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2話 代償の夜
しおりを挟む腫れた頬に気付いたのは、隣の席の後輩だった。
一瞬ぎょっとして見せたが、視線はすぐに手元のスマホへと向かう。
平手打ちの痣がこんなにも浮き出るものだとは思わなかった。隠す手立てもなく今日もいつも通りに出勤をしたが、もちろん誰もこの顔を気にしはしない。
「花田! 昨日頼んだ資料はどうなってるんだ? ったく、とろいんだよなぁ」
背後から肩を押され、振り向くと冷めた視線で自分も見下ろす上司の姿があった。
それ今聞きました。そう心の中で呟いて、いつもの五文字を口にする。
投げ渡された厚みのある書類は、キーボードの横に山積みになった紙切れ達の一番上にスライドした。
ほとんどが虎児の仕事ではなかった。
誰にも嫌われないようにと、波風立てず、あれもこれもと受け入れていたら、いつの間にかこんなことになっていた。悪いのは自分だ。
主張のない者は淘汰されていく。きっと今も昔もそうなのだろう。もうすぐ入社二十年目を迎える同僚にも、似たような扱いを受け入れている人もいる。自分だけじゃない。
それに今みたいな事はマシな方で、酷い時は罵声を小一時間執拗に聞かされる。
ピコン、と机の上に置いていたスマホが可愛らしい音を立て震えた。
それは友人もいなければ、家族とも疎遠な自分には中々縁の無い通知音。
キーボードを打つ手を止め、恐る恐る伏せていたスマホの画面を覗く。通知センターのバナーに表示された見慣れない二文字の漢字に息苦しさを感じた。
琉生と表示された名前をタップし、空白だらけの画面の上部に並んだ文字を目で追う。
[おかねちょーだい!]
想像していた通りとでも思うべきだろう。しばらくすると、昨夜撮られた写真が添付され、思わず画面を閉じた。
彼らを下卑た目で見ていたわけではない、と思う。
寧ろ憧れのようなものだった。上手く過ごせなかった青春がまさにそこにあったような気がして、羨ましく見ていたのもあった。
とりわけ目を惹いたのは大和と呼ばれていた茶髪の彼。一人でいる時はいつも眠たそうで、ぼんやりとしている印象だったが、友人の琉生と話している時に限っては花が咲いたように笑うのだ。
いつしか心が奪われていたのだろうか。彼らが気味悪いと感じるほどに。
申し訳ないことをしてしまった自分が悪い。殴られても仕方なかったんだろう。怖い思いをさせてしまった。トラウマになってないといい。
鈍い痛みのある頬を撫で、画面をなぞる。贖罪の返事をするしか選択肢は無かった。
慌てて会社を出たのが夜八時を過ぎていた。
その足でATMで下ろした三万円を手に、昨夜彼らと出会ったコンビニ近くへと急ぐ。
八時には会社を出ると伝えていたが、遅れて良いことなんてひとつも無いに決まっている。
コンビニ前に座り込んだスウェット姿の二人がこちらに気付いた。その視線に一瞬で首を絞められたような気がした。
「おっそ」
ゆっくりと立ち上がった琉生に年甲斐も無く駆け寄る。
「ごめん、」
それだけ口にして、握っていた三万円を琉生に渡した。
「っし、大和! 肉でも食いに行こーぜ」
大人しく渡したせいか、機嫌良さそうに琉生はひらひらと札を仰ぐ。
「焼肉?」
「……牛丼でいいだろ」
「あ? 三万もあんだぞ?」
「残った分取っとけよ。もったいねえだろうが」
ふと耳に入った大和の言葉に驚き、じっとその会話を聞こうとする男に、大和は小さく舌打ちをして「んだよ」と不良映画顔負けの睨みをきかせた。
「ごめん、その……二人はお金に困ってるの?」
「困ってんよ。なに? おっさんがどうにかしてくれんの?」
ずいっと寄ってきた琉生の表情に明るさは無く、お前如きに何ができるんだ? と言われているようだ。
それほど怒りの含まれた言葉に、また余計な事を口にしてしまったんだと悟る。
「……俺が、できることなら」
言い逃げなんてできなくて、ちらりと琉生を見た。
「お前に何ができるんだよ」
そう呟いたのは、目の前の琉生ではなく大和だった。苛立った声に、ああまた選択を間違えたんだなと気付くも遅し。
「ふーん。じゃあおっさんは金も寝る場所も世話してくれる女の代わりになれんの?」
家庭環境に問題のある子どもではあるんだろうなとは想像できていた。激しい暴力性に、深夜徘徊。このご時世、家庭環境に問題が無い子どもの方がずっと珍しいだろう。あまり驚きはしなかった。
けらけらと笑いながら話す琉生は、「ああ、」と冷めた視線を虎児に向ける。
「そっか、おっさん変態だからむしろありがてぇんだろ? 気持ちわりぃなあ」
気付いた時には地面に倒れていた。
酷く痛む腹に、もう一度入った蹴りに体を丸める。
この一年、何を見ていたんだろう。
彼らが苦しんでいたなんて、なにひとつ気付かなかった。
***
あれから二度、金を要求されることがあった。金額は決まって三万円。
正直独り身で特に何の趣味もなく、毎月の給料の使い道なんて生活費だけだった虎児にとっては大した事ではない。
増えていくばかりだった貯金残高が、少しずつ減っていくことに安堵を覚えるなんておかしな事なのだろうか。
最後の金銭の要求から一週間が経っていた。
彼らは生活できているのだろうかと、傍から見れば馬鹿らしい心配をしている。
顔と腹の痣は随分と綺麗に消えてしまい、彼らと出会ってから一度も見かけなくなった、朝の通学路を眺めるのが最近の朝の日課となってしまった。
似た背中を見つけては、すぐに違う事に気づく。そんな事を繰り返している。
深夜、日付の変わりそうな時刻にいつもの道を歩く。
今日はやけにしつこかった上司の怒りに、転職の二文字を浮かべながら一旦住んでいるアパートを通りすぎ、目と鼻の先にある夜道を照らすコンビニへと向かおうとした時だった。
アパートの二階へと上がる錆びた階段にふたつの影が見える。ひとつの影が自分に気づき、青い顔をしてこちらへと駆け寄った。
「おっせえんだよ」
震えた声に圧のある話し方。今にも泣きそうな顔をした琉生だった。
「ど、うしたの」
「いいから黙って部屋に上げろ」
切迫した様子にただ事では無いとアパートの階段へと向かうも、階段の数段目に座り込み、腹部をおさえている大和に唖然とする。
背後からの急かす声にはっとさせられ大和を支える琉生を横目に虎児は階段を駆け上がった。
やけに震える手で鍵を開け、二人を部屋へと迎え入れる。
「それ血か……?」
暗くて分からなかったが、琉生の手は赤く、大和に限っては白いパーカーの腹部が赤く染まっている。
「きゅ、救急車」
「呼ぶな!」
大和が声を上げ、虎児を睨む。二人には事情があるとはいってもこれは見過ごせないと、スマホを手にするも琉生に胸ぐらを掴まれ壁に押し付けられた。
「マジで余計な事すんなよ」
悲痛な声だった。思わず手に持っていたスマホをキッチンの上へと置き、琉生の強張った腕に触れる。
「傷は見せてくれるよな?」
そう言うと琉生の体の力が抜けたように感じた。掴まれていた胸ぐらは離され、無言の了承を得る。
「……触るね」
壁を背に座り込む大和に睨まれながら、パーカーを捲る。血の量にしては傷は浅く見えたが所詮素人の判断でしかない。
「大したことねえよ」
「嘘つけ。んなわけねえだろ」
二人が軽口を交わしている事に少し安心して、バスタオル二枚と二リットルのポットに水道水を入れ再び戻る。
「傷口綺麗にするね」
タオルでおさえながら水で傷口を洗う。裂けた傷口は目をそらしたくなる程度には広がっていた。
「……やっぱり病院には行った方がいいと思う」
「あ? だから行かねえつってんだろ」
傷口ができて少し時間が経っていたのか、あまり出血はあまり酷くないがこのままにはしておけない。
大和に睨みつけられながらも、視線をそらし「でも」と口にする。
「このままにして酷い事にでもなったらどうするんだ? 感染症だってある」
今度は大和ではなく琉生へと訴えた。大和の身を一番案じているのは彼だと思ったからだ。
「……病院に行って、心配な事でもあるのか?」
大和の傷口に清潔なタオルを押し当てる。医学的な知識なんて無い自分には、これ以上できる事はない。
二人は黙り込んでしまい、大和の深い溜息が響く。
「分かった。……でも、明日熱が出たり傷口が悪化していたら行ってくれ。命の方が優先だろ?」
虎児の言葉に大和が嘲笑う。けれどそれとは反対に琉生の表情が曇っていく。
二人の心配の種は家庭にあるのか、それとも交友関係なのか。こんな自分を当てに待っていたあたり、二人が頼れたのは家族や友人では無いのは確かだった。
「事情はわからないけど、俺をいいように使ってくれ。通じるかわからないけど、身内として一緒に病院に行ったっていいし、……二人が安心できる事をやってくれ」
幻想だったとしても、殺伐とした日々に光をくれていた二人への恩返しでもあったし、何よりも自分をこうして頼ってくれた事が嬉しかった。
「……綺麗なガーゼとか買ってくるよ。流石にタオルじゃな……。二人は何か食べたいものはある?」
会社の鞄から財布を取り出し、スマホ片手にサンダルを履く。スーツにサンダルといった間抜けな姿だ。
「俺も行く。大和は寝てろ」
「通報なんかしないよ」
「当たり前だ。しやがったら殺す」
見張らなくても大丈夫だと伝えたかっただけの言葉だったが、琉生の機嫌を更に悪くさせてしまっただけに終わった。
10分程歩けば24時間営業の大手スーパーがある。遠くて聞こえるバイク音がやけに近くに感じる。
二歩ほど下がった距離で着いてくる琉生。居心地が悪い。
「俺ら女んとこいたんだわ」
しばらくして先に口を開いたのは琉生だった。驚いて振り返ると、そのまま隣へとやって来た琉生は歩き出す。
今度は虎児が琉生の背中を追う。
「なんつーか、金出してくれるし、ヤらせてくれる、んで泊めてくれるオネーサンみたいなやつ」
男子高生二人を家に泊めて、ましてや体の関係があるなんて、きっとろくな大人じゃない、そう思いながらも実際している事は自分と変わりない。
「まぁ、で……ヤる時は絶対三人て決まりなわけ。俺と大和ン中では。でも女が大和の事気に入って、俺がいない時にヤろーとして、大和がすげー拒否ったら包丁持ち出して殺されそうになった、らしい」
「らしい?」
「俺パチ屋いたから。……店出たら大和が血だらけになってんの」
流石にビビる。と風が鳴るように呟いた琉生の声に、虎児は言葉が見つからなかった。
「傷が酷くなくてよかった」
気まぐれにこうして琉生は話してくれているが、だからといって簡単に踏み込んでいいとは思えず、もちろん本心だが当たり障りのない台詞を選ぶ。
「マジでハズレ引いた。女ってこえー」
口角を控えめに上げながら笑う琉生は、ごそごそとスウェットのポケットから手のひらほどのサイズの箱を取り出した。
慣れた手つきでそれに火をつけて、肺に煙を送り込む様をじっと見つめてしまった。
見なかったことにした。ここで振りかざせる正義感と勇気なんて虎児には持ち合わせていない。
スーパーに到着し、閑散とした店内で傷口に必要そうなものをできる限り揃え、遠慮無しにカゴの中にお菓子やジュースを投げ入れる琉生を横目に何故か少しだけ浮足立っている自分がいた。
幼い頃から特別親しい友人もおらず、他人とこんな風に買い物なんてした事がない。
相手は高校生、しかも無意識にもストーキングのような自分の行為で困らせた相手、そして加えると報復に暴力を受けた相手。考えれば考えるほど奇妙だ。
会計を済ませ、帰路につく。静けさが残った深夜は気持ちがいい。
ほとんどお菓子の入った袋を両手に、目の前を歩く手ぶらの青年の背中を眺めた。
家に帰れてないのはどうして、誰が君たちを守ってくれているの、余計な疑問ばかりが浮かんでは消える。
「おっさん、嬉しいだろ」
「え?」
「大和に触れて」
夜風に吹かれる煙が空を舞う。
「……いや、あれは傷口を見ただけで、」
「ほんと、まじでキモいわ」
嫌悪を含んだ拒絶の言葉。
自分のした事に言い訳をするつもりはない。多分自分だって他人に毎日視線を向けられていたら気持ちが悪いと思う。
「ごめんね」
もうあの道で探したりしないから。
自分の声は届いていたのだろうか。街灯が一瞬点滅して、ジジッと音を立てる。帰ってきたのは欠伸だった。
帰宅すると大和は床で眠っていた。
部屋に入るなり琉生は大和へと向かい、その額に手をあてる。
「熱はなし、」
次は服を捲り、傷口をおさえていたタオルを取り払う。
ネットで調べた包丁等の切り傷に良いとされていた市販の抗菌軟膏と滅菌ガーゼの入った袋を琉生に渡すと、用途は分かるようで傷口の周りに軟膏を塗り始めた。
先ほど言われた言葉を思い出し、じっと見ていては良くないと帰宅して一度も着替えていなかった事に気づき虎児は浴室へと向かう。
五分ほどでシャワーを浴び、部屋の戻ると大和の隣で眠る琉生の姿があった。大和に寄り添うように横向きに小さくなって眠っている。
硬いフローリングの床で眠る二人に、本当はベッドで眠ってほしかったが、気持ち悪いだろうと体を冷やさないように、使っていない薄い毛布を二人にかけた。
琉生の選んだジュースとアイスは冷蔵庫へと入れ、静かなふたつの寝息の中、虎児も瞼を閉じる。
翌朝二人の姿はなかった。
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