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69 彼の見ていた風景
しおりを挟む窓を開けると、潮の香りに混じって雨の降る前のような湿った匂いがした。
庄田の瞳に映るのは、前日に引き続きの曇天と、道路の向こうの灰色の海。今にも雨がチラついてきそうな空模様だが、昨日も一昨日もついぞ降っては来なかった。きっと今日も降らないだろう。この辺りの土地は、1年の半分程はそんな不機嫌な天気らしい。しかもかなり寒い。雪の季節は少し前に終わっているらしいが、降れば深くなるのだという。庄田が幼い頃から住んでいるあの街にも雪は降るが、一晩で車が埋もれる程に降ったのは見た事が無い。
吹いてきた冷たい風に身を震わせて、庄田は窓を閉めた。
街中のホテルではなく海沿いの小さな民宿に宿泊を決めたのは、そこが斗真の通っていたという中学への通学路に面していたからだ。
和久田の報告を受けて知った斗真の故郷の地。
庄田は斗真に距離を置こうと告げられた日の翌日から、ふらりと此処へ来ていた。庄田にしては突発的な行動だ。それでも、彼なりの理由はある。
あの日、斗真に羽純と重ねて見ていた事に気づいてから、庄田は一晩中自問自答を繰り返した。
好む物が同じだった。それが取っ掛りで、近づけば独特の雰囲気に惹かれた。話してみれば、可愛くて。酔った斗真の中に愛しい面影を見てからは、歯止めが利かなくなった。気が急くままに組み敷いた彼の体は、忘れていた愉悦と深い眠りを庄田に思い出させてくれた。思いがけない拾い物をしたと思った。
彼を得たなら、この砂を噛むような日々が終わる。そう信じた。
羽純を失くしたまま生きなければならない真っ暗な世界を照らす何かが欲しかった。
全て、自分の欲望だけで動いていた。斗真の都合を考える事も無く、構って甘やかして同情を引いて、気持ちを引き付ける為に画策をして。
全部全部、自分の為。
それでも斗真を愛しく思っているのは本当だ。けれどそこから羽純を差し引いた時に、どれだけ斗真への感情が残るのか。
それを確かめたくて、庄田は此処へ来た。
羽純の面影を宿した彼ではなく、菱田 斗真という人間の事を知りたくて。
彼が生まれた場所、歩いた道、見ていた風景、感じていた風の匂い、彼という人間を育んだ環境。勿論、それらを体感したからとて、斗真の何がわかる訳でもないかもしれない。徒労に終わるかもしれない。けれど、それでも足を運ばずにはいられなかった。
斗真の実家は、泊まっている民宿からほど近いごく普通の一軒家だった。付け加えると、少し古いかもしれない。
大学進学で家を出てから、家族とは疎遠気味のようだと和久田に聞いた。理由はわからないが、きっと何か事情があるのだろう。斗真自身が疎遠にしているものを庄田が訪ねる訳にもいかず、一昨日も昨日も、距離を取って少し眺めただけだった。今は錆びた郵便受けは、斗真が居た頃はまだ艶やかに光る赤だったのかもしれない。やはり少し錆びた小さな門扉も、斗真が制服を着て出入りしていた頃にはきっと…。いやそれとも、塗り直しても取り替えても潮風で錆びてしまうのだろうか。来た道を振り返ってよく見てみれば、宿からここまでの道沿いにある白いガードレールも、酷い赤茶の錆に侵食されていた。
空は相変わらず灰色の雲が垂れ込め、それを写した海の色も暗い。その海から吹き荒ぶ風は冷たく、居並ぶ家々の風雪に黒く変色したブロック塀が寒々しい印象を与える。
物寂しい街だ、と思った。
季節が変われば、またガラリと違う景色が見られるのだろうか。あの暗い色の空も海も、眩しく青く輝くのだろうか。その答えを知っている筈の斗真が隣に居ない事を寂しく思いながら、庄田は未だ人っこひとり見えないその道を歩いた。
昨日は小学校と中学への通学路を歩いてみた。今日は通っていた隣町にある高校に行ってみるつもりだ。
斗真の実家から10分程歩いた場所にある小さな駅舎も古かった。地元の人間らしい乗降客が、ホームの木のベンチに数人座って話していたが、庄田の姿に気づくと驚いたような表情で見てきた。観光地でもなさそうなこの辺りでは都会的な若い男もアルファも珍しいのかもしれない。他人の不躾な視線には慣れている庄田だが、未知のものを見るような目には少し居心地が悪いような気持ちになった。
間もなく来た二両編成の電車に乗り込んでも、庄田は注目の的だった。だが、車窓から見えていた海が消え、街並みが変わり乗降客が入れ替わっていくと、徐々に居心地の悪さも消えてきてホッとする。
海沿いの駅から30分以上も乗って、電車はやっと目的の駅に着いた。
去っていく電車を見送って、改札のある一階への階段を降りた。流石にホームにも人が増え、駅舎の規模もそれなりに大きい。構内に売店やパン屋やドラッグストアがあるのは駅の利用客が多く採算が見込める証拠だろう。それらを横目で見ながら東口の改札を出てスマホの地図アプリを開くと、検索で出してマークしてあった高校へのルートが何通りか示された。
時刻は午前10時過ぎ。駅前には商店街があったが、通勤通学の時間には掛かっていないから人が増えても歩き易い。
斗真が毎日のように通っていた頃にもあった店はどれだろう、などと思いながらゆっくりと歩き始めたその時。庄田の横を、一陣の風のように走り抜けて行く者があった。
反射的に視線をそこにやると、それは黒い学制服姿の男子高校生が走っていく後ろ姿だった。通学時間をとうに過ぎたこの時間に、制服姿の少年。余程急いでいるのか、振り返りもせずに走っていく。揺れる、短い黒髪。伸びやかな手足、首に巻いた青いマフラー、紺のリュック。
彼に似ているような気がして何となく追ってしまい辿り着いた先は、斗真の通っていた高校だった。
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