明るい奴隷生活のススメ

犬噛 クロ

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 ヨータのうちは、我が家から道路を挟んだ向かい側にある。
 玄関を出て十歩ほどで着いてしまう、正真正銘ご近所さんだ。
 ヨータのご両親は、中華料理店を営んでいる。安くて美味しい、大人気のお店だ。
 繁盛していて忙しいから、ご両親は思うように息子の世話ができず、だからヨータのことはよくうちで預かった。
 ヨータと弟の光也は仲良しだったし、ヨータのご両親も良い人たちだったし、なによりヨータ自身が礼儀正しく可愛い子だったから、迷惑と感じたことはなかった。
 上月家の子供が、一人増えたようなものだ。
 ヨータと光也は同い歳で、小学校から高校まで同じ地元の公立校へ通った。が、さすがに大学では進路が別れ、光也は二流私大の文系に、ヨータは名門国立大学の理系へと進んだ。
 ヨータとうちの愚弟は、もともと頭の出来が違うのだ。それなのに長きに渡り、よくもまあ友情が続いているものだと感動すらしてしまう。
 うちの光也はチャラい大学生活を満喫したあと、それでもなかなか手堅い企業に採用され、今は家を出ている。
 ヨータは大学院に進んで、まだ学生の身の上だ。半年後に卒業の予定である。
 就職後の旅立ちに際し我が弟は、「いつでも好きなときに俺の部屋に来て、漫画を読んでくれ」」とヨータに言い置いたらしい。なんでも光也の本棚にぎっしりと詰まった名作コミックの何割かは、ヨータもお金を出して買い揃えたそうで。いわば共同財産というわけである。
 ――昔から私が家に帰ると、光也とヨータが遊んでいるのが常だった。
 私にとってヨータは、もう一人の弟だ。
 ほどほどにいじめたし、ほどほどに面倒も見たつもり。
 私が子供好きなのは、彼らと過ごした幼少期が影響しているのかもしれない。
 しかし私のあとをついて回ったあのちびっ子も、今や背は高いし逞しいし、声も低ければ髭も生える、普通の男になってしまった。

 ――うっかりしてると、ヨータだって、あっという間におじさんなんだから。

 ただでさえ院に進んだぶん、社会に出る時期が人より遅れているのだ。結婚するタイミングだって、後へ後へとズレてしまうのではないか。

 ――あ、でも私、「適齢期は人それぞれ」と言ったばかりだったな……。

 ヨータだっていい大人なんだから放っておけばいいのに、あいつや光也に対してはどうしても余計な口を出したくなってしまう。
 これも姉という生き物の性分なのだろう。
 アホだな、私は。苦笑していると、目の前が翳った。

「上月 都さん……で、いらっしゃいますか?」
「はい」

 急いで立ち上がり、声をかけてきた相手に目をやる。
 釣書に添えられていた写真と同じ顔。――不破 健人さんだ。
 とある休日、某有名シティホテルのティーラウンジにて。
 お互いペコペコとお辞儀をし合ってから、私たちは席に着いた。

「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「あ、いえいえ」

 落ち着かなくて、私が勝手に早く来てしまっただけなのだ。腕時計を確かめると、それでもまだ約束の時間より五分早かった。
 不破さんは注文を取りに来た店員に、ホットコーヒーを頼んだ。――別におかしいところはない。喋り方も声の大きさも普通で、私は安堵する。
 普通なのが普通なんじゃない? と、人は思うかもしれない。しかし婚活をしている男性にはそれすらでもない、つまり「普通未満」が多いのも事実だ。
 挙動不審。声が極端に大きい、あるいは小さい。店員に対して横柄に振る舞う、あるいは店員を呼ぶことすらできないくらい気が小さい、等々……。

「はじめまして、不破 健人です」

 不破さんは三十ニ歳とのことだが、丸顔のせいか若く見える。メガネをかけた真面目そうな顔は、笑うと一気に親しみやすい雰囲気になる。折り目正しいスーツを着ていて、靴もピカピカだ。髪も短く整えているし、髭も剃っている。手指の爪も短いし、もちろん鼻毛が伸びていたりしない。
 表面上は愛想良くしながら、私は隅々まで不破さんを観察した。
 チェックが細かい? 性格が悪い?
 いやいや、婚活は戦いなのだ。瞬きの間も無駄にしてはならない。
 相手の一挙手一投足から、全てを感じ取らなくては。
 それができた者だけが、幸せな結婚に漕ぎ着けられるのだから。
 ――などと、初めこそピリピリと神経を尖らせていた私だけど、不破さんと話しているうちに、そういった無駄な力みは溶けていった。
 さっきも言ったけれど、これまで私が結婚紹介所を通じてお会いした数名は、「なるほど、これは結婚というか、恋愛は難しいだろうな……」と――自分のことは棚に上げまくってなんですが、そういう人種だった。はるかな高みから下知くださる俺様だったり、そもそも会話にならないほどオドオドしている男性だったり、だったのだ。
 でも、不破さんは普通――ううん、素敵な人かもしれない。不快な想いをせず、楽しく言葉のキャッチボールができるもの。

「不破さんはA省にお勤めなんですよね。すごいですよね。どんなお仕事をされてるんですか?」
「実際やってることは地味なんですよ。書類を書くばっかりで」

 不破さんはそう言って、卑屈過ぎず自慢し過ぎず、自分の担当業務を分かりやすく説明してくれた。

「僕も上月さんのお仕事について、教えていただきたいです。営業とのことですが……」
「あ、私はB食品というところに勤めていまして」
「知ってます! 『グッド・チョコ』を作ってるところですよね?」
「そうです、そうです。よくご存知ですね」

 不破さんの意外な食いつきにびっくりしつつ、私は頷く。不破さんはニコニコしながら続けた。

「あと『セレブビスケット』とか。あれ、表面にかかってる苺のチョコが甘酸っぱくて、美味しいですよね。あ、そうだ。僕、レトルトカレーは、御社の『千葉カレー』だけと決めてます」
「わあ、嬉しいです! ご愛顧ありがとうございます!」

 心からの感謝である。
 毎日自社の製品を取り扱っていると、自然とそれらに愛着が湧くものなのだ。そして買ってくれる人たちに対しても。まさにお客様は神様である。

「いいですよねえ、B食品。美味しいものばっかりで。子供向けのお菓子も美味しいんでしょうが、大人が満足できるものもたくさん作ってくれていて。カロリーが低いとか不足しがちな栄養を補ってとか、目のつけどころが女性ならではですよね。男はその辺、無頓着ですからね」

 都度、的確な相槌を打ち、さりげなく褒めてくれる。こういうのを聞き上手というのだろう。
 不破さんの言葉に転がされながら、私は感心していた。
 しかししばらくして、今までにこやかだった不破さんが、ふと真顔になった。

「ご立派なキャリアですよね。とてもやり甲斐のあるお仕事でしょうし……。不躾な質問で恐縮ですが、上月さんは結婚後もお仕事を続けるおつもりですか?」

 男女平等が謳われる昨今、だから男も女も勤めを続けるのは当然だ。共稼ぎを望む男性は大変多い。現にこれまでの私のお見合い相手は、皆そうだった。
 分かってはいるが……。ここで嘘は禁物だ。自らの意思をはっきり提示しなければ、結局はうまくいかなくなる。

「すみません。私は家庭優先でいきたいと思っています。少なくとも子供を授かったら、仕事は辞めて、家事育児に専念したいと思っています」

 不破さんの表情が少し変わった。――やってしまったか。

「で、でも、結婚相手にまるごと頼るつもりはありません。子供が大きくなったら働きますし、今まで貯めたお金も」

 言い訳めいた私のつけ足しを、不破さんは穏やかに遮った。

「ああ、いえ……。上月さんの仰ったことは、僕も望んでいたことなんです。僕は奥さんになってくれる人には、家庭を守って欲しいと思っています。でも今の御時世、そういうことはあまり言い出せなくて……。同じ考えで良かったです」

 不破さんは眼鏡を押し上げながら苦笑いしている。

「釣書にも書いたとおり、僕はバツイチなんですが。前の結婚が失敗した理由が、簡単に言うと、僕も妻も忙し過ぎたということなんですよね」

 そう前置きして、不破さんは前回の結婚生活について語ってくれた。
 不破さんと前の奥様は、職場結婚だったそう。つまり奥さんもエリートだったわけだ。
 お似合いの夫婦だったが、二人の生活はすぐに雲行きが怪しくなった。原因はお互い多忙だったことにあるそうだ。

「妻は食事は手作りじゃないと嫌だし、整理整頓された清潔な家じゃなければ暮らしたくないと言いました。それは人として、至極当然の要求かもしれません。しかし僕たちのような激務の共稼ぎの世帯には、大変贅沢な話なんです」

 奥さんのことを一方的に悪く言わないように、不破さんは言葉を選んでいる。

「連日、夜十時から十一時に帰ってきて、そこから飯の支度をするのは、僕には無理でした。彼女のほうだって同じです。だったら外で買うなり、食べてくるなりして、済ませばいい。掃除だって、多少ホコリが落ちていても死にはしないし。ひとときの趣味や睡眠の時間を削ってまで、家事をやらなければいけないというのは、僕にはない考え方でした。しかし、妻は違った。自分もたいしてやれていないことを、僕にも強制してきて……。だから僕はつい、『やりたい奴がやればいい』と言ってしまったんです。それが彼女の怒りを買ってしまったようで……」

 不破さんの話を聞きながら、私は母に感謝していた。
 自分が仕事を続けてこられたのは、家事一切を引き受けてくれるお母さんのおかげだ。
 掃除が行き届いた家に帰れば、美味しいご飯が出てくる。洗濯もしてくれて、機嫌がいいときにはシャツにアイロンまでかけてくれるのだ。
 これが私が一人暮らしだったら、見るも無残な有様になっていたことだろう。
 そりゃ母に仕込まれたから、ひととおりの家事はできる。が、残業の多い仕事をしながら、毎日それをやるのは無理だ。

「それからはケンカばかりで……。僕たちは二年ももたず、離婚しました」
「そうだったんですか……」

『面倒なことは、合理的な手段で解決したい』
『二人でやれば負担は半分になるのだから、一緒にやって欲しい』
 どちらの気持ちも分かるので、私はなにも言えなかった。
 夫と妻双方に寛容さがあればいいのだろうけど、それは第三者だから言えることで、渦中にあればそんな余裕もないだろう。

「反省しています。ただぶん投げるんじゃなくて、アウトソーシングを利用しようとか、もっと建設的な提案をすれば良かったんですよね……」
「お掃除サービスとか家政婦さんとか、今はお手頃な料金ですものね」

 しかし私も、不破さんの前の奥さんと似ているかもしれない。というか、女の人に多いタイプじゃない?
 信頼している相手には、容赦がない。真っ正直に本性を表してしまう。そして甘えるあまり度を越して、ついついヒステリックになってしまうのだ。
 気をつけないと……と私は気を引き締めながら、聞きたかったことを聞いてみた。

「えーと、子供は好きですか?」

 うーん、不破さんと違って、私の会話術は洗練されていない。話題の転換がヘタクソである。
 第一、質問の内容がストレートで、生々しいような……。しかし今更引っ込めるわけにもいかず、冷や汗を流している私の前で、不破さんは微笑んでくれた。

「はい! 婚活を始めたのも、子供が欲しかったからなんです」
「そうなんですか!? 何人くらい欲しいですか……?」
「はは。それはもう、できるだけたくさん。平日は帰りが遅いから、育児はあまり手伝えないかもしれませんが」
「問題ありません! 奥さん一人では手が負えなくなったら、それこそアウトソーシングですよ!」

 夫は稼ぎ、妻は家事育児に専念。子供は可能な限り、わんさか産み育てる。私たちの意見は、どうやら一致しているようだ。
 不破さんは目を伏せて続けた。

「実はまだ離婚してから、一年も経っていないんですが……。実家の父の体調があまり良くなくて、早いうちに孫を抱かせてあげたいと思いまして……」
「そうなんですね……。お父様のこと、心配ですね」

 こうしてこの日私たちは、ニ時間ほど歓談した。
 帰宅後、私は結婚相談所に、不破さんとの交際を続けたい旨を申し出た。
 光栄なことに不破さんからも、同様の返事をいただいたようだ。
 結婚相談所のルールからすると、このあと二ヶ月ほどの期間を経て、結婚するかどうかの最終的な決断を下すことになる。そのような短期間で、紹介された相手が一生を添い遂げることのできる伴侶か否かの、重要な判断をしなければならないのだ。
 一分一秒も無駄にできない――。





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