白銀オメガに草原で愛を

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28.消えた火をつけましょう

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 カガルトゥラードへ近づくに従って草原は姿を変え、背の高い植物が増えていった。あれは何ですかと聞いたら、木というのだと教えてもらった。木がたくさんあるところは林、あるいは森というのだそうだ。
 林や森では、知らない鳥の声や知らない獣の気配がした。見てみたいと言ったら、熊にでも出くわしたら神子様なんて一巻の終わりですよ、とラグノースに言われ、やめておきなさいとリンドベルにたしなめられてしまった。熊というのは、ローロほど体が大きくて、手足も体も太くて、鋭い牙と爪があるらしい。

 ククィツァに似た人の名前は、ラグノースというそうだ。キアラがリンドベルに名前を教えてもらったことを知ったら、なぜかずるいと言ってすぐに教えてくれた。
 何がずるいのかよくわからなかったが、ローロ、リンドベル、ラグノースと、キアラは三人の名前を教えてもらうことができた。あとは意地悪な人と隊長の人だが、意地悪な人については、レテ、というのが名前ではないかと思っている。本人から教えてもらっていないので呼ぶことはさけているが、そのうち教えてもらえたらなと思う。
 まったくわからないのは、隊長の人だ。他の人も隊長としか呼ばないので、名前の手がかりも何もない。

 隊長の人にもそのうち教えてもらえるだろうか、と考えにふけっていると、ガタゴトと馬車の揺れが止まって、こんこん、と外から扉が叩かれた。

「はい」

 外から扉が開けられると、覗いた顔は珍しくローロではなかった。少し驚いたものの、きちんと挨拶を口にする。

「こんばんは、隊長様。休憩でしょうか」
「……ええ。外へどうぞ」

 扉のほうに近づくと、静かに手を差し出されて首を傾げてしまった。少し考えて、そっとその上に手を乗せる。

「ありがとうございます」
「……いえ」

 隊長の人の手を借りて、用意してもらっていた踏み台を使って地面に降りる。なぜかランプの明かりが細々とした頼りなさで、まだたき火もつけられていないようだ。首を傾げたキアラの傍に、隊長の人がそっと体を寄せてくる。

「……なぜか、火が消えてしまいまして」

 潜められた声にただならぬものを感じて、キアラは静かに彼を見上げた。こちらを見つめる茶色の目に、どうしてかユクガの面影を感じる。

「……夜陰に乗じて神子に逃げられてしまったとしても、不思議ではありません」

 ぱちぱちと、キアラは何度か瞬きをくり返した。
 逃げろと、言われているのだろうか。

「隊長様……?」
「……申し訳ありません、今夜しか機会が」
「隊長様」

 初めて、人の言葉を遮った気がする。一生懸命走ったときのように胸のところがどきどきして、キアラはそっと、胸元に手を置いた。

「たき火を、つけましょう」
「……神子」
「早くつけなければ、変に思われてしまいます。そうでしょう?」

 隊長の人の瞳が揺れているように見えたが、キアラはじっと答えを待った。

「……よろしいのですか」
「私は、守るために、ここにいます」

 ここで逃げたら、ヨラガンを守るために来た意味が、なくなってしまう。戦のことはよくわからなくても、神子を探してあそこまでの争いを起こしたカガルトゥラードが、逃げたキアラを追わないはずがないのはわかる。
 それに、神子に逃げられてしまったら、きっと彼らが誰かに責められる。ヨラガンで、羊が一頭逃げただけでも大騒ぎだったのだ。キアラと羊が同じ扱いかどうかわからないが、たぶん、逃げられたら困る、と思う。彼らがひどく責められて、ユクガのように傷だらけになってしまったら嫌だ。

 大切なものを、大切にするために、キアラのできることをしなくてはならない。

「……我々が神子にお供できるのは、今日までです」

 ただ、返ってきた言葉が思いもかけなかったもので、キアラはまたぱちぱちと瞬きをした。

「……そうなのですか」
「……火の傍へ。お話しせねばならないことが、いくつかあります」

 促されて人影の揃っているほうへ近づくと、ため息とも何ともつかない音がして、空気が緩んだ感じがした。誰かが屈んで、すぐにたき火がつけられる。

「それじゃ、このまま進むんですね」
「ああ」
「すぐ食事をご用意いたしますので、申し訳ありませんが少々お待ちくださいね、神子様」
「は、はい」

 ラグノースやリンドベルたちが、ランプをつけ直したり料理を始めたりとてきぱき動き出した。何か待っていたらしい。ローロが椅子を持ってきてくれたので、これに腰かけて話をするのだろうと思っていたら、隊長の人は地面に膝をついてしまった。

「……まずは、今までのご無礼をお詫び申し上げます」
「ごぶ……?」
「……礼を失した言葉や振る舞いを、謝罪いたします」

 すぐに意味がわからなかったせいで、言い直させてしまった。慌ててキアラも椅子から降りて、隊長の人の前に座る。

「神子、地面に……」
「あなたの言葉や……振る舞いで、恐ろしかったのは、頬を切られたときだけです。その傷も、もう治っています。あなたが気にすることは、ありません」

 隊長の人を立ち上がらせて、椅子に座ってもらう。相手にかしこまられてしまうと、やりにくくて困るのだ。

「それより、傍にいてくださるのが今日までというのは、どうしてなのですか」
「……明日明後日には、カガルトゥラードとの国境を越えられるでしょう。神子を国にお迎えするのに、護衛が黒髪の集団ではいけません」

 髪の色だけで、そのような扱いを受けなければならないのだろうか。隊長の人の傍にだって、ぽわぽわした気配は他と変わらずあるのに。
 むう、と顔をしかめたキアラに、隊長の人が珍しく小さな笑みを浮かべた。そういう表情がどこかユクガと重なるような気がして目を瞬くキアラをよそに、隊長の人に声をかけられたラグノースと意地悪な人が、何かを持ってくる。

「そこで……ご不快は承知ですが、今後はこの首輪をおつけください」

 アルファやオメガのことについてはベルリアーナが詳しくて、何も知らなかったキアラにもせっせと教えてくれた。アルファがオメガのうなじを噛むと、その気がなくても番になってしまうという事故もあるから、普通のオメガは首輪でうなじを守るのだそうだ。

「……私には、番がいます」

 キアラはユクガにそうしてほしくて、おそらくだがユクガにもその気があって、ヒートのときにうなじを噛んでもらって番になった。だからうなじを守る必要はない、はずだ。

「……神子の心がその方にあっても、それを快く思わないものがいます。そういう人間から神子を守るために、必要なのです」

 言われたことがよくわからなくて、キアラは首を傾げてしまった。
 人が思い合って番になっているのに、それをよく思わないというのはどういうことなのだろう。

 少し困ったような顔をした隊長の人に代わって、ラグノースがキアラの前に屈んで話しかけてくる。

「あのな、神子様はすっごいかわいいしきれいだから、番がいてほしくないって大半のやつは思っちゃうんだよ」
「そう……なのですか……?」

 かわいいやきれい、が褒め言葉なのは知っているが、自分に使われるのはぴんとこないし、そういう人に番がいてほしくないという発想もよくわからない。番になるかどうかは、本人同士の気持ちが大事なのではないだろうか。
 ただ、そういう人もいるのだ、と言われると、ラグノースたちはキアラよりもたくさんの人に会ったことがあるだろうから、そうなのか、と納得する気持ちもあった。

「そう。で、神子様のうなじに噛み痕あるの見て、勝手に腹立てるかもしれないんだ」

 怒られても困る。キアラはユクガと番になれて幸せだし、ユクガもキアラのうなじを嬉しそうに撫でてくれていたから、お互いに思いを通わせたうえでの行為なのに。
 カガルトゥラードには、ずいぶん難しい人もいるらしい。
 怪訝な顔をしたキアラに、ラグノースが苦笑した。

「でも、首輪があって噛み痕が見えなかったら、勝手にそういうこと考えるやつも減るかもしれないだろ? だから、つけていってほしいんだよ。俺たちがこういうことできるの、今日が最後だからさ」

 ラグノースの手に乗せられた首輪に、キアラはおずおずと手を伸ばした。以前、キアラが知らない間につけていた首輪と似たような見た目だ。見た目は厳めしいがそこまで重くはないし、首に当たる部分もなめらかになっている。
 きゅ、と唇を引き結んで、キアラは首輪をうなじに回した。留めるのにもたついているとラグノースが手伝ってくれて、手が離れていくのに合わせて小さなつぶやきが聞こえる。

「ごめんな」

 思わずラグノースを視線で追ったが、彼はそれ以上何も言わなかった。そのままラグノースが隊長の人の後ろに戻ってしまうと、今度は意地悪な人が進み出てくる。

「……これやる」

 突き出されたのは、長いさげ紐のついた小袋だ。しかし勢いで受け取ってきょとんと見つめるキアラから、意地悪な人は視線をそらしてしまった。

「お前のローブ、隠しとか何もついてないから……大事なもん、それに入れて首からさげとけ」

 長い紐は、首にかけるためにあるらしい。かけてみたものの首輪に引っかかってしまって、もたもたしていたら意地悪な人が手伝ってくれた。

「ありがとうございます」
「別に……お前、どんくさいし、時間かかるから」
「どんくさいとは、何ですか」
「覚えんなそんなの!」

 怒られてしまった。何が彼を怒らせたのかよくわからず目を瞬いていると、意地悪な人の後ろでラグノースが肩を震わせていて、ひとまず、何かおかしなことがあったらしいことだけ理解する。

「……覚えるなら、俺の名前とかにしとけよ」
「教えてくださるのですか」
「……レテだ」
「レテ様ですね!」

 嬉しくて、思わず声が大きくなってしまった。慌てて口元を押さえたら、目の前でレテが真っ赤になっていて、ラグノースが膝から崩れ落ちて腹を抱えている。やはり大きな声を出してしまったのは恥ずかしいことだったかもしれない。

「っこの……笑ってんじゃねぇ!」
「いや……もう無理だろこんなの……っ」

 ひぃひぃ言っているラグノースをレテがぽかすか叩いているが、止めなくていいのだろうか。あわあわと手をさまよわせるキアラの前で、隊長の人がこほんと咳払いをする。

「神子」

 改めて居住まいを正した彼に、キアラもいそいそと背筋を伸ばした。
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