臆病な僕らは、健気なΩの愛を乞う

野中にんぎょ

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可愛い来訪者

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 お風呂から上がった入居者たちの状態チェックを行い、他の看護師と入れ替えで昼休憩に入る。小雪はデスク横に下げた荷物を見て青ざめた。ランチバッグがない。
 自転車のカゴの中だとしたら中身は痛んでいるだろうし、移動販売車も帰ってしまったし……。近くのコンビニへ行こうと腹を決めた瞬間、職員室の出入口から事務員が顔を出した。
「東神田さーん、ご家族さんがお見えになってますよ」
 入居者に呼びかけるようにされ、小雪は混乱しながら玄関ホールへ出た。
「え!?理人君、どうしたの!?」
 玄関ホールで小雪を待っていたのは理人で、その手にはランチバッグが下げられていた。小雪は理人に駆け寄り破顔した。
「お弁当、わざわざ持って来てくれたの?よくここが分かったね」
「玄関に置かれたままになっていたので……。ここの住所は都さんに訊いて。教えてもらった住所がここの別館だったみたいで、その分遅れてしまって。お昼、もう食べてしまいましたか?」
 理人のこめかみから汗が伝う。いつもは真っ白の肌が桃色に上気していて、小雪は「中で涼んで行って!」と理人の手を引いた。
「心配だから談話室で涼ませてあげてもいい?」
「この炎天下ですもんね。構いませんよ。東神田さんの弟さんですか?」
 事務員が訪問者用の名札を差し出し小雪に尋ねる。隣の理人を見やれば視線が通い、小雪は頬を緩めた。
「弟じゃないんですけど、おれの家族で。いま一緒に暮らしてるんです」
「そうなんですか。ではこの訪問者リストに記名を――、」
 事務員の声が遠くに聞こえる。理人君、家族だなんて言われて嫌じゃなかったかな。小雪は緊張しながら理人をもう一度確かめた。
 東神田理人
 理人は訪問者リストにそう書き入れ、小雪の後ろに回った。
 心臓がどきりと跳ねて、胸の奥から温みがこみ上げた。東神田理人。こう見ると“田”がすごく多い。でも、呼ぶ分にはしっくりくる。ひがしかんだりと。まるで初めからこの名前だったみたいだ。
「飲み物、何がいい?」
 いそいそと財布を取り出し談話室の自動販売機の前に立つ。最初こそ遠慮していた理人だったが、小雪の押しに負けてレモンティーを指差した。
「ここまでどうやって来たの?まさか歩きじゃないよね?」
 小雪は理人の隣に座り、弁当を広げた。「途中までバスで、そこからは歩いて」理人は淡々と答えた。
「そうなんだ!大変だったでしょう。理人君ごめんね、ありがとう」
「東神田さんは、なんかいつも、おおげさですよ……」
 東神田さん?初めて理人から名前で呼ばれ、小雪は箸を止めた。
「東神田さんって、おれのこと?」
「ここで東神田さん以外に誰をそう呼ぶんですか」
「でも、君も東神田さんだよ?都君だって東神田さんだよ?」
 理人が霧島という姓を持っていることを忘れて畳みかければ、彼は「早く食べたらどうです」とつっけんどんに返した。
「都君は都さんでしょう。なのに、なんでおれは東神田さんなの?なんでいつまでも敬語なの?」
「都さんは都さんからそう呼ぶように言われているから都さんなんです。敬語なのはお二人が僕より一回り近く年上だからです。東神田さんが東神田さんなのは、」
「こ・ゆ・き!」
 小雪は自身の面を指し「おれの名前は小雪!」と声高に言った。
「都君みたいにこゆって呼んでもいいし、小雪でもいいし、好きに呼んで。東神田さんは嫌だよ。長いし、なんか、他人だし」
「僕たち、他人ですよ」
 理人が都と同じことを言っていて、小雪はムッと眉を結んだ。
「他人かもしれないけど、家族かもしれないよ。おれたちは他人かもしれない家族だ。君だって受付で東神田理人って書いてくれたじゃない」
 前のめって反論すれば、理人は押し黙り、唇を“へ”の字にした。
「……小雪さん」
 小雪は両手で口元を覆って瞳を見開いた。驚きと嬉しさで瞳から星がこぼれそうだった。
「これでいいですか」
 こちらを睨んだ理人は頬が真っ赤になっていて、小雪は「りとくぅん!」と歓声を上げ理人に抱きついた。
「暑いのでやめてくれますか。涼む為にここにいるんでしょう」
 小雪はへらへらしながら「そうだった」と弁当に向き直った。残り物を詰めただけの弁当なのに、やけに美味しく感じた。
「ヒート中に労働しているΩなんて初めて見ました」
「あはは。そうでしょ。おれは特別軽くって」
「職場には報告しないんですか、ヒート中だって」
「え?だって平気だもん。念のため抑制剤は飲んでるけど、ピンピンしてるよ!」
「……上はあなたがΩだということを知っているんですよね?」
「報告義務があるからねー。どうしても、そこはね」
 唐揚げを頬張ったところへ、何かが頬に触れた。驚いて理人に面を向けると、彼は小雪の頬に指先で触れたまま、「顔色が悪い、肌が冷たい」と言った。
「どんなものでもヒートはヒートです。軽いのではなく、不安定なんでしょう?だからあなたは抑制剤だけでなく、ピルまで飲んでいる。……あれだけ食いしん坊なのに弁当まで家に忘れて。無理してると後に祟りますよ」
 蛇に睨まれた心地になって、小雪はそれほど咀嚼していない唐揚げを飲み込んだ。
「あなたと長らく付き合っているからか、都さんはフェロモンの変化に敏感だ。……あなたが抑制剤とピルを併用しているのは、周期をコントロールするためでもあるけど、ヒート中のフェロモンを完全に消すためでもある。都さんはああ見えて心配性だから、あなたのフェロモンに過敏に反応してしまうんでしょう」
 たった数週間共に過ごしただけでそこまで言い当てられ、小雪は言葉を失った。
 いくら軽くても、いつ始まるかも終わるかも分からないヒートは、小雪の負担になっていた。都は小雪のΩの部分に敏感で、ヒートが来たと知ろうものなら何も手につかなくなってしまう。
 同じΩと出会えても、小雪よりヒートの重いΩばかりで、自分が恵まれていることに気付かされるばかりだった。どのΩよりも恵まれている自分は、逞しく気丈でなければならない。だから誰にもこの不安を打ち明けてこなかった。
 妙な空気を纏い黙り込んでいる二人へ、車いすに乗ったおばあちゃんが近づいて来た。
「あら、小雪ちゃん。ここでお昼なんて珍しいわね」
「西崎さん。それに……、」
 小雪は西崎さんの隣で杖を突いているおじいちゃんを見て頬を緩めた。貼り絵のレクリエーションで西崎さんをナンパしていたおじいちゃんだ。「デートですか?」こっそりと耳打ちすれば、西崎さんは「デートってほどじゃないわ」と肩を竦めた。
「そちらの方は?弟さん?」
「弟じゃないけど、おれの家族です。一緒に住んでるんです」
ことのあらましを知っている西崎さんは瞳を大きくして頷き、「この子が噂の可愛い第二夫人さんね?」と微笑んだ。理人は目尻を吊り上げ小雪を睨んだけれど、小雪はどこ吹く風で理人へ笑みを返した。
「小雪ちゃん、あなたのことを可愛い可愛いって言ってるのよ。戦国時代ではね、正妻自らが側室を選んで、殿の身の周りのお世話や子育てを協力して行っていたの。この人はあなたの一番の理解者になってくれるだろうから、ご主人も大切だろうけど、この人のことも大切にね」
 理人は難しい顔をしていたけれど、「はい」と返事をしてくれた。場の空気を読んでそうしてくれたのだとしても、小雪は嬉しかった。
 去って行く西崎さんとおじいちゃんに手を振り、小雪は自転車の鍵と帽子を手に談話室へ戻った。
「どう?身体落ち着いた?」
 頷き立ち上がった理人の頭に帽子を被せ、小雪は「こっち」と理人の手を引いた。
「送ってもらわなくても大丈夫です、バス停まで歩けますから!」
「いいのいいの!そのまま乗ってて!まだ昼休憩余ってるし、電動自転車だからっ!」
 小雪は自転車の荷台に理人を乗せ、ペダルを踏み込んだ。
「理人君、危ないからつかまってて!」
 理人の両腕がおずおずと小雪の腰に回り、クーラーの冷気を残した身体が小雪の背に触れた。この些細な重みがこんなにもこそばゆいことを、小雪は理人に出会うまで知らなかった。小雪は懸命に自転車を漕ぎ、汗だくになって理人をバス停まで送った。
「じゃあ、おれは行くね!帰りも気を付けて!」
「……帽子、お返しします」
「被って帰って。おれが帰る頃には夜になってるし。君が倒れたら都君が悲しむよ」
 踵を返し坂を下ろうとした瞬間、「小雪さん!」と声が投げかけられた。
「あの、シロクマ、ありがとうございました……」
 そんなことを不機嫌そうに言った理人はやって来たバスに隠れてしまって、けれど小雪はその場から離れられなくなった。理人がバスに乗り込んだのを車窓越しに確認し、手を振る。すると席に座った理人が小さく手を振り返してくれて、もうそれだけで小雪の胸はいっぱいになってしまった。
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