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おやじの決断
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新緑の季節、時折吹く優しい風に吹かれて、木々の若葉が音を立てて揺れている。
武藤あいねは、自転車に乗ってケヤキ並木の下をひたすらペダルを漕いだ。背中には、小さな体に似合わない大きなリュックを背負い、額には大粒の汗を光らせ、若葉のトンネルの下をひたすら走り続けた。
歩道を行く背広姿の人達を横目に、吹き付ける南風を背に受けながら自転車で走り続けると、やがてオレンジのラインが入った電車が、高架橋の上を颯爽と駆け抜ける姿が目に入って来た。高架橋に沿って続く細い路地に入ると、道行く人の数も徐々に増え始めた。増え続けていた人の群れは、やがて「JR武蔵境駅」と書かれた看板が掲げられた駅舎と次々と吸い込まれていった。
武蔵境駅周辺には多くの大学が立地しており、駅にはサラリーマンに交じって、多くの学生が行き交っている。駅北口の「すきっぷ通り」沿いを中心に、学生向けの安くて盛りのいい定食屋や中華料理店、チェーン店の居酒屋、そしてちょっぴりおしゃれなカフェもあって、昼夜を問わず授業を終えた学生が闊歩していた。
あいねは、中央線沿いに延びる細い道沿いに立地する定食屋「こもれび食堂」の前に自転車を停めると、そそくさと店内に入っていった。
店内では、白い調理服に身を包んだ店長の大上誠司が、年季の入った大きなフライパンに火をかけ、調理を始めている様子だった。
「こんにちは! 店長」
「おお、あいねちゃん。今日は早いね。こないだ遅刻してこっぴどく怒られたから、今日は早く来たんだね」
「だって……同じ失敗はしたくないもん」
あいねは頭に三角巾をまとうと、手を背中に回し、エプロンの紐を縛った。その時あいねは、奥のテーブルに何人かの若い男性が待機し、学校の試験の話やアルバイトの話などをしているのが耳に入った。
「あら、お客さんもう来てるんですか? 」
「うん。開店前から店の前に居てね、これから店を開けるからまだ早いよって忠告したんだけど、それならば開店まで待ってるっていうから、それなら店の中で待ってろって言って。で、中に入れたら、今度は腹減ったって騒ぎだしたから、急いで準備してるところなんだ」
「何だかわがままな人達ね。じゃあ、私も急いで手伝いますね」
「ああ。じゃあ、ご飯を盛り付けてくれるかい? 」
あいねは、炊飯器の中のご飯を撹拌し、大きな皿の上にめいっぱい盛り付けた。
このお店の売りは、皿の上にこんもりと小さな丘が出来る位、とことんまで盛り付けられるライスである。ハーフサイズもあるが、それでもお茶椀一杯半位の量である。しかし、お金があまり無い上、食べ盛りの学生達にはそんなことは関係ない。安い上、腹一杯になるまで食べさせてくれるこの店は、近隣の学生達のニーズを十分満たしていた。事実、誰一人としてご飯を皿の上に残すなんてことは無い。
今日の日替わり定食のメインは手作りのハンバーグ。そこに生野菜たっぷりのサラダと味噌汁が付く。食べ終わると、誰もが満足して帰って行く。
開店前に並んでいた学生たちのテーブルに、ライスとおかず、サラダに味噌汁が並べられると、彼らは割り箸を片手に、一目散に食べ続ける。十分も経たぬうち、あれほど盛り付けられた皿は何も残らずテーブルの上に置かれていた。
「ごっちそうさまあ。今日も旨かったよ、おやじ」
「ありがとね」
学生は帰り際、誠司とにこやかに会話を交わしていく。
誠司はいつも、口数が少ない。客同士の会話に割り込んでくることもほとんど無い。
だけど、少ない口数の中に、強烈なほどの愛情を感じてしまう。
この日、あいねは買ったばかりの白地に小さな花柄をあしらったブラウスを着てきたが、誠司はそれを横目で見ると、「その花柄、あいねちゃんの雰囲気に合うよ。良い買い物したね」とだけ言って、またフライパンに目線を向けたまま、無口になった。
しばらくすると、がっしりした体格の若者達がぞろぞろと店内に入って来た。
着ているジャージを見ると、近くの大学のサッカー部のようだ。彼らの会話に耳を傾けると、どうやら関東大学リーグで連敗したようで、彼らの周りだけがしんと静まった「お通夜」状態であった。
すると、誠司はお盆に普通の三倍近くはあるライスと、皿からはみ出してしまうほどの豚肉の生姜焼きとキャベツの千切りを盛り付け、学生たちのテーブルに向かった。
「残念だったな。ほら、特製の『とりあえず元気出せよ定食』を作ったから、食べろよ。少しライスと焼肉の量をサービスしといたからさ。元気だしてまたこの次頑張れよ」
それだけ言うと、テーブルの上にドンと強烈な音を立て、皿を置いていった。
カウンターに座ったこの春卒業してこの土地から旅立っていくという学生には、「なんだか寂しくなるな。餞別は何も出せないけど、餞別の代わりにこれ食べていきなよ」と言って、この店の「裏メニュー」であり、地元学生の間で語り継がれる名物メニューである「頑固おやじのオムライス」を作ってくれた。
名前だけ聞くと何だか硬派なイメージだが、誠司が名付けたわけでなく、学生達の間でいつの間にかそう呼ばれるようになった。フライパンでしっかり炒めたケチャップライスを薄い卵焼きでくるんで作った、昔ながらの家庭的なオムライスである。しかし、シンプルで優しい味付けが、学生達にとっては遠く離れて暮らす両親のことを思い出したりするようで、ひそかに評判を呼んでいた。
そんなある日、誠司はランチタイムの営業を終えると、いつものように奥の部屋で煙草を吸いながら、ゆっくり休憩していた。テーブルの上の食器を片付けると、一枚一枚丁寧に洗っていたあいねに、奥の部屋から声が聞こえた。
「あいねちゃん、ちょっと話があるんだ」
あいねは皿を洗っていた手を止めて、そそくさと奥の部屋に入っていった。
「どうしたんですか、店長? 」
誠司は、怪訝そうな顔で煙草を灰皿に擦り付けると、一言、呟くように話した。
「俺さ、この店、閉めようと思うんだ」
「ほ、本当ですか……」
誠司の口からこぼれた言葉に対し、あいねは何も言えず、全身が硬直した。
武藤あいねは、自転車に乗ってケヤキ並木の下をひたすらペダルを漕いだ。背中には、小さな体に似合わない大きなリュックを背負い、額には大粒の汗を光らせ、若葉のトンネルの下をひたすら走り続けた。
歩道を行く背広姿の人達を横目に、吹き付ける南風を背に受けながら自転車で走り続けると、やがてオレンジのラインが入った電車が、高架橋の上を颯爽と駆け抜ける姿が目に入って来た。高架橋に沿って続く細い路地に入ると、道行く人の数も徐々に増え始めた。増え続けていた人の群れは、やがて「JR武蔵境駅」と書かれた看板が掲げられた駅舎と次々と吸い込まれていった。
武蔵境駅周辺には多くの大学が立地しており、駅にはサラリーマンに交じって、多くの学生が行き交っている。駅北口の「すきっぷ通り」沿いを中心に、学生向けの安くて盛りのいい定食屋や中華料理店、チェーン店の居酒屋、そしてちょっぴりおしゃれなカフェもあって、昼夜を問わず授業を終えた学生が闊歩していた。
あいねは、中央線沿いに延びる細い道沿いに立地する定食屋「こもれび食堂」の前に自転車を停めると、そそくさと店内に入っていった。
店内では、白い調理服に身を包んだ店長の大上誠司が、年季の入った大きなフライパンに火をかけ、調理を始めている様子だった。
「こんにちは! 店長」
「おお、あいねちゃん。今日は早いね。こないだ遅刻してこっぴどく怒られたから、今日は早く来たんだね」
「だって……同じ失敗はしたくないもん」
あいねは頭に三角巾をまとうと、手を背中に回し、エプロンの紐を縛った。その時あいねは、奥のテーブルに何人かの若い男性が待機し、学校の試験の話やアルバイトの話などをしているのが耳に入った。
「あら、お客さんもう来てるんですか? 」
「うん。開店前から店の前に居てね、これから店を開けるからまだ早いよって忠告したんだけど、それならば開店まで待ってるっていうから、それなら店の中で待ってろって言って。で、中に入れたら、今度は腹減ったって騒ぎだしたから、急いで準備してるところなんだ」
「何だかわがままな人達ね。じゃあ、私も急いで手伝いますね」
「ああ。じゃあ、ご飯を盛り付けてくれるかい? 」
あいねは、炊飯器の中のご飯を撹拌し、大きな皿の上にめいっぱい盛り付けた。
このお店の売りは、皿の上にこんもりと小さな丘が出来る位、とことんまで盛り付けられるライスである。ハーフサイズもあるが、それでもお茶椀一杯半位の量である。しかし、お金があまり無い上、食べ盛りの学生達にはそんなことは関係ない。安い上、腹一杯になるまで食べさせてくれるこの店は、近隣の学生達のニーズを十分満たしていた。事実、誰一人としてご飯を皿の上に残すなんてことは無い。
今日の日替わり定食のメインは手作りのハンバーグ。そこに生野菜たっぷりのサラダと味噌汁が付く。食べ終わると、誰もが満足して帰って行く。
開店前に並んでいた学生たちのテーブルに、ライスとおかず、サラダに味噌汁が並べられると、彼らは割り箸を片手に、一目散に食べ続ける。十分も経たぬうち、あれほど盛り付けられた皿は何も残らずテーブルの上に置かれていた。
「ごっちそうさまあ。今日も旨かったよ、おやじ」
「ありがとね」
学生は帰り際、誠司とにこやかに会話を交わしていく。
誠司はいつも、口数が少ない。客同士の会話に割り込んでくることもほとんど無い。
だけど、少ない口数の中に、強烈なほどの愛情を感じてしまう。
この日、あいねは買ったばかりの白地に小さな花柄をあしらったブラウスを着てきたが、誠司はそれを横目で見ると、「その花柄、あいねちゃんの雰囲気に合うよ。良い買い物したね」とだけ言って、またフライパンに目線を向けたまま、無口になった。
しばらくすると、がっしりした体格の若者達がぞろぞろと店内に入って来た。
着ているジャージを見ると、近くの大学のサッカー部のようだ。彼らの会話に耳を傾けると、どうやら関東大学リーグで連敗したようで、彼らの周りだけがしんと静まった「お通夜」状態であった。
すると、誠司はお盆に普通の三倍近くはあるライスと、皿からはみ出してしまうほどの豚肉の生姜焼きとキャベツの千切りを盛り付け、学生たちのテーブルに向かった。
「残念だったな。ほら、特製の『とりあえず元気出せよ定食』を作ったから、食べろよ。少しライスと焼肉の量をサービスしといたからさ。元気だしてまたこの次頑張れよ」
それだけ言うと、テーブルの上にドンと強烈な音を立て、皿を置いていった。
カウンターに座ったこの春卒業してこの土地から旅立っていくという学生には、「なんだか寂しくなるな。餞別は何も出せないけど、餞別の代わりにこれ食べていきなよ」と言って、この店の「裏メニュー」であり、地元学生の間で語り継がれる名物メニューである「頑固おやじのオムライス」を作ってくれた。
名前だけ聞くと何だか硬派なイメージだが、誠司が名付けたわけでなく、学生達の間でいつの間にかそう呼ばれるようになった。フライパンでしっかり炒めたケチャップライスを薄い卵焼きでくるんで作った、昔ながらの家庭的なオムライスである。しかし、シンプルで優しい味付けが、学生達にとっては遠く離れて暮らす両親のことを思い出したりするようで、ひそかに評判を呼んでいた。
そんなある日、誠司はランチタイムの営業を終えると、いつものように奥の部屋で煙草を吸いながら、ゆっくり休憩していた。テーブルの上の食器を片付けると、一枚一枚丁寧に洗っていたあいねに、奥の部屋から声が聞こえた。
「あいねちゃん、ちょっと話があるんだ」
あいねは皿を洗っていた手を止めて、そそくさと奥の部屋に入っていった。
「どうしたんですか、店長? 」
誠司は、怪訝そうな顔で煙草を灰皿に擦り付けると、一言、呟くように話した。
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「ほ、本当ですか……」
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