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<二> きっかけ
5 きっかけ
しおりを挟む5 きっかけ
英語準備室の磨りガラスからは光が漏れていて、室内に人がいることが窺えた。瑛斗はそれが他の教師の可能性を無視して、そっとドアを開けた。
資料が山のように積まれた狭い室内の奥、窓際の片隅に目的の背中があった。
物音を立てたつもりはなかったが、気配を察したのか、普段以上に小さく見える体がはっとして振り向いた。
三田先生は驚いた表情で瑛斗を見ると、慌てた様子ですぐに向こうを向き、取り繕うように手元の本をぱたぱたと重ねた。
「藤代くん。まだいたんだ。どうしたの?」
声色は普段どおりの三田先生のものだった。
瑛斗は返事もできず、息を呑んで立ち尽くしていた。
一瞬だけ見せたその瞳が潤んでいたのを、けっして見逃さなかったからだ。
瑛斗が質問をしてくるタイプの生徒ではないと確信しているのだろう、先生は「お茶飲む?」と背中を向けたまま尋ね、返事を聞く前にマグカップをふたつ手に取った。
瑛斗は部屋の中央を陣取る年季の入った会議机に勝手に座り、電気ポットに向かってカチャカチャと用意する先生の背中を無言で眺めた。
先生は瑛斗に何をしに来たのか追及しなかった。瑛斗の方には頑なに顔を向けず、時折鼻を啜る音を立てたり、手の甲でこっそり顔を拭っているような仕草を見せたりした。
「どうぞ」
差し出されたマグカップに注がれた茶色い液体から湯気が立ちのぼっていた。「このほうじ茶美味しいんだよ。ティーバッグだけど」と小さく笑いながら、やっと瑛斗に顔を見せた。
温かいカップを両手で包み込みながら、瑛斗は慎重にその表情を眺めた。同じように両手で包み込んだカップを口に運ぶ三田先生の瞳は、もうすっかり乾いていた。泣いているように見えたのが勘違いだったのかと思わされるほどだった。
ただ、いつまでたっても瑛斗と視線を合わせなかった。
沈黙の中ふたりでお茶を啜った後、先生が静かにカップを置いた。
「藤代くん」
ようやく視線を合わせたかと思ったら、わずかに首を傾げながら瑛斗に尋ねた。
「……大丈夫?」
思いがけない言葉がその口から発せられ、瑛斗は耳を疑った。
「授業中もぼーっとしてたよ。何か悩んでる?」
心配そうに眉間に皺を寄せ、瑛斗の顔を見つめている。
つい笑ってしまった。
動揺する先生に向かって、瑛斗はおかしすぎて込み上げた涙を指で拭いながら言ってやった。
「その言葉そのまんま、先生に返したいんだけど」
「えっ」
明らかに動揺の種類が変化した。硬直する先生の顔をまっすぐ見据え、瑛斗は言った。
「先生の方が、よっぽどつらそうじゃん」
マグカップの横に所在なく置かれた細い指に、瑛斗は無意識のうちに自分の手を重ねた。
その指は、驚くほど冷たく感じられた。
「先生こそ……大丈夫?」
冷たい指をぎゅっと握った。
硬直したまま瑛斗を凝視していたアーモンド型の瞳が揺れ、みるみるうちに涙を湛えた。
片手で顔を覆ってしまったその人の手を、瑛斗はひと言も発さず、ただじっと握り続けた。
しばらく肩を震わせた後、先生は手のひらで涙を拭いながら恥ずかしそうに「ごめん」と言い、瑛斗からそっと手を引いた。
「……それで、用事はなんだったの?」
目の縁を赤くしたまま教師の顔つきに戻る。瑛斗は「しゅーちゃんの顔見に来ただけ」と言い、すっかりぬるくなったお茶を飲み干した。
しゅーちゃんって言うな、と唇を尖らせる先生に「ごちそうさま」と言い、逃げるように部屋を出た。
ドアを閉める瞬間まで、先生は困惑した表情で瑛斗を見つめていた。
群青色に染まりつつある空を見上げながら、手のひらを何度も握り締めた。そこにはいつまでたっても、先ほどまで触れていた人の体温が残っていた。
瑛斗は初めて野球部を辞めたことを後悔した。
手の皮が剥けるまで一心不乱にバットを振りたい気分だった。
帰りの自転車の道のりはいつも以上に寒く、寂しく感じられた。
昨夜のホテルの前を通りがかると何故か無性に腹立たしくなってきて、瑛斗は暗い路地の中、全力でペダルを漕いだ。
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