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ありがとうが言いたくて
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終電の時間が近づき、店に所狭しと座っていた常連客たちは、続々と店を出て行った。あいねは入口の暖簾を片付け、閉店の準備を始めようとしていた。
その時、黒く長い髪をなびかせ、大きめの真っ黒なサングラスをかけた女性が、あいねのすぐ後ろに立ち、あいねの肩を軽く叩いた。
「ねえ、まだお店は開いてるかしら? 」
「もうそろそろ店じまいですけど」
「ちょっとだけならいいでしょ? 店長さんとどうしても話がしたいの」
「でも、もう食材もほとんどないですし」
「それでもいいの。私は店長さんとお話さえできればいいのよ」
女性はサングラスの奥から、鋭い眼光であいねを睨みつけてきた。
ただならぬ怖さを感じたあいねは、暖簾をふたたび掲げると、慌てて誠司の元へと駆け寄った。
「店長、どうしても店長とお話がしたいってお客さんが来てるんですけど……お断りしましょうか? 」
誠司はしばらく考え込んだ後、カウンターから出て玄関のドアを開けると、女性は大きなサングラスを外すと、笑顔で手を振った。
「おや、麻里絵ちゃん? 」
「そうだよ、木下麻里絵だよ。お久しぶり」
「どうしたんだ? もう大学は卒業したのか? 」
「うん。何だかんだで、五年かかったけどね。人に会いたくなくて、出来る限り夕方とか夜間の講義を受けていたから、時間がかかっちゃった。卒業してからは、自分のペースで仕事ができるインターネットビジネスを始めたんだ」
「そうか……とりあえず仕事にありついたようで、良かったね」
「ごめんね、こんな遅い時間に。人が多い場所に入るのは、やっぱりまだ怖くて」
「今日はもう他にはお客さんもいないし、入れよ。たいしたものはできないけど、いいかい? 」
「うん」
女性はカウンターに腰かけると、コートのポケットから煙草を取り出し、火を灯すと、店内を見渡した。
「もうメニューの札が取り外してあるのね。やっぱり、この店を閉めるって話は本当だったのね」
「誰かから聞いたの? 」
「大学の同級生が、教室でそんな噂話をしてたのが耳に入って来たのよ」
「ふーん。あまり大っぴらにしてなかったんだけどね」
店長は炊飯器の中にかろうじて残っていたわずかな量の白飯を取り出すと、フライパンで手早く炒め、卵でくるめてあっという間にオムライスを作り上げた。
その手際の良さを、あいねは傍で何も言わずに眺めているだけだった。
「わあ! これ、『おやじのオムライス』じゃん。すごく食べたかったんだ、ありがとう」
「アハハ、その名前、誰が付けたんだろうな? 俺は、普通のオムライスを作ってるつもりなんだけどさ」
「だって、この味は店長さんしか出せないもん。同級生の間でもその名前で定着してるよ」
「まあ、どんな呼び方でもいいけどね。とりあえず、麻里絵ちゃんに作ったオムライスで、うちの店のお米は全部使い切ったからさ。おかわりはダメだぞ」
「ありがとう。頂きます」
麻里絵はスプーンで丁寧に卵をすくい、ケチャップライスとともにぞっと口に入れた。
「やっぱり美味しい! 食べに来て良かった」
麻里絵のスプーンを動かす手は次第に速くなり、あっと言う間にオムライスを平らげてしまった。
「ねえ、店長さん。ここを閉める気持ちは変わりはないの? 」
「ないね」
「私、ここがあったから今日まで生きてこれたのよ。店長さんとここの料理が、私の心の支えだったのよ」
「俺は何もしてねえよ」
「私がはじめてこの店に来た当時、大学受験に失敗して滑り止めの大学に入って、友達もなかなかできなくて、色んな意味で自信を失くしてたんだ。あの頃から私は人に会いたくなくて、真夜中に出歩くようになったんだ」
麻里絵はコップの水を飲みながら、ゆっくりとした口調でこの店で出会った当時の話を語りだした。
「ある日、いつものように夜道を散歩していたら、突然大雨が降ってきて、私は傘も無くてうなだれたままこの店の前に立っていたんだ。その時、店長さんは私を手招きして店の中に入れてくれたよね? 店に入った後も、座ったまま注文もせずうつむいてた私に、何も言わずにこの『おやじのオムライス』を作ってくれたよね?『食べ切れなかったら、残してもいいから、ゆっくり食べろ』って言ってさ」
「俺もその時のこと、よく覚えてるよ。俺が暖簾片付けていたら、麻里絵ちゃんが死にそうな顔で店の前に突っ立ってたんだもん。この子はこのままここで死んじゃうんじゃないかと思って、心配しちゃったんだよ」
「あの時食べたオムライス、おいしくておいしくて涙が止まらなかった。こんな私でも受け入れてくれる場所があったことが嬉しかったんだよ」
麻里絵は片手で何度も涙を拭うと、コップに残っていた水を一気に飲み干した。化粧した目元に涙が滲み、目の辺りがちょっと黒っぽくなっていたけれど、あいねはそのことには触れず、二人の会話をそっと見守っていた。
「俺、中学卒業してすぐ鉄工所に就職したんだけど、給料なんて雀の涙程度だった。その夏、やっともらえたボーナスで何か美味しいものを食べようって思って、で、たどり着いたのが工場の近くのラーメン屋だった。俺はラーメンの普通盛りを注文したのに、そこのおじさん、俺のことを見るに見かねて、頼んでもいない大盛のラーメンライスを出してくれたんだ。そのことがずーっと忘れられなくてね。俺は、いつか料理人になろうって決意したんだ」
「それで、この店を? 」
「そうだよ。鉄工所辞めて、旅館だのレストランだの渡り歩いて、たどりついたのがここだった。ここ、人の息遣いまで聞こえてくるような狭い場所だろ? 俺にとってはそれが妙に心地よかったんだよね。俺が昔親切にしてもらったあのラーメン屋みたいだった。あまりにも心地よかったからか、この店の先代の店長が『お前はこの店にいる時、すごく嬉しそうだな?何なら、この店をお前に譲ってやるよ』って言ってくれてね。気が付いた時には、俺がこの店の店長になってたんだ」
すると麻里絵は、目頭を押さえながらも甲高い声で笑い出した。あいねも、麻里絵に釣られるかのように笑い出した。誠司は今まで、自分の生い立ちやこれまでの仕事について、そしてなぜこの仕事を始めたのかを語ってくれたことは無かった。よりによって、店最後の日にそんな話を聞けるなんて、夢にも思わなかった。
そして、この店がこれで終わること、誠司と一緒に仕事できることも無くなることへの寂しさが一気にこみ上げた。
「麻里絵ちゃん、元気でな。君なら、一人でもきっといい仕事ができると信じてるよ」
「ありがと。店長さんに言われるとちょっと自信湧いたかも。がんばるね」
そういうと、麻里絵は前のめりの姿勢で身体をカウンターの向こうへ倒すと、食器を洗っていた誠司の頬にキスした。
「お、おい! 突然ビックリするじゃねえかよ! 」
「いいのよ。私からのささやかな餞別だから」
「麻里絵ちゃん、夜ばっかりじゃなく、たまには昼間も出歩くんだぞ」
「はーい。少しずつ、ね」
麻里絵は舌を出して笑うと、席に戻ってサングラスをかけ、手を振って店のドアを閉めた。
「帰りましたね。店長、暖簾、外してもいいですか? 」
「ああ」
誠司の言葉は、いつものような力が無く、寂しさを感じた。
あいねはドアを開けると、「こもれび食堂」と書かれた古い布製の暖簾を外した。
暖簾を店の中に仕舞い込んだその時、あいねはそれまで抑えてきた感情が一気に湧き出した。
「店長! 」
「なんだい、あいねちゃん」
「私……まだ、ここを辞めたくない!」
「何言いだすんだよ、今更」
「だって……私、ここを閉めてもらいたいなんてこれっぽっちも思ってないし、もっともっと続けて欲しいんです。店長の身体がきついと感じてるのならば、私はもっとシフトを入れて手伝いますから! だから……お願い。閉めないでっ! 」
しかし、誠司は表情を変えず、あいねの両肩に手を置いた。
「気持ちは分かったよ。嬉しいよ、あいねちゃん。だけどな、俺はここをいつか終わりにしようと決めていたんだ。その終わりの時が来た。それだけのことだよ」
誠司はレジを開けると、万札数枚を取り出し、封筒に入れてあいねに手渡した。
「あいねちゃんはよそでも十分やれるさ。今まで本当にありがとう」
「店長……」
「さ、今夜は遅いから、帰れよ。俺はこれからこの店の片付けをしないといけない。色々名残惜しいけど、やらなくちゃな」
誠司はあいねの手を引き、そっと入口のドアを開けた。
「ありがとう。あいねちゃんは俺の最高の助手だったよ」
「え?それって……響子さんじゃなくて? 」
「ばれたか」
「んも~!何よ、最後の最後に! 」
誠司は笑いながら、ドアをゆっくりと閉めた。そして、内側から鍵がかかる音がした。店の明かりはついたまま、食器などを片付ける音が延々と続いた。
あいねは自転車にまたがり帰ろうとしたが、その様子を、ずっと遠くから見つめ続けた。
しばらくすると片付けの音が止み、同時に、何度も咳き込みながら激しく嗚咽する声が聞こえてきた。
「店長……」
あいねは遠くからその声を聞いていた。
大きな瞳を涙で真っ赤に腫らしながら。
その時、黒く長い髪をなびかせ、大きめの真っ黒なサングラスをかけた女性が、あいねのすぐ後ろに立ち、あいねの肩を軽く叩いた。
「ねえ、まだお店は開いてるかしら? 」
「もうそろそろ店じまいですけど」
「ちょっとだけならいいでしょ? 店長さんとどうしても話がしたいの」
「でも、もう食材もほとんどないですし」
「それでもいいの。私は店長さんとお話さえできればいいのよ」
女性はサングラスの奥から、鋭い眼光であいねを睨みつけてきた。
ただならぬ怖さを感じたあいねは、暖簾をふたたび掲げると、慌てて誠司の元へと駆け寄った。
「店長、どうしても店長とお話がしたいってお客さんが来てるんですけど……お断りしましょうか? 」
誠司はしばらく考え込んだ後、カウンターから出て玄関のドアを開けると、女性は大きなサングラスを外すと、笑顔で手を振った。
「おや、麻里絵ちゃん? 」
「そうだよ、木下麻里絵だよ。お久しぶり」
「どうしたんだ? もう大学は卒業したのか? 」
「うん。何だかんだで、五年かかったけどね。人に会いたくなくて、出来る限り夕方とか夜間の講義を受けていたから、時間がかかっちゃった。卒業してからは、自分のペースで仕事ができるインターネットビジネスを始めたんだ」
「そうか……とりあえず仕事にありついたようで、良かったね」
「ごめんね、こんな遅い時間に。人が多い場所に入るのは、やっぱりまだ怖くて」
「今日はもう他にはお客さんもいないし、入れよ。たいしたものはできないけど、いいかい? 」
「うん」
女性はカウンターに腰かけると、コートのポケットから煙草を取り出し、火を灯すと、店内を見渡した。
「もうメニューの札が取り外してあるのね。やっぱり、この店を閉めるって話は本当だったのね」
「誰かから聞いたの? 」
「大学の同級生が、教室でそんな噂話をしてたのが耳に入って来たのよ」
「ふーん。あまり大っぴらにしてなかったんだけどね」
店長は炊飯器の中にかろうじて残っていたわずかな量の白飯を取り出すと、フライパンで手早く炒め、卵でくるめてあっという間にオムライスを作り上げた。
その手際の良さを、あいねは傍で何も言わずに眺めているだけだった。
「わあ! これ、『おやじのオムライス』じゃん。すごく食べたかったんだ、ありがとう」
「アハハ、その名前、誰が付けたんだろうな? 俺は、普通のオムライスを作ってるつもりなんだけどさ」
「だって、この味は店長さんしか出せないもん。同級生の間でもその名前で定着してるよ」
「まあ、どんな呼び方でもいいけどね。とりあえず、麻里絵ちゃんに作ったオムライスで、うちの店のお米は全部使い切ったからさ。おかわりはダメだぞ」
「ありがとう。頂きます」
麻里絵はスプーンで丁寧に卵をすくい、ケチャップライスとともにぞっと口に入れた。
「やっぱり美味しい! 食べに来て良かった」
麻里絵のスプーンを動かす手は次第に速くなり、あっと言う間にオムライスを平らげてしまった。
「ねえ、店長さん。ここを閉める気持ちは変わりはないの? 」
「ないね」
「私、ここがあったから今日まで生きてこれたのよ。店長さんとここの料理が、私の心の支えだったのよ」
「俺は何もしてねえよ」
「私がはじめてこの店に来た当時、大学受験に失敗して滑り止めの大学に入って、友達もなかなかできなくて、色んな意味で自信を失くしてたんだ。あの頃から私は人に会いたくなくて、真夜中に出歩くようになったんだ」
麻里絵はコップの水を飲みながら、ゆっくりとした口調でこの店で出会った当時の話を語りだした。
「ある日、いつものように夜道を散歩していたら、突然大雨が降ってきて、私は傘も無くてうなだれたままこの店の前に立っていたんだ。その時、店長さんは私を手招きして店の中に入れてくれたよね? 店に入った後も、座ったまま注文もせずうつむいてた私に、何も言わずにこの『おやじのオムライス』を作ってくれたよね?『食べ切れなかったら、残してもいいから、ゆっくり食べろ』って言ってさ」
「俺もその時のこと、よく覚えてるよ。俺が暖簾片付けていたら、麻里絵ちゃんが死にそうな顔で店の前に突っ立ってたんだもん。この子はこのままここで死んじゃうんじゃないかと思って、心配しちゃったんだよ」
「あの時食べたオムライス、おいしくておいしくて涙が止まらなかった。こんな私でも受け入れてくれる場所があったことが嬉しかったんだよ」
麻里絵は片手で何度も涙を拭うと、コップに残っていた水を一気に飲み干した。化粧した目元に涙が滲み、目の辺りがちょっと黒っぽくなっていたけれど、あいねはそのことには触れず、二人の会話をそっと見守っていた。
「俺、中学卒業してすぐ鉄工所に就職したんだけど、給料なんて雀の涙程度だった。その夏、やっともらえたボーナスで何か美味しいものを食べようって思って、で、たどり着いたのが工場の近くのラーメン屋だった。俺はラーメンの普通盛りを注文したのに、そこのおじさん、俺のことを見るに見かねて、頼んでもいない大盛のラーメンライスを出してくれたんだ。そのことがずーっと忘れられなくてね。俺は、いつか料理人になろうって決意したんだ」
「それで、この店を? 」
「そうだよ。鉄工所辞めて、旅館だのレストランだの渡り歩いて、たどりついたのがここだった。ここ、人の息遣いまで聞こえてくるような狭い場所だろ? 俺にとってはそれが妙に心地よかったんだよね。俺が昔親切にしてもらったあのラーメン屋みたいだった。あまりにも心地よかったからか、この店の先代の店長が『お前はこの店にいる時、すごく嬉しそうだな?何なら、この店をお前に譲ってやるよ』って言ってくれてね。気が付いた時には、俺がこの店の店長になってたんだ」
すると麻里絵は、目頭を押さえながらも甲高い声で笑い出した。あいねも、麻里絵に釣られるかのように笑い出した。誠司は今まで、自分の生い立ちやこれまでの仕事について、そしてなぜこの仕事を始めたのかを語ってくれたことは無かった。よりによって、店最後の日にそんな話を聞けるなんて、夢にも思わなかった。
そして、この店がこれで終わること、誠司と一緒に仕事できることも無くなることへの寂しさが一気にこみ上げた。
「麻里絵ちゃん、元気でな。君なら、一人でもきっといい仕事ができると信じてるよ」
「ありがと。店長さんに言われるとちょっと自信湧いたかも。がんばるね」
そういうと、麻里絵は前のめりの姿勢で身体をカウンターの向こうへ倒すと、食器を洗っていた誠司の頬にキスした。
「お、おい! 突然ビックリするじゃねえかよ! 」
「いいのよ。私からのささやかな餞別だから」
「麻里絵ちゃん、夜ばっかりじゃなく、たまには昼間も出歩くんだぞ」
「はーい。少しずつ、ね」
麻里絵は舌を出して笑うと、席に戻ってサングラスをかけ、手を振って店のドアを閉めた。
「帰りましたね。店長、暖簾、外してもいいですか? 」
「ああ」
誠司の言葉は、いつものような力が無く、寂しさを感じた。
あいねはドアを開けると、「こもれび食堂」と書かれた古い布製の暖簾を外した。
暖簾を店の中に仕舞い込んだその時、あいねはそれまで抑えてきた感情が一気に湧き出した。
「店長! 」
「なんだい、あいねちゃん」
「私……まだ、ここを辞めたくない!」
「何言いだすんだよ、今更」
「だって……私、ここを閉めてもらいたいなんてこれっぽっちも思ってないし、もっともっと続けて欲しいんです。店長の身体がきついと感じてるのならば、私はもっとシフトを入れて手伝いますから! だから……お願い。閉めないでっ! 」
しかし、誠司は表情を変えず、あいねの両肩に手を置いた。
「気持ちは分かったよ。嬉しいよ、あいねちゃん。だけどな、俺はここをいつか終わりにしようと決めていたんだ。その終わりの時が来た。それだけのことだよ」
誠司はレジを開けると、万札数枚を取り出し、封筒に入れてあいねに手渡した。
「あいねちゃんはよそでも十分やれるさ。今まで本当にありがとう」
「店長……」
「さ、今夜は遅いから、帰れよ。俺はこれからこの店の片付けをしないといけない。色々名残惜しいけど、やらなくちゃな」
誠司はあいねの手を引き、そっと入口のドアを開けた。
「ありがとう。あいねちゃんは俺の最高の助手だったよ」
「え?それって……響子さんじゃなくて? 」
「ばれたか」
「んも~!何よ、最後の最後に! 」
誠司は笑いながら、ドアをゆっくりと閉めた。そして、内側から鍵がかかる音がした。店の明かりはついたまま、食器などを片付ける音が延々と続いた。
あいねは自転車にまたがり帰ろうとしたが、その様子を、ずっと遠くから見つめ続けた。
しばらくすると片付けの音が止み、同時に、何度も咳き込みながら激しく嗚咽する声が聞こえてきた。
「店長……」
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