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前編

前編4

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 夕方の六時を回る頃、風羽は自宅に着いた。玄関から入って居間に向かう途中で、匡の声が聞こえてくる。

「そう、だから、俺たちのことは心配しなくていいんですよ。お父さんは、お父さんの人生を歩んでください。応援してますから」

 穏やかな、まるで教師のように教え諭す口ぶりだった。相手を「お父さん」と呼んでいるから、匡は海外赴任している和正と話しているのか。

「お兄ちゃん、ただいま」

 居間に顔を出した風羽を、匡が手招きする。

「風羽、お父さん、お父さん! 和正パパと、WEBで話してるとこ。おいで!」

 匡の前のテーブルにはノートパソコンが置かれており、思ったとおり画面には、父・和正が映っていた。

「あっ、お父さん」

 匡に譲られた席に着き、挨拶もそこそこに、風羽は早速、和正に尋ねようとした。もちろん、匡と自分の関係についてだ。が、画面の中の父は、こころなしか元気がない。

「風羽、ごめんなあ。僕、風羽も覚えてるって、思い込んでたんだよ。匡くんと風羽が、本当の兄妹じゃないって……」

 風羽の聞きたかったことは、どうやら既に匡が話題にしていたらしい。

「覚えてないよ~!」

 風羽はプリプリ怒って抗議した。
 血縁関係がないと知っていたら、匡と二人だけで暮らすことに同意しただろうか。
 いや、さすがにぼんやりしていると自覚のある風羽だって、それは避けたはずなのだ。

「どうしても匡くんと同居するのが嫌だったら、僕、帰国しようか……?」

 和正はちらっと、視線を風羽から外した。画面の外にいる匡を意識しているようだ。
 当の匡は風羽たちのことは気にも留めず、冷蔵庫からお茶を出して飲んでいる。

「えー。でも、お父さん、お仕事ほっぽり出せないでしょ? 同僚さんたちにも迷惑だろうし」

 和正は現地の責任者で、多くの部下を従えているはずだ。赴任期間もまだまだ残っていて、定年間近にならないと日本には戻って来られないと聞いている。

「うーん、すまないな……。でも、耐えられなくなったら、いつでも言いなさい。また考えよう」
「う、うん……」

 声を潜める和正に、風羽は曖昧に返事をした。
 父は「耐えられなくなったら」と言うが、匡との生活に不満を抱くというのも失礼な話である。
 実際、昨日まではなんの問題もなかった。匡と協力し合って、楽しくやってきたのだから。
 ――そう、兄があんなことを言い出さなければ、平和な日々がずっと続くはずだったのに。








 予告どおり、匡は風羽の誕生日を祝うために、ご馳走を用意して待っていてくれた。

「お誕生日おめでとう、風羽。さあ、召し上がれ~」
「わあああ……!」

 テーブルに並んだ品々を前に、風羽は目を瞠った。

「ま、買ってきたものばっかりなんだけど」

 匡の説明によると、用意された料理の半分は、デパ地下で買ってきたオードブルだそうだ。が、慎ましい暮らしをしている兄妹にとって、それはそれでかなりの贅沢といえる。
 焼き野菜のカプレーゼ、キャロットラペ、ほうれん草とハムのキッシュ。
 メインディッシュは、匡特製のビーフシチューだった。滅多に買わない高級な肉をじっくり煮込んで作るそれは、プロが作ったものにも引けを取らない。風羽はそう思っているが、まあ、身内贔屓もあるだろう。
 匡は最後に、スパークリングワインを取り出した。

「じゃーん。オシャレでしょ? でもこれ開けるとき、コワイんだよね……」
「分かる。ちょっとした兵器だよね」

 匡はおっかなびっくりワインの栓を抜くと、瓶の中身を、食器棚の奥から引っ張り出してきたらしいフルートグラスに注いだ。

「おお~……。いつもと全然違ーう……!」

 風羽はキラキラと瞳を輝かせながら、細かい泡の立つ薔薇色のワインを見詰めた。

「うちのご飯は地味だからねえ」

 匡の言うとおり普段の久宗家の食事は、調理のスピードや栄養重視で、盛りつけや食器は適当なのだ。しかし今夜は、見た目にもこだわっている。まるで高級レストランのよう……とは言い過ぎだろうが、気合いが入っているのは確かだ。

「さ、召し上がれ」
「うん!」

 匡に促されて、風羽は早速シチューを口にした。

「ああー! 美味しい~! この味! この味ですよ~! お兄ちゃん、天才!」
「はいはい、ありがと。たくさん作ったから、たーんとお食べなさい」
「お兄ちゃん、好き! 愛してる! ……あっ」

 浮かれたせいで軽率なことを言ってしまったと、風羽は口を噤んだ。
 一人の男性に「好き」とか「愛してる」とか……。これは良くなかっただろうか。
 しかし匡は気にした様子もなく、ニコニコといつもどおり笑っている。

「……………」

 風羽はじっと匡の顔を見詰めた。

 ――もしかして、お兄ちゃんに告白されたのって、夢だったんじゃないかな?

 血が繋がっていないのは確かなようだが、兄が自分のことを女の子として好きだなんて、なにかの気の迷いで。 
 ――そうだ、きっとそうだ。正気に戻った兄は、だからいつもと態度が同じなのだ。

「どうしたの? ほら、食べな?」
「……うん!」

 風羽は気を取り直し、テーブルの上の逸品に、次々手を伸ばした。
 兄妹の穏やかなひととき。
 ――風向きが変わったのは、誕生日の宴が終わったあとだった。




 片付けを手伝ったあと、風羽はコーヒーを淹れたカップを二つ持ち、隣室のリビングに移った。ソファを陣取ってテレビを点けると、人気の恋愛ドラマにチャンネルを合わせる。

「風羽は昔からそういう、ドロドロっとねちょねちょっとしたドラマ、好きだよね~」

 後からやってきた匡にからかわれて、風羽は唇を尖らせた。

「いいでしょ! 現実とかけ離れてるぶん、楽しめるんだってば!」
「いやいや……。ちびっこのときから、意味を分かってるんだか分かってないんだか、大人向けのドラマを熱心に見てて……。ませた子になるんじゃないかとヒヤヒヤしたけど、実際は幼稚なままだったっていう」

 匡はいつもどおり風羽の斜め前に座ると、自分のマグカップを引き寄せた。

「うるさいなー! フィクションに影響されたりはしません!」
「そうかな~?」

 一口コーヒーを飲んだあと、匡は風羽に向き直った。

「――とりあえず、今日はたくさん食べてくれてよかった。風羽、最近ちょっと元気なかったでしょ? 心配してたんだ」
「あ……」

 兄の気遣いが嬉しいと同時に、ここ最近の悩みごとを思い出してしまい、風羽の表情は曇った。
 ――些細なことだけど、相談してしてみようか。こう見えても匡は年長者だし、良いアドバイスが貰えるかもしれない。
 こうして風羽は、胸に抱えていたとある問題を打ち明けることにした。
 いわく、ここ一、二ヶ月ほど、同じサークルの先輩に付きまとわれている。
 相手は一学年上の、「後藤 有(ごとう ゆう)」という男子学生だ。
 きっかけは、定例の飲み会でたまたま隣同士になったこと。そこで数回話しただけで、後藤は風羽との距離を一方的に詰めてきたのだ。

「学校に行けば、毎回お昼に連れて行かれるし。日に何度も何十通もメッセージ送ってくるし。遊びに行こうとも、しつこく誘われてる。それは断ってるけど。一緒にいると不自然なボディタッチとかされて、なんだか怖いの」
「……………」

 堰を切ったように一気に愚痴を吐き出し、すっきりしたところで、風羽はふと顔を上げた。
 ――匡が、静かだ。




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