明るい奴隷生活のススメ

犬噛 クロ

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 そろそろ長袖の服を出さないと。確か昨日も同じことを思ったのに、家に帰ってきた途端、忘れてしまうのはなぜなんだろう。

「ただいまー」

 仕事を終えて、寄り道をして、だから帰りが遅くなったが、今日はさほど疲れていない。それはこの収穫のおかげだろうと、私は持っていた紙袋を胸に抱きかかえた。
 靴を脱いで家の中に入ると、短い廊下の先から、エプロンを着けた母がひょいと顔を出す。辺りには、デミグラスソースの香ばしい匂いが漂っていた。
 今日の晩御飯はハンバーグと見たが、どうか。

「おかえり、都。今日はお風呂の前に、ご飯食べちゃいなさい。光也の部屋に葉多(ようた)くんがいるから、連れて下りておいで」
「ヨータ? あいつ、また来てるの?」
「ふふふ。帰ってくるところを見かけたから、また拉致しちゃった」

「葉多」は家族ぐるみでつき合いのある、近所の男の子だ。うちの不肖の弟の親友でもある。

「もー。お節介だなあ」
「いーじゃないの、賑やかで。だいたい、春に光也が東北に行っちゃってから、ご飯作る張り合いがなくって。葉多くんにいっぱい食べてもらえると嬉しいのよ」
「あっそ」

 私は他人に食事を振る舞うなんて面倒なだけだと思うけれど、母は違うらしい。
 これも母性本能のひとつなのだろうか。感心半分呆れ半分の気持ちになりながら、私は階段を上った。
 二階には両親の寝室と、私と弟の部屋がそれぞれある。ただし弟の光也の部屋は、今は使われていない。
 光也は今春新卒で入った会社の東北支社に赴任し、旅立っていった。だけど時々は戻ってくるから、奴の部屋はそのままにしてあるのだが。

「ヨータ」

 軽くノックをしてから、光也の部屋のドアを開けた。
 ヨータ――橘 葉多(たちばな ようた)はいつもどおり弟のベッドに腰掛け、壁に寄りかかりながら漫画を読んでいた。手にしているのは、「スラムダンク」だ。何度も何度も読み返したはずだろうに、いい加減、飽きないのだろうか。

「おかえり、みゃー姉ちゃん」

 ヨータが顔を上げる。私のことを子供っぽく呼ぶ割りに、奴はニコリともしていなかった。そのギャップに、いつも笑ってしまいそうになる。
 私の名前は、上月 都。ヨータは私のことを「みやこ姉ちゃん」と呼び――たかったらしい。が、幼かった頃の彼は舌足らずで「みゃー姉ちゃん」としか言えず、それが定着してしまった。お互いいい大人になった今でも、である。

「お母さんが、ご飯だから下りてこいってさ」
「ん」
「あ、そうだ」

 漫画本を閉じてベッドから下りようとしたヨータを押し留めるように、私は持っていた紙袋を突き出した。

「なにこれ?」
「見て」

 ヨータは訝しげに紙袋を受け取ると、中に入っていた封筒を出した。開けていいのかと目で尋ねてくるので、「どうぞ」と頷いて促す。
 封筒の中には数枚の書類が入っており、ヨータはそれらに目を通し始めた。
 ――誰かに言いたくて言いたくて、たまらなかったのだ。しかし親相手だと大ごとになりそうだし、同僚や友達だとうまくまとまらなかったときに恥ずかしいし。
 その点、ヨータならちょうどいい。今回の話が成功しようが失敗しようが、こいつはいつもどおりテンション低めのまま、見届けてくれそうな気がするのだ。

「……なにこれ?」

 書類を見終えたヨータは、先ほどと同じ問いを繰り返した。

「釣書っていうの。簡易版だけどね」
「つりがき」

 ヨータに見せびらかしたのは、ある男性の釣書、つまり学歴や職歴、その他を紙にしたためたものだ。簡単に言えば、自己紹介シートといったところか。

「へっへー。遂に来たの! 理想の結婚相手が!」
「けっこんあいて……!?」

 我ながら、唐突な切り出し方だったと思う。いつもぼさっとぼけっとしているヨータもさすがに驚いたらしく、切れ長の目がまん丸になっている。

「え? みゃー姉ちゃん、結婚すんの? え? え? じゃあ、この人、恋人……!?」
「いや、違う。知らない人。今度会うけどね」
「え? え? 全然意味が分かんないんだけど!」
「実はねー、私、結婚相談所に入会してたの。その人は、そこで紹介してくれたってわけ」

 釣書の主の名は、不破 健人さんという。三十二歳のバツイチ。勤め先は某省庁。国家公務員総合職というご身分だ。

「いやー、結婚相談所も今までイマイチでさあ。こっちは結構な額のお金を払ってるのに! 別んとこに変えようかなって迷ってたら、ようやくキタわけよ! スーパー完璧超人が!」

 私は胸を張って高らかに宣言してから、ヨータの隣に腰を下ろした。

「完璧超人って……。おじさんじゃん。離婚歴ありって書いてあるし」

 釣書に添えられた不破さんの写真を見ながら、ヨータは意地悪く鼻で笑った。

「三十二なんて、全然おじさんじゃないよ。この間紹介された人なんて、四十だったからね。バツイチっていうのも、まあ子供がいなければ気にならないかな」
「でも……!」

 ヨータは手元の書類と私の顔を交互に見比べて、なにか言いたそうにしている。
 あら探しをするつもりだな? しかし発見には至るまい。
 私だって不破さんの釣書をもう軽く百回は読んでいるけれど、バツイチであることと、強いて言うなら少しぽっちゃりしているくらいしか、難を見つけることはできなかったのだから。

「……………………」

 いちゃもんをつけるのを諦めたのか、ヨータは封筒に釣書をしまうと、私に返した。

「ていうか、結婚? みゃー姉ちゃんが? まだ早くない?」
「早くないよ。私、もうじき二十八だよ」
「だ、だって今って、結婚は三十越えてからが普通じゃん」
「適齢期は人それぞれでしょ。私の場合、今からでも遅いくらいだもん」

 この世間知らずめ。でもヨータは私より四つも下だし、まだ学生だから、感覚が違ってもしょうがないのかもしれない。

「私はともかく子供が欲しいわけ。それもいっぱい、たくさん、最低三人は。仮に二年ごとに産むとしてー、体力も使うだろうしー……。ほら、今すぐ結婚して子作り始めても、全然遅いじゃん」

 つい拳に力が入り、不破さんの釣書というお宝の入った封筒にシワが寄ってしまった。
 長いつき合いではあるが、そういえばヨータに私の結婚観なんて語ったのは、これが初めてだ。
 ――そりゃそうか。弟の親友なんかに、そんなことを話す機会なんて、そうそうないし。

「姉ちゃん、子供好きだもんな。で、でもお見合いとか、結婚相談所とか、そういうのは不自然っていうか」
「甘い!」

 今度こそ私は掴みかかる勢いで、ヨータに力説した。

「私は子供をたくさん産んで、その子たちが大きくなるまでは、そばで見守っていたい! つまり、専業主婦志望! そんな私に必要なのは、子供たちと私を養えるだけの経済力がある男性! そんなもん、普通に暮らしてたらなかなか出会えるわけないじゃん! 使えるものは使って、貪欲に探していかないと!」
「か、金かよ! だから女は……!」
「は? なにが悪いの? 医者やら歌手やら目指して努力するのと、お母さんになるために婚活するのと、どこが違うわけ? どっちも、夢を叶えるために頑張ってるだけじゃない!」
「そ、それは」
「だいたいさあ、『経済的に頼るぶん、家庭はきちんと守る! 後方の憂いなくガッツリ稼いできて!』って、そういう奥さんのほうが助かるって男の人も、いるんじゃないの?」
「う……」

 ヨータは目を白黒させている。私の勢いに飲まれているようだ。
 しまった。アツク主張し過ぎたかもしれない。
 畳み掛けてみたものの、正直に言えば、私もちょっと引け目を感じていたのだ。
 ――今の時代、旦那さんに養ってもらうって、古風過ぎないか、と。
 でも決して、主婦のほうが楽ができるからという、自己中で怠惰な考えからではない。育児は働くよりも大変だと聞くし。
 なんにしろヨータをやり込めて、自分を正当化しようとするのは、よろしくなかったかも……。
 案の定ヨータは、泣きそうな顔をしている。

「きゅ、急だよ……。だってちっともそんな素振り見せなかったじゃねーか。結婚なんて……。男にも興味なさそうだったし」
「そりゃあ『結婚したい! 子供欲しい!』なんてガツガツしてるとこ、見せるわけないでしょー! 恥ずかしい!」

 私は明るく笑い飛ばすが、ヨータは憮然としている。
 ――そりゃそうか。
 こいつからしたら私は姉みたいなもんだし、そういう身内の人間から生々しい話を聞くのは嫌だったかもなあ。
 ――これ以上はやめておこう。
 私はベッドから下りると、うなだれているヨータに手のひらを差し出した。

「さっきのこと、うちの親にはまだ黙っておいてね。光也にもね。さ、行こう。お腹減ってる? 今日、多分ハンバーグだと思うんだよね~。ヨータ好きじゃん? うちのお母さん、ヨータの好きなものばっかり作るもんね」
「……………………」

 ヨータはベッドに座ったまま、私の手を取る。思ったより強い力で握られた。

「ん? もしかして寂しいの? 私が嫁に行ったら?」

 ニヤニヤ笑いながら尋ねると、途端にヨータは眉を吊り上げ、私の手を投げるように離した。

「結婚式には行ってやらないからな!」

 吐き捨てるように言うと、ヨータは一人で部屋を出ていってしまった。
 うーん。「寂しいよ、みゃー姉ちゃん」とでも泣きついてきたら、可愛いのにね。




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