69 / 88
69 彼の見ていた風景
しおりを挟む窓を開けると、潮の香りに混じって雨の降る前のような湿った匂いがした。
庄田の瞳に映るのは、前日に引き続きの曇天と、道路の向こうの灰色の海。今にも雨がチラついてきそうな空模様だが、昨日も一昨日もついぞ降っては来なかった。きっと今日も降らないだろう。この辺りの土地は、1年の半分程はそんな不機嫌な天気らしい。しかもかなり寒い。雪の季節は少し前に終わっているらしいが、降れば深くなるのだという。庄田が幼い頃から住んでいるあの街にも雪は降るが、一晩で車が埋もれる程に降ったのは見た事が無い。
吹いてきた冷たい風に身を震わせて、庄田は窓を閉めた。
街中のホテルではなく海沿いの小さな民宿に宿泊を決めたのは、そこが斗真の通っていたという中学への通学路に面していたからだ。
和久田の報告を受けて知った斗真の故郷の地。
庄田は斗真に距離を置こうと告げられた日の翌日から、ふらりと此処へ来ていた。庄田にしては突発的な行動だ。それでも、彼なりの理由はある。
あの日、斗真に羽純と重ねて見ていた事に気づいてから、庄田は一晩中自問自答を繰り返した。
好む物が同じだった。それが取っ掛りで、近づけば独特の雰囲気に惹かれた。話してみれば、可愛くて。酔った斗真の中に愛しい面影を見てからは、歯止めが利かなくなった。気が急くままに組み敷いた彼の体は、忘れていた愉悦と深い眠りを庄田に思い出させてくれた。思いがけない拾い物をしたと思った。
彼を得たなら、この砂を噛むような日々が終わる。そう信じた。
羽純を失くしたまま生きなければならない真っ暗な世界を照らす何かが欲しかった。
全て、自分の欲望だけで動いていた。斗真の都合を考える事も無く、構って甘やかして同情を引いて、気持ちを引き付ける為に画策をして。
全部全部、自分の為。
それでも斗真を愛しく思っているのは本当だ。けれどそこから羽純を差し引いた時に、どれだけ斗真への感情が残るのか。
それを確かめたくて、庄田は此処へ来た。
羽純の面影を宿した彼ではなく、菱田 斗真という人間の事を知りたくて。
彼が生まれた場所、歩いた道、見ていた風景、感じていた風の匂い、彼という人間を育んだ環境。勿論、それらを体感したからとて、斗真の何がわかる訳でもないかもしれない。徒労に終わるかもしれない。けれど、それでも足を運ばずにはいられなかった。
斗真の実家は、泊まっている民宿からほど近いごく普通の一軒家だった。付け加えると、少し古いかもしれない。
大学進学で家を出てから、家族とは疎遠気味のようだと和久田に聞いた。理由はわからないが、きっと何か事情があるのだろう。斗真自身が疎遠にしているものを庄田が訪ねる訳にもいかず、一昨日も昨日も、距離を取って少し眺めただけだった。今は錆びた郵便受けは、斗真が居た頃はまだ艶やかに光る赤だったのかもしれない。やはり少し錆びた小さな門扉も、斗真が制服を着て出入りしていた頃にはきっと…。いやそれとも、塗り直しても取り替えても潮風で錆びてしまうのだろうか。来た道を振り返ってよく見てみれば、宿からここまでの道沿いにある白いガードレールも、酷い赤茶の錆に侵食されていた。
空は相変わらず灰色の雲が垂れ込め、それを写した海の色も暗い。その海から吹き荒ぶ風は冷たく、居並ぶ家々の風雪に黒く変色したブロック塀が寒々しい印象を与える。
物寂しい街だ、と思った。
季節が変われば、またガラリと違う景色が見られるのだろうか。あの暗い色の空も海も、眩しく青く輝くのだろうか。その答えを知っている筈の斗真が隣に居ない事を寂しく思いながら、庄田は未だ人っこひとり見えないその道を歩いた。
昨日は小学校と中学への通学路を歩いてみた。今日は通っていた隣町にある高校に行ってみるつもりだ。
斗真の実家から10分程歩いた場所にある小さな駅舎も古かった。地元の人間らしい乗降客が、ホームの木のベンチに数人座って話していたが、庄田の姿に気づくと驚いたような表情で見てきた。観光地でもなさそうなこの辺りでは都会的な若い男もアルファも珍しいのかもしれない。他人の不躾な視線には慣れている庄田だが、未知のものを見るような目には少し居心地が悪いような気持ちになった。
間もなく来た二両編成の電車に乗り込んでも、庄田は注目の的だった。だが、車窓から見えていた海が消え、街並みが変わり乗降客が入れ替わっていくと、徐々に居心地の悪さも消えてきてホッとする。
海沿いの駅から30分以上も乗って、電車はやっと目的の駅に着いた。
去っていく電車を見送って、改札のある一階への階段を降りた。流石にホームにも人が増え、駅舎の規模もそれなりに大きい。構内に売店やパン屋やドラッグストアがあるのは駅の利用客が多く採算が見込める証拠だろう。それらを横目で見ながら東口の改札を出てスマホの地図アプリを開くと、検索で出してマークしてあった高校へのルートが何通りか示された。
時刻は午前10時過ぎ。駅前には商店街があったが、通勤通学の時間には掛かっていないから人が増えても歩き易い。
斗真が毎日のように通っていた頃にもあった店はどれだろう、などと思いながらゆっくりと歩き始めたその時。庄田の横を、一陣の風のように走り抜けて行く者があった。
反射的に視線をそこにやると、それは黒い学制服姿の男子高校生が走っていく後ろ姿だった。通学時間をとうに過ぎたこの時間に、制服姿の少年。余程急いでいるのか、振り返りもせずに走っていく。揺れる、短い黒髪。伸びやかな手足、首に巻いた青いマフラー、紺のリュック。
彼に似ているような気がして何となく追ってしまい辿り着いた先は、斗真の通っていた高校だった。
39
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】
星森 永羽
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
オメガの復讐
riiko
BL
幸せな結婚式、二人のこれからを祝福するかのように参列者からは祝いの声。
しかしこの結婚式にはとてつもない野望が隠されていた。
とっても短いお話ですが、物語お楽しみいただけたら幸いです☆
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
「お前を愛することはない」と言われたお飾りの妻ですが、何か?
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することはない!」「そんな事を言うために女性の寝室に押し入ったのですか? もう寝るつもりで化粧を落として髪をほどいて寝着に着替えてるのに! 最っ低!」
仕事大好き女が「お飾りの妻最高!」と恋愛感情無しで結婚したらこうなるよね、というお話。
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる