白銀オメガに草原で愛を

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草原

03.うまい、ではなく、おいしい

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 イェノアへの依頼ついでにククィツァを送り届け、ユクガも自分のユルトに戻ってきた。明かりがついていないから、彼はあのまま深い眠りに落ちたのかもしれない。

 そう思ってユルトに入ったので、ユクガはぎょっとして入口のところで立ち止まった。
 明かりもつけず、少年が寝床の上に姿勢よく座っている。

「……ユクガ様」
「……明かりをつけなければ、暗いだろう」

 こて、と少年の首が傾げられる。何かが理解できなかったらしい。彼の体に合うものがなかったので仕方なくユクガの服を着せてあるのだが、ぶかぶかでワンピースのようになってしまっている服の襟首が、少年の動きに合わせてずり下がった。

 ため息を押し殺し、ユクガは荷物を置いてランプに火を灯した。ユルトの中に淡い光が広がり、薄氷の瞳が眩しそうに細められる。

「……ランプの点け方がわからなかったのか?」
「それは、らんぷというのですか」

 言われてみれば、彼の閉じ込められていた部屋には蝋燭の明かりしかなかったような気もする。

 教えなければいけないことが山ほどありそうなことに今さら気がついて、ユクガは少年の隣にどっかりと腰を下ろした。近づいてくるでもなく、距離を空けようとするでもなく、大人しくこちらを見上げている従順さが、哀れでもありいささか疎ましくもある。

「話がある」
「はい」

 切り出したものの話すべきことが多すぎて、ユクガは一つ息をついた。
 細々したことを今教えても仕方がない。ひとまず名前と、明日からの身の振り方くらいにしておかなければ、夜が明けてしまうだろう。

「……名前がないと言ったな」
「はい」
「キアラ、はどうだ」

 銀色の睫毛が、ぱたり、ぱたり、とゆっくり動いた。

「嫌か」
「……いいえ」

 そっと口元に触れて、キアラ、と声に出してから、銀髪の頭がしずしずと下げられる。

「ありがとうございます、ユクガ様」
「……畏まって礼を言うことでもないだろう」

 まっすぐな銀色の髪をさらさらと揺らしながら、少年が顔を上げた。小首を傾げているようなのは、戸惑っているのだろうか。

「私は、ユクガ様に私を差し上げました」
「ああ……そうだな……?」

 唐突に何を言い出すのか、さっぱり読めない。ユクガのほうでも困惑しながら答えると、薄氷の視線が申し訳なさそうに伏せられた。

「名前を、いただいても……もう差し上げられるものが、ありません」
「は……?」

 呆気に取られて言葉を失ったユクガの前で、少年がしょんぼりと項垂れて謝罪を続ける。

「申し訳ありません、水も食事もお恵みいただいているのに、私は何も」
「待て、それ以上話すな!」

 びくり、と少年の肩が跳ねた。怯えさせたかもしれない。
 しかし構わずにユクガは少年の肩に手を置き、顎を掴んで上を向かせた。ほんの少しだけ青く色づいた瞳が、大きく見開かれている。

「お前の名はキアラだ、拒むな」
「……で、すが」
「対価など求めていない」

 ふざけている。名前を得るのに何かを差し出す必要など、あるわけがない。

 少年の置かれてきた何もかもに腹が立って、彼を掴んでいた手を離し、ユクガは乱暴に立ち上がった。ひと暴れくらいしたいところだが、すでに夜も更けていて、大声を出すわけにもいかない。しばらくユルトの中をぐるぐると歩き回ってから、少年に向き合ってどかりと腰を下ろす。

「お前は、キアラだ」

 不安げに見上げてくる子どもを怯えさせたいわけではないのだが、ユクガは他の言い方を思いつかなかった。

「俺や、他の誰かが……キアラと言ったら、返事をしろ」
「……はい」

 違う。命令したいわけではなかったのに。
 大きくため息をついて、また震えた小さな体を乱暴に引き寄せる。
 腕の中に軽々収まった体は、あまりに頼りない。

「……キアラ」
「……はい、ユクガ様」
「……そうだ、いい子だ」

 いちいち苛立つべきではない、と冷静に考える部分と、これを刷り込んだ人間への怒りと、頭の中でない交ぜになって冷静さを失っている。
 自覚はあるのにどうにもならず、ユクガはしばらくキアラを抱えていた。キアラから、ほのかに何かの香りがして、嗅いでいると気分が落ちつくような気がする。

「……キアラ」
「はい、ユクガ様」

 しばらくしてから体を離しても、キアラは大人しくユクガの傍に留まっていた。見上げてくる瞳に怯えはないとは思うが、言われたことには全て素直に従うから、どう思っているのかわからない。

「腹は減っていないか」

 また首を傾げられた。まさか空腹が感じられない、などということはないと思うが、腹が減るという言葉がわからないのか。

「……少し待っていろ」
「はい」

 素直に答えたキアラを残し、ユルトの柱に引っかけた荷物から、イェノアに持たせてもらった食料を取り出す。それから水袋に水を汲み直して、雛鳥のようにユクガを見上げているキアラのもとに戻る。
 本当に、世話の焼ける雛鳥だ。

「飲め」

 水を飲むのもまだ下手で、仕方なく一緒に袋を持ってやる。重くて持ち上げにくいのだろうか。しかし水袋など、子どもでも同じものを使っている。一度に入れる水の量を減らしてやるべきか。
 ユクガが考え事をしながら支えていたせいか、こぷり、とキアラの口元から水が溢れてしまった。心なしか困った表情をする口元に顔を寄せて、べろりと舐め上げる。伝った首筋、鎖骨のほうまで舌を這わせて、ユクガは綺麗に水を舐め取った。

「溢すな。水は貴重なんだ」
「申し訳ありません」

 妙に甘く感じた水に胸中だけで首を捻りつつ、ユクガは水袋を置いて、寝るとき以外は腰につけたままのナイフを手に取った。イェノアに分けてもらったのはクスタという植物の実で、厚い皮に覆われているのだが、中身はとろりと柔らかい。病人でも食べられるのだから、ヨラガンの食事に慣れていない人間でも食べられるだろう、という話だった。
 ナイフで切れ目を入れ皮を割るようにして中身を出し、不思議そうに眺めている口元に持っていく。

「食え」

 薄氷のような瞳がクスタとユクガの顔を行き来して、そっと唇が寄せられる。齧り取ったひとかけらがあまりにも小さい。食事にどれだけかけるつもりだ、とため息を押し殺しつつ、小さな口が動くのをじっと見守る。

 少し、キアラの顔が明るくなった、ような気がする。

「うまいか」
「……うまい、とは、何ですか」
「好みの味だったという意味だ」

 少し考えるようにゆっくりと瞬きをして、キアラがおずおずと頷いた。

「うまい、です」

 今まで言葉遣いなどどうでもいいと思っていたが、ユクガは初めてその存在意義に思い至った。

「……お前は、おいしい、と言え」
「おいしい、ですか」
「同じ意味だ」

 残っている実を口元に寄せてやると、先ほどよりは少し多めに小さな口が持っていった。気に入ったのは間違いなさそうだ。こくり、とそれでも小さな一口を飲み込んだのを確認して、ほっとする。食べられるものがあってよかった。

「おいしい、です、ユクガ様」
「そうか」

 割り開いたクスタを持たせてやり、隣でユクガも別の実を割って口にする。まだ熟しきってはいないが、十分甘くてうまい。
 ふと横から視線を感じて、ユクガは顔を向けた。クスタを捧げ持つようにして、キアラがじっとこちらを見上げている。

「……何だ」
「これは、ユクガ様が召し上がるものなのでしょう?」

 意味を図りかねて、ユクガはしばらくキアラを見下ろしていた。
 ユクガが食べるから何だというのか。しばらく考えて、まさかと思いながら持っていたクスタに視線を落とす。

 クスタはユクガの食べるものだから、キアラは口にしない。

 馬鹿馬鹿しい、と思ってから、この子どもならそう考えてもおかしくない、と思い直す。キアラにとって食事は施しとして与えられるものであって、おそらく、平気で取り上げられるものだ。誰かと食卓を囲むことなど、きっと知りもしない。

「……キアラ」
「はい、ユクガ様」

 クスタを持っているキアラの手を掴んで、自分の口に近づけさせる。

「これは、お前が食べるものだ」

 銀色の睫毛が上下する。どうやら驚いたときにそういう仕草になるらしい、というのが、ユクガにもわかってきた。

「そのクスタはお前に食べさせるために持ってきたものだ。俺に構わず食え」
「……私、に」

 じっと手の中を見つめていたキアラがおずおずとクスタを齧るのを待って、ユクガも自分のクスタに戻った。食事一つで随分と時間がかかる。ユクガが一つ食べ終わっても、キアラの分はまだ半分もいっていない。

「……ユクガ様」
「何だ」

 二人で食べるのに十分な量はもらったし、もう一つくらいユクガが食べてもいいだろう。ナイフでクスタを割るユクガの隣で、キアラが手元を見つめ、それから少しだけ明るくなった顔で見上げてくる。

「おいしい、です」
「……そうか」

 何となく、銀色の小さな頭を撫で回してやりたくなったが、ユクガはそわついた手をぐっと引き戻した。
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