃあ、いただこうか」

「はい、ご馳走になります」

それからは、頃合いを見ながら運ばれて来る椀物や造り、炊き合わせなどなどに舌鼓を打ちつつ、ゆったりとした気分を楽しみながら食事をした。シオンは店で会う時よりも打ち解けた気分になったのか、小さな頃の事や学生時代の事、実家の事なども話してくれた。
 シオンの実家は、韓国でも富裕層が多いと言われる江南地区。父親は、父親の兄が代表である企業の系列の商社の社長を勤めていたが、5年ほど前にシオンの母が交通事故で車椅子生活になってからは、国外の仕事を部下に任せるようになったのだという。子供と足の不自由な妻を置いて家を不在がちにするのはしのびなかったのだろうか。
 下に妹が居て4人家族。家族仲は良いらしい。

「それならシオン君が留学に出るの、反対されたんじゃないのかい?」

 食事の最後に出た水菓子のメロンを口に運びながら聞くと、シオンは困ったように眉を下げながら答えた。

「妹は少し寂しがる程度でしたが、快く見送ってくれました。母は...昔から少し僕に過干渉気味なところがあったので、そろそろ子離れしてもらおうと思いまして」

「ああ、母親って息子にそういうところあるよね」

 篠井は、自分にも覚えがあるなと思いつつ、母親を思い浮かべながら言った。と言っても、母の関心は今や、一昨年に孫を儲けた弟夫婦に移っているようなのだが。篠井が40を迎えた辺りから再婚話も持ち込まなくなってきたし、いい加減に見切りをつけたのかもしれない。
 だがシオンの場合は、まだ若く容姿端麗。才にも恵まれている、自慢の息子だろう。シオン本人は過干渉というが、それと溺愛は紙一重だ。
 留学先で変な虫でもつけてはいないか、きっと心配に違いない。

「大変だねえ、イケメン息子は」

 茶化すように言うと、シオンは少し頬を赤くした。

「からかわないでください」

「いや、からかってなんか...」

 篠井はそこまで言って口篭り、僅かな逡巡の後、思い切ったように口を開いた。

「実は僕にも、子供が居てね。会った事はないけど...君より少し歳上の男の子なんだけど...」
 
「息子さん、ですか...」

「シオン君と居ると、息子ってこんな風なのかなって思うよ」

 何処かに思いを馳せるように微笑む篠井を見つめるシオンの目が眇められ、妖しい光を放った。





 
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

縁結びオメガと不遇のアルファ

くま
BL
お見合い相手に必ず運命の相手が現れ破談になる柊弥生、いつしか縁結びオメガと揶揄されるようになり、山のようなお見合いを押しつけられる弥生、そんな折、中学の同級生で今は有名会社のエリート、藤宮暁アルファが泣きついてきた。何でも、この度結婚することになったオメガ女性の元婚約者の女になって欲しいと。無神経な事を言ってきた暁を一昨日来やがれと追い返すも、なんと、次のお見合い相手はそのアルファ男性だった。

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

鳥籠の夢

hina
BL
広大な帝国の属国になった小国の第七王子は帝国の若き皇帝に輿入れすることになる。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

美形な幼馴染のヤンデレ過ぎる執着愛

月夜の晩に
BL
愛が過ぎてヤンデレになった攻めくんの話。 ※ホラーです

ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?

灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。 オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。 ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー 獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。 そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。 だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。 話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。 そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。 みたいな、大学篇と、その後の社会人編。 BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!! ※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました! ※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました! 旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」

記憶の代償

槇村焔
BL
「あんたの乱れた姿がみたい」 ーダウト。 彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。 そうわかっていたのに、俺は彼に抱かれてしまった。 だから、記憶がなくなったのは、その代償かもしれない。 昔書いていた記憶の代償の完結・リメイクバージョンです。 いつか完結させねばと思い、今回執筆しました。 こちらの作品は2020年BLOVEコンテストに応募した作品です

処理中です...