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天正二年

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 歳月の流れは、止まらない。

 万も今では、正式なお部屋様。『小督こごうつぼね』との勿体ぶった名称を授けられた折には、思わず
(誰のこと?)
 と笑ってしまった。

 低き身分の生まれである、己なのに。
 顧みれば、我が身の変転の激しさに呆然としてしまう。

 でも。
(立場が上がるにつれ、奥方様との隔たりは大きくなるばかり)

 岡崎がある西の方を眺めるたび、心の隙間を風が吹き抜ける。

 改めて思い知る。
 自分はもう、築山御殿の侍女には戻れない。

 給仕をしたり、お召し物を整えたり、髪を結ったり、お背中を流したり──奥方様の側に再びはべる未来は、絶対にあり得ない。

 岡崎と浜松は歩いて僅か三日の旅程であるにもかかわらず。
 それなのに。
(奥方様が遠い──)

 距離は開き、時間は過ぎていく。



 そして、天正2(1574)年。

 万は家康の子を生んだ。於義おぎ丸と名付けられたその子は、なかなか家康に懐こうとはしなかった。家康も今ひとつ、愛せないらしい。

(無理もない……)
 万は思う。
 現在もなお、家康と万は心底が通じ合っていない。幼い我が子は、敏感に父母の隔意を察しているのだろう。

 けれども、異母兄弟である信康と於義丸は仲が良い。

 信康は浜松を訪れると、必ず於義丸のもとへ顔を出す。信康は、おのが母と万の確執を知らぬようだ。万に会うと、屈託なく挨拶をする。信康は父に似ず、美男だった。おそらく、母親の血の影響が濃いために違いない。
 眉目秀麗な若武者の姿に、万はありし日の御前の面影を感じた。 

(於義には、私の血が流れている……)

 築山御前の血を引く信康と、万の血を引く於義丸。二人は兄弟。この戦国の世を、力を合わせて乗り切っていってくれたら……そう、万は祈った。


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