鴉取妖怪異譚

松田 詩依

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第伍話「血ヲ吸ウ鬼」

血ヲ吸ウ鬼・弐

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 夜、道を歩いていると背後から視線を感じた。振り返るが誰もいない。
 気のせいかと思い、再び足を進める。それでもやはりどこからか視線を感じた。獲物を品定めするような、へばりつくような、嫌な視線だ。
 酷く不気味で、不安に駆られ足は早くなる。急ぎ足から早足へ、そして最後には走りだした。
 それでも視線は離れない。付かず離れず、ずっと一定の距離を保って追いかけてくる。

「——ふふ、美味しそう」

 背中越しに聞こえる柔らかい声。そして舌舐めずりする音。
 怖い。恐怖を感じながら勇気を出して振り返るが、やはりそこには誰もいなかった。
 気のせいだ。気のせいだ。一人で夜道を歩いているから余計なことを考えてしまうだけだ。早く帰ろう。
 早まる鼓動を抑えるように、自分にいい聞かせながら前を向く。

「こんばんは」

 あまりの驚きで呼吸を忘れる。顔がぶつかりそうなほどの距離に見知らぬ人物が立っていた。
 それは突如抱きついてきて首筋をべろりと舐めあげる。
 抵抗しようにも動けない。

「いただきます」

 それは耳元でくすりくすりと笑って、その首筋に思い切り鋭い牙を突き立てる。
 首に走る鋭い痛みと、己の体の中から血が抜かれていく気色悪い感触。喉が乾いているかのように、それはずるずると音を立てて血を飲み干していく。
 自分の体から血が抜かれ、気が遠くなっていく。
 そして気がつけば地面に倒れていた。自分の流した血でできた血溜まりの中に倒れている。意識は薄く、指先ひとつ動けない。仰向けのまま、ぼんやりと暗い空を見上げている。

「今度は貴方の血をもらおうかしら」
 それが立ったままこちらを見下ろしていた。
 たった今血を吸ったばかりだというのになにをいっているのやら。けれどそれはしっかりとこちらと目を合わせ、不気味に微笑むと楽しげに鼻歌を歌いながらどこかに立ち去っていった。


「————っ」

 三毛縞は首元を押さえながら飛び起きた。
 呼吸が酷く荒く、心臓が激しく脈を打っている。

「……夢」

 首元を押さえていた手を離し、血がついていないことを確認するとあれは夢なんだとほっと息をついた。
 その瞬間ずきりと頭痛が走り、頭を抑える。
 瞼の裏に過ぎるのは一面の赤。その中心に倒れる女の姿。血の気の失った白い手足、瞳孔が開きどこを見ることもなく天を仰ぐ瞳。思い出すとぞくりと背筋が凍りつく。
 今まで様々な怪奇現象に関わってきたが、生身の人間の死に直面したのは三毛縞にとって初めての経験であった。目の前に広がった残虐は幾ら頭を振ろうとも、拭い去ることはできない。

「……本当に散々だ」

 三毛縞は深々とため息をついた。昨晩見た光景と、ここ数日の睡眠不足のせいでただでさえ最近悪かった夢見が史上最悪になってしまったらしい。
 そういえば自分はいつから眠っていたのだと疑問に思う。確か朝警察署を出たところまでははっきりした記憶があるのだが、その先からの記憶は一切ない。

「そもそもここはどこだ」

 はっとして自分が今いる場所を確認する。
 三毛縞はベッドの上に寝かされていた。だがここは自分の部屋ではない。ならここは、一体どこなのか。
 記憶をどうにか手繰り寄せようとしていると、扉があき人が入ってきた。

「ああ、ようやく起きたか」
「鴉取……」
「今朝スクイアルに入るなり寝こけたんだ。ここまで連れてくるのに骨が折れた」

 現れたのは鴉取だった。扉の端にもたれ掛かりながら目覚めた三毛縞に手を振っている。

「ここはどこだい」
「俺の部屋だよ。君の部屋はすでに部屋と呼べるものではなかったので、仕方なくこちらに」
「それはすまない……君だって寝不足だっただろうに」

 鴉取の言葉で三毛縞は自室の惨状を思い出す。
 原稿が進まず一切掃除もせずに散らかした部屋はもうとんでもないことになっている。確かにあの部屋では寝られたものではないだろう。だからといって友人の寝床を奪ってしまった罪悪感で三毛縞は体を小さく丸めた。

「俺はいつもソファで休んでいるから平気だよ。しかし、夜まで寝込むなんて相当疲れていたようだな……魘されていたようだが、大丈夫か?」
「……嫌な夢を見たよ。通り魔に襲われて血を吸われる夢」

 先ほど見た夢を正直に話せば、鴉取はああ、と頷いた。

「茶でも飲むか。暖かいものを飲めば少しは楽になるだろう。用意するから居間へおいで」

 そして三毛縞は軋む体を動かしベッドから起き上がる。
 夢見こそ悪かったがまともな寝具で休息をとったことで幾分か体は楽になった。鴉取の好意に感謝しながら三毛縞は居間へ移動した。

「君には些か刺激が強すぎる光景だっただろう」

 居間で鴉取が淹れた茶を飲みながら話し込む。
 なにを、とも聞かずとも彼が何をいわんとしているかはすぐに分かった。
 昨晩のあの光景だ。鴉取がその話をした瞬間、脳裏に血の海が蘇り三毛縞を再び頭痛が襲う。

「……大丈夫。いや。確かにちょっと刺激が強すぎた、かな」
「そうだろう。それが普通の反応だ。無理はしないほうがいい」

 鴉取なりに三毛縞のことを気遣ってくれていたのだろう。三毛縞を見る紅の視線はどことなく心配そうに見えた。

「心配してくれたのか?」
「まぁ、一般人は中々ああいう場面に立ち会うことはないだろうからな」
「なんだそれ。まるで自分は見たことがあるっていうのかい」
「ああいうコトは俺も初めてだが、ああいうモノは何度も見てきたからな」

 鴉取は淡々と言葉を紡ぎながら茶を啜る。

「どんな夢を見たか聞いてもいいか?」

 鴉取の問いに三毛縞は頷き、先ほど見た夢の光景を事細かに伝えた。
 それを聞く鴉取はふむ、と頷いて湯飲みを机の上に起き三毛縞を見る。

「……視線を感じるが誰もいない、そして突如目の前に現れて、血を吸われる、ね」
「といってもただの夢だ。僕の妄想が生み出した産物だよ」
「いや、そうとも限らない」

 三毛縞の言葉を鴉取は否定し、徐に立ち上がると窓際の方へ向かう。

「通り魔は無差別で人々を襲い、首筋に二つの穴を残し去っていく。そして被害者は皆、貧血で倒れ、唯一の死者の死因は出血死。しかし、これだけ大きな事件になろうとも犯人の足取りを掴むどころか、証拠や目撃証言の一つもでてこない。ミケ、あまりにもおかしいと思わないかい?」
「だからこそ謎の通り魔事件だと、新聞記者たちは大盛り上がりしているようだけれど」

 窓の外を見ていた鴉取は三毛縞に視線を戻した。

「俺は、この事件の犯人は人間の仕業ではないと思っている」
「まさか……怪異が人を襲っているとでも?」

 三毛縞が恐る恐る鴉取を見ると、彼はニヤリと口角を上げながら左手を摩った。

「ああ、これは怪異だよ。人間の仕業では、ない」

 確かに鴉取の仮説が事実であれば犯人の証拠が掴めないというのも頷けた。
 生存者が殆ど、おまけに被害者は自分たちが通り魔に襲われたという気づいたのは倒れた後なのだ。なんの証拠も残さずに、まして人に気づかれず人を襲うなど常人ではまず不可能な話だろう。
 だが、何故今になって通り魔は人を殺すことになったのだろうか。

「……最初は怪異のはずだった。だが、すでに怪異は怪異ではなくなってきている」

 目を細め、鴉取は目を紅く輝かせながら口角を上げた。

「これからこの東都は正体不明の通り魔という得体の知れない恐怖に包まれる。その恐怖は増幅し、それがまた一つの怪異を成す。それは小さな怪異を化物へと変化させてしまうんだよ」
「じゃあ、ますますこれから被害者が増えるってことなのかい」

 三毛縞の問いに、鴉取はおそらくな、と頷く。
 鴉取が今立っている窓からは、ちょうど亡くなった鳥見が倒れていた通りが見えていた。

「通り魔はこの東都に息を顰めている。そして今もずっと舌舐めずりをしながら獲物を探し回っているに違いない。通り魔事件の本番はこれからだ」
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