臆病な僕らは、健気なΩの愛を乞う

野中にんぎょ

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嵐が来る(上)

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「おはよう、こゆ」
 都は一日の始まりにキスとハグをくれる。小雪は戸惑った。都の唇が自分の頬や額へ降るたびに、理人の唇が自分の唇に触れているような錯覚に陥った。戸惑いを隠しきれず顔を背ければ、「こゆ?」と疑問形で名前を呼ばれた。小雪は理人から「小雪さん」と囁かれているような気がして、頭を振り立てた。
「おはよう理人」
「都さん、おはようございます」
 都は小雪にしたように、理人にもハグとキスを贈った。理人の薄い唇を凝視してしまい、小雪は頭を打ち振った。小雪はもうずっと混乱していた。
「小雪さん、おにぎり握るの上手ですよね」
 朝食に用意したおにぎりを理人に褒められ、小雪は反応に困った。けれど、当の理人に様子が変わったところはない。
 ……もしかして、おれの勘違い?
 そうだ。都君にならまだしも、理人君がおれにキスをするはずがない。
 小雪は脳裏に貼り付いたようになった理人の唇を払い、理人の隣に腰掛けた。
「でしょう。おにぎり作るの楽しいもん。料理は心だよ」
「分かる気がします。小雪さんすごいリズミカルにおにぎり握るから、最初は驚きました」
「握るんじゃなくてね、包むんだよ。ほら、こーやって」
 両手でおにぎりを包む仕種をすれば、理人は「本当に楽しそう」と溜息のような声で言った。じわ、と小雪の頬が熱くなる。理人の瞳がいやに熱っぽく、そして優しくて、小雪はもう一度頭を振り立てた。
「こゆ、理人。三人の親睦も深まったところで、おれたちはそろそろ本題に入らなきゃならない」
 小雪と理人は都に向き合い改まった。責任を取るという名目で始まった同居だけれど、互いの為にも三人のこれからについて話し合わなければならなかった。
 理人を見やれば、理人は一転して不安そうな表情で小雪を見つめていた。それを見た瞬間に胸の滞りがほどけて、小雪は都に向かって前のめった。
「おれは、このまま理人君にここにいて欲しい。理人君は都君の運命の番だし、おれもこんなに仲良くなれたし、なによりおれたち、番とか一夫多夫制とかの前に、家族みたいだよ」
 小雪は心からそう思っていた。子どもを持たない都と小雪に、理人という庇護の必要な男の子が現れ、しかもその男の子は愛らしく、小雪を今までにない気持ちにさせてくれる。小雪の頭の中では二人が運命の番であるということはもうすっかり薄れて、ただ、都と理人と三人でいたい、この穏やかな幸せがいつまでも続いて欲しいと望むばかりだった。
「ふふ。こゆは理人が大好きになったんだね。その気持ちは嬉しいよ。でも、時間を取って改めて話し合おう。こゆは水曜日から二連休だよね?おれも水曜日に休暇が取れたんだ。その日に美味しいものでも食べながら今後について話そう」
 理人は小雪を見つめ、光の散った瞳を瞬かせた。小雪も理人を見つめ頷いて見せた。理人を不安にさせたくなかった。
「小雪さん!」
 家を出た小雪を理人がつっかけで追いかけて来る。理人は面映ゆそうに微笑み、それから、「僕も、」と言葉を温めるように言った。
「僕も、小雪さんが家族だったらどれほどいいかって、そう思ってます」
「理人君……」
 小雪は理人への愛しさで胸がいっぱいになった。理人に抱き寄せられ、小雪もまた理人の背に腕を回した。そうすると理人はますます腕に力を込めて抱き返すから、小雪は思わず笑ってしまった。
 理人に抱きしめられると、花のような、糖蜜のような、甘く柔らかな香りがした。心地良い温みと香りに包まれ、小雪は面を蕩けさせた。
「苦しいよ、理人君。潰れちゃいそう」
 腕の中から面を上げて言えば、理人はサッと腕をほどいた。
「ごめんなさい、僕……。小雪さん、痛かった?どこが痛む?」
 理人の顔がみるみる青ざめて、小雪は慌てて「大丈夫。痛くない。おれ、介護士の資格も持ってるんだよ」と腕を曲げて力こぶを作って見せた。
「……なんです、このぷにぷには」
「ぷにぷにじゃなくて筋肉だから!」
 胸をぽかぽか叩くと、理人は眉をハの字にして笑った。理人のそういう表情は、小雪をこれ以上なく安心させてくれた。
「いってらっしゃい。気を付けて」
「うん!見送ってくれてありがとう。いってきます!」
 小雪は大きく手を振って理人の見送りに応えた。
 小雪は理人を好いていて、理人もまた小雪を好いていて、だから小雪もますます理人が好きになって、二人の気持ちがメビウスの輪のように繋がり合う。
 二人を結びつけているのは肉欲や恋慕でなく、まっさらな好意と愛。大人になった自分に、このような清らかな喜びが訪れようとは、思ってもみなかった。この喜びの前では、先日のキスに感じた違和感など塵のようなものだ。
 マンション前の坂を下りたところで、小雪は自転車のカゴにランチバッグが入っていないことに気付いた。
 いけない、また理人君に迷惑を掛けるところだった。
 坂を折り返し、エントランスの近くに自転車を置いて部屋まで駆け上がる。もしかしたら理人君、戻って来たおれを見てびっくりしちゃうかも。そういう悪戯心まで顔を出して、小雪はそうっと玄関扉の鍵を開けた。
「ン、みやこ、さん」
「理人……」
 暗い玄関、半開きになったリビングのドアの隙間から、二人の甘い囁きが漏れてくる。
「あ、だめ、こんなところで、いや」
「どうして。さっきまでこゆがいたから?」
 沈黙の後にリップ音が続き、理人は鼻から甘い息を漏らした。
「まだヒート前なのに、こんなにフェロモンが出ちゃうんだね」
「抑制剤、前もって飲んでるんですけど……だめで……。ぁあっ、」
 小雪は愕然とした。理人はヒートを目前としていたのだ。
 何も感じない。理人のフェロモンも、運命の番を前に発情しているはずの都のフェロモンも。
 小雪は喉元がせり上がっていくのを感じ、動悸でばかになった胸を抑えた。
「みやこさん、みやこさん、」
 理人がこんな声で都を呼ぶのを、小雪は初めて聞いた。
 今になって、都と理人が自分に気を遣ってくれていたことに気付く。二人は運命の番で、小雪は本来ならその輪の中には入れない。二人の気遣いがあればこそ、小雪は運命で結ばれた二人の傍に居られた。
「ここはいや。小雪さんの大切な場所だから、穢したくない」
 理人の切実な声を聞き、小雪はこんな時でさえ理人をいじらしく思った。「じゃあ、おれの部屋に行こうか」小雪は息を潜め、そっと玄関を出た。
 都と肌を重ねたあの日の自分に、今の理人を重ねる。
 おれだって、理人君と同じ屋根の下にいたのに都君に抱かれた。運命の番である二人と暮らすということは、こういうことだろう。こんなこと、分かり切っていたじゃないか。
 職場に着いてしばらくしてから、小雪は都へメッセージを送った。『家にお弁当を忘れたけど、行きにコンビニに寄ったから大丈夫。いま家にいるなら、理人君にもそう伝えて』そう綴ってから、理人にもスマートフォンを持たせなければと思いつく。あんな場面を見ても、やはり理人は小雪にとって庇護下の存在だった。
 ――理人。
 脳裏では、都が理人を呼んでいる。心から愛しいと、小雪を愛でた声で。
 涙が滲んだ。都も愛しいのに理人も愛しい。どうすればいいのか、分からない。


「小雪ちゃん?大丈夫?」
 西崎さんに呼びかけられ、小雪は顔を上げた。新しく増えた薬の説明をしていたはずなのに、優しい声で気遣われ、小雪は一瞬ここがどこなのか分からなくなった。「やだ、ごめんなさい、ボーッとしてた」表情を差し替え頭を下げれば、西崎さんは「疲れてるのね」と言って小雪の腕を摩った。
「あの子、綺麗だったわね」
「ああ、理人君ですか?顔だけじゃなく性格も可愛いくて、最強なんですよ。先週は初めて二人きりでおでかけして。ジェラートを半分こしたんです」
「まあ。そんなに仲良くなっちゃったの」
 西崎さんは眉を寄せて笑い、それから、小雪の手に自分の手を重ねた。
「ゆっくりでいいのよ。二人のペースでね」
 ああ、三人の、だったかしら。
 西崎さんはそう付け加えて微笑み、「おばあさまの命日には里に帰るの?」と尋ねた。
「おばあちゃんのお墓は香川にあって。三日くらい滞在しようかって思ってます。一周忌だから、ちょっとでも一緒にいたいなって」
 祖母の喪が明ける。そのことが、小雪を心もとなくさせた。
 小雪に穏やかな愛情を注いでくれた祖母は、小雪の高校入学と同時に体調を崩した。
 祖母が倒れてから看護学校を卒業するまで、学校と自宅と病院を行き来する日々だった。必死だった。他県に居る親戚が金銭的な援助をしてくれたけれど、小雪には青春を謳歌する同級生を羨ましいと思う余裕すらなかった。
 ――ユキちゃんがナースになるまでは死ねないね。
 そう言ってくれた祖母に報いたくて、それだけを光に、小雪は突き進んだ。
 小雪が看護師になってしばらくして、祖母は自身の故郷である香川県に移り、特別養護施設に入居することになった。その頃には祖母は小雪がどこの誰なのかも分からなくなっていたけれど、小雪は仕事の合間を縫って何度も祖母の元を訪れた。
「おれ、ナースになったのに、おばあちゃん、一度もおれのナース姿を見てないんですよ。だから、昔のナース服を持って帰って、着て見せてあげようかって」
「粋なサプライズね」
 西崎さんは楽しそうに笑い、両手を膝に揃えて深々とお辞儀した。
「楽しい時間をありがとう。家で夫が待ってるから、そろそろお暇しなきゃ」
 ベッドから降りようとする彼女の手を、小雪はそっと握った。
「ご主人なら、あちらで待ってますよ」
 西崎さんは瞳を見開き、「あら、そう?」と部屋の入口を確かめた。杖を突いたおじいちゃんが、西崎さんの視線に応え軽く手を上げた。貼り絵のレクリエーションで西崎さんをナンパしていたおじいちゃんだ。
「あら、あなた、お迎えなんていやですよ。そんなに長く出かけていなかったでしょう」
「ばか。煙草買った帰りだよ」
 ふらつく西崎さんを車いすへ誘導し、小雪は二人の後ろ姿に目を細めた。
 西崎さんは月に何度かおじいちゃんを思い出して、すぐに忘れる。おじいちゃんはそのたびに西崎さんをナンパする。そんなおじいちゃんも、西崎さんを時々忘れる。忘れても、やっぱり西崎さんをナンパする。偶然は、重なれば運命になる。
 若い頃のおじいちゃんは他の女性に目移りしていたようだが、それでも西崎さんとこうやって寄り添っているのを見ると、二人とも一途だなと思う。自分はそういう関係を、都と理人との間に築けるのだろうか。
 一日の業務を終える頃には、小雪の気持ちは切り替わっていた。
二人だって小雪を気遣って、小雪のいない時間に愛を育んでくれていた。それは小雪を尊重する気持ちの表れだ。つらくないと言えば嘘になる。けれど、それが全てじゃない。都と理人への愛しさだって、ちゃんとこの胸に残っている。
 タイムカードを切り外に出て、夜気を胸いっぱいに吸い込む。小雪は表情を整えてから自転車に鍵を差し込んだ。
「すみません」
 駐輪場から出てすぐに、小雪は一人の男に呼び止められた。「どうされました?」入所者の家族かと思い尋ねれば、スーツに黒の短髪の男は人の好さそうな笑みを浮かべた。
「失礼ですが、東神田小雪さん……ですよね?」
 男は小雪よりも一回り大きな身体を屈め、小雪の顔を見つめた。「あ、はい、そうですけど……」不思議に思い男を見つめ返せば、男は胸に手を当て表情を綻ばせた。
「初めまして。霧島洋司きりしまようじです。弟の理人がお世話になっています」
 深々と頭を下げた洋司に、小雪は肩を跳ねさせた。
「理人君の、お兄さん……?」
 分かり切ったことを尋ねれば、洋司は「私と理人には全く似たところがなくて」と言って申し訳なさそうに笑った。彼の言うように、理人と洋司の容貌には全く共通点がなかった。
 静謐な美しさを持つ理人とは異なり、洋司は精悍な顔立ちをしていた。緩く下がった目尻に太い眉、彫りの深い造りに、しっかりと線を描いた骨格。
「ご連絡もご挨拶もせずに大切な理人君をシェルターから連れ出してしまい、申し訳ありませんでした……!」
 小雪は深く頭を下げ、洋司への非礼を詫びた。けれど、洋司から返って来たのは、謝罪への反応ではなかった。
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