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宮殿
32.覆い隠すベール
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導の灯火の庭で会って以来、ゲラルドはお祈りから戻ろうとするキアラの前によく現れるようになった。ベール越しに軽く話をするだけで終わったり、少し歩きましょうと言われて別の庭に連れていかれたり、することは日によって様々だが、ミオとシアによれば、キアラと親交を深めようとしている、のだそうだ。
「……私とお友だちになりたいのでしょうか」
不思議に思って聞いてみると、ミオもシアも、そうではないと思います、と声がそろったのがなんだかおかしかった。
「神子様、少しよろしいですか」
お祈りのあとに手を引いてくれていた総主に話しかけられ、キアラは礼拝堂の入り口で立ち止まった。ベールは少し薄いものに変えてもらえたので、以前よりは多少周囲が見えているものの、相変わらず歩くときには人の手を借りないと怖い。
「どうかなさいましたか、総主様」
「少々、お手伝いいただきたいことがございまして……そちらの小部屋でお話しできますか」
「はい」
総主に手を引かれて小部屋に入り、椅子まで連れていってもらう。腰を下ろしたキアラの向かいに、総主も椅子を持ってきて座った。
「我ら導の灯火の礼拝堂は、カガルトゥラードの各地にございます」
カガルトゥラードでは火の精霊を信仰する人がほとんどで、導の灯火はその中心となって人々を導いている。ただ、誰もが王都にある導の灯火の本部に来られるわけではないから、各地の導士と呼ばれる人たちが、教えを説き、祈り方を伝えているのだそうだ。
「この宮殿の外にも、王都には立派な礼拝堂があるのですよ」
「……そうなのですか」
キアラが訪れたことのある場所など、宮殿の中でさえほんの数か所にすぎなくて、城の壁より向こう側のことはほとんど知らない。いよいよ王都だというときに立派な馬車に乗り換えはしたが、それも結局窓の外は見えなかったし、大勢の人の声がすることしかわからなかった。朝に窓の外を眺めて、宮殿にあるよりは小さな建物がたくさん並んでいるのを見るばかりだ。
「ええ。それで、神子様もそろそろカガルトゥラードに慣れていらっしゃったかと思いますので、王都の礼拝堂にもお越しいただきたいと思っておりましてな」
王都にいる導の灯火の導士によって火の精霊への祈りは毎日ささげられているが、今後は月に一度、王都の礼拝堂でキアラもお祈りをしてほしい。
総主の頼みはそういうことで、キアラは素直に引き受けた。元々ほとんどやることはないし、カガルトゥラードでキアラの面倒を見てくれているのは、基本的には総主なので、何か少しは力になりたい。
「ありがとうございます、神子様。それともう一つ……」
「もう一つ?」
「病やけがに苦しむものたちに、血を分けてはいただけませんか」
導の灯火では、満足に食べ物を得られない人たちへ食事を提供したり、病やけがを抱えている人たちに薬を分け与えたりしているのだそうだ。
その一環で、重い病やけがに苦しんでいる人に、キアラの血を分けてほしい、ということらしい。
「……私で、お役に立てるのでしたら」
「おお! ありがとうございます、神子様!」
ユクガがここにいたならきっと、止めただろう。イェノアもそうかもしれない。二人とも、とても痛くて辛かったはずなのに、キアラに頼ってはくれなかった。
ただ、今キアラができることといえば、効果があるのかわからないお祈りか、血を分け与えて人を癒やすくらいしか思いつかない。
ユクガの傍にいて幸せを与えることができないなら、代わりの何かをしなければ、と思った。
「では、今から手配して参りますので、さっそくご協力いただけますかな」
「はい」
答えたキアラに満足そうに頷き、少し待つように言い置いて総主は出ていってしまった。小さく息をついて、自分の体を見下ろす。この服は高価そうだから、汚してしまわないように着替えさせられるだろうか。一人では脱ぎ着ができないから、ミオとシアに手伝ってほしい。
こんこんと扉が叩かれ、総主かと思ったらミオとシアが入ってきた。
「総主様が、神子様をお連れするようにと」
「わかりました」
二人に連れられて、今まで行ったことのない廊下に足を踏み入れる。あまり人がいなくて、とても静かな場所だ。精霊の気配もあまりない。廊下の途中にある部屋に入って、そのまま椅子に座らされる。着替えなくていいのだろうか。
不思議に思っているとミオとシアは出ていってしまい、見知らぬ人たちが部屋に入ってきた。不安になって周囲の人たちを見上げたものの、ベール越しなのと彼らが頭巾をかぶっているのとで、表情もわからない。
「あ、あの……」
答えはなかった。数人に椅子に押さえつけられたと思うと、一人に腕を抱えられ、袖をまくられる。小さな壺か何かを捧げ持った人が近寄ってきて、その上に手を引っ張られ、前触れもなく切りつけられた。
「いっ……あ……っ」
ぴちょ、と水のしたたる音がする。壺の中に水か何か入っているのかもしれない。痛みと、無言でこんなことをされてびっくりしてしまったのとで頭が回らなくて、もがいてしまってますます椅子に押しつけられる。
痛い。
動けない。
怖い。
恐ろしくなって震えているうちに終わったのか、キアラの周りにいた人たちが離れていく。怖い。切られた手を体に寄せると、すでに傷はふさがって痕もなかった。そっとその手を抱いて、涙がこぼれそうなのをじっとこらえる。
「……神子様?」
静かにかけられた声にはっと顔を上げると、ミオとシアが心配そうな顔をして傍に立っていた。
「その……総主様に、お迎えにあがるよう言われたのですが……」
「何かあったんですか?」
ミオとシアには、何も知らされていないのだろうか。ベールがあるから、泣きそうな顔は見られていない、はず。
「……申し訳、ありません、すぐに……戻りま、す」
ふらふら立ち上がると、すぐにシアが手を差し伸べてくれた。そっと手を乗せるとシアがはっとした顔をして、キアラの手を両手で包んでくれる。
「すごく冷たくなってますよ、寒かったですか?」
「い、いいえ、大丈夫……」
「……お部屋に戻られたら、温かい飲み物をご用意しますね」
「……ありがとうございます、ミオ」
よたよた歩くキアラに合わせ、ミオとシアがゆっくり歩いてくれるのが優しくて、ぐす、と鼻を鳴らしてしまった。泣いていないことにしたかったのに。けれど、ミオもシアも、何も言わずに一緒に歩いてくれる。
もっとしっかりしていなければいけないのに、怖いとどうしても、体が固まって、動けなくなってしまう。
「神子様は甘いものがお好きですから、ホットミルクに蜂蜜を入れたものをいただきましょうか」
「……はちみつ……とは、何ですか」
「ええっと……蜂が集めた、甘いとろとろのものがあるんですよ」
「あまいとろとろ……?」
ミオとシアは、食べ物に限らずキアラが知らないことを一つ一つきちんと教えてくれて、怒らない。怖くない二人が傍にいてくれるのは、心強かった。
「もしかしたら、とろとろというよりべたべた……」
「……シア……?」
シアが言いかけて止まったので声をかけたものの、ゆっくりと立ち止まってしまった。不思議に思ってシアの視線の先を追うと、いくつか人影が見える。ベールがあるせいで、相手の顔はよくわからない。少なくとも、キアラと同じか少し低いくらいの背丈だから、真ん中にいるのはゲラルドではないだろう。
「……ごきげんよう、神子様。お会いできるなんて光栄です」
「ごき、げん、よう……?」
おそらく挨拶だと思う。そっと膝を曲げて挨拶を返すと、相手が静かに近づいてきた。城の中ではキアラを見ると廊下の端のほうに行ってしまう人がほとんどだから、珍しい。
「……ゲラルド殿下の正妃、マナヴィカ様です。ヴァルヴェキアのご出身です」
小さく耳打ちしてくれたミオが、ごく自然にキアラとマナヴィカという人の間に立つ。
「……あなたは、侍従かしら?」
「神子様に万一がないよう、総主様に仰せつかっております。ご容赦ください」
二人のやりとりがよくわからなくてシアを見たものの、二人のほうを向いたままだ。ひとまず大人しくしていたほうがよさそうだと、キアラもマナヴィカにベール越しの視線を向けた。
「……私とお友だちになりたいのでしょうか」
不思議に思って聞いてみると、ミオもシアも、そうではないと思います、と声がそろったのがなんだかおかしかった。
「神子様、少しよろしいですか」
お祈りのあとに手を引いてくれていた総主に話しかけられ、キアラは礼拝堂の入り口で立ち止まった。ベールは少し薄いものに変えてもらえたので、以前よりは多少周囲が見えているものの、相変わらず歩くときには人の手を借りないと怖い。
「どうかなさいましたか、総主様」
「少々、お手伝いいただきたいことがございまして……そちらの小部屋でお話しできますか」
「はい」
総主に手を引かれて小部屋に入り、椅子まで連れていってもらう。腰を下ろしたキアラの向かいに、総主も椅子を持ってきて座った。
「我ら導の灯火の礼拝堂は、カガルトゥラードの各地にございます」
カガルトゥラードでは火の精霊を信仰する人がほとんどで、導の灯火はその中心となって人々を導いている。ただ、誰もが王都にある導の灯火の本部に来られるわけではないから、各地の導士と呼ばれる人たちが、教えを説き、祈り方を伝えているのだそうだ。
「この宮殿の外にも、王都には立派な礼拝堂があるのですよ」
「……そうなのですか」
キアラが訪れたことのある場所など、宮殿の中でさえほんの数か所にすぎなくて、城の壁より向こう側のことはほとんど知らない。いよいよ王都だというときに立派な馬車に乗り換えはしたが、それも結局窓の外は見えなかったし、大勢の人の声がすることしかわからなかった。朝に窓の外を眺めて、宮殿にあるよりは小さな建物がたくさん並んでいるのを見るばかりだ。
「ええ。それで、神子様もそろそろカガルトゥラードに慣れていらっしゃったかと思いますので、王都の礼拝堂にもお越しいただきたいと思っておりましてな」
王都にいる導の灯火の導士によって火の精霊への祈りは毎日ささげられているが、今後は月に一度、王都の礼拝堂でキアラもお祈りをしてほしい。
総主の頼みはそういうことで、キアラは素直に引き受けた。元々ほとんどやることはないし、カガルトゥラードでキアラの面倒を見てくれているのは、基本的には総主なので、何か少しは力になりたい。
「ありがとうございます、神子様。それともう一つ……」
「もう一つ?」
「病やけがに苦しむものたちに、血を分けてはいただけませんか」
導の灯火では、満足に食べ物を得られない人たちへ食事を提供したり、病やけがを抱えている人たちに薬を分け与えたりしているのだそうだ。
その一環で、重い病やけがに苦しんでいる人に、キアラの血を分けてほしい、ということらしい。
「……私で、お役に立てるのでしたら」
「おお! ありがとうございます、神子様!」
ユクガがここにいたならきっと、止めただろう。イェノアもそうかもしれない。二人とも、とても痛くて辛かったはずなのに、キアラに頼ってはくれなかった。
ただ、今キアラができることといえば、効果があるのかわからないお祈りか、血を分け与えて人を癒やすくらいしか思いつかない。
ユクガの傍にいて幸せを与えることができないなら、代わりの何かをしなければ、と思った。
「では、今から手配して参りますので、さっそくご協力いただけますかな」
「はい」
答えたキアラに満足そうに頷き、少し待つように言い置いて総主は出ていってしまった。小さく息をついて、自分の体を見下ろす。この服は高価そうだから、汚してしまわないように着替えさせられるだろうか。一人では脱ぎ着ができないから、ミオとシアに手伝ってほしい。
こんこんと扉が叩かれ、総主かと思ったらミオとシアが入ってきた。
「総主様が、神子様をお連れするようにと」
「わかりました」
二人に連れられて、今まで行ったことのない廊下に足を踏み入れる。あまり人がいなくて、とても静かな場所だ。精霊の気配もあまりない。廊下の途中にある部屋に入って、そのまま椅子に座らされる。着替えなくていいのだろうか。
不思議に思っているとミオとシアは出ていってしまい、見知らぬ人たちが部屋に入ってきた。不安になって周囲の人たちを見上げたものの、ベール越しなのと彼らが頭巾をかぶっているのとで、表情もわからない。
「あ、あの……」
答えはなかった。数人に椅子に押さえつけられたと思うと、一人に腕を抱えられ、袖をまくられる。小さな壺か何かを捧げ持った人が近寄ってきて、その上に手を引っ張られ、前触れもなく切りつけられた。
「いっ……あ……っ」
ぴちょ、と水のしたたる音がする。壺の中に水か何か入っているのかもしれない。痛みと、無言でこんなことをされてびっくりしてしまったのとで頭が回らなくて、もがいてしまってますます椅子に押しつけられる。
痛い。
動けない。
怖い。
恐ろしくなって震えているうちに終わったのか、キアラの周りにいた人たちが離れていく。怖い。切られた手を体に寄せると、すでに傷はふさがって痕もなかった。そっとその手を抱いて、涙がこぼれそうなのをじっとこらえる。
「……神子様?」
静かにかけられた声にはっと顔を上げると、ミオとシアが心配そうな顔をして傍に立っていた。
「その……総主様に、お迎えにあがるよう言われたのですが……」
「何かあったんですか?」
ミオとシアには、何も知らされていないのだろうか。ベールがあるから、泣きそうな顔は見られていない、はず。
「……申し訳、ありません、すぐに……戻りま、す」
ふらふら立ち上がると、すぐにシアが手を差し伸べてくれた。そっと手を乗せるとシアがはっとした顔をして、キアラの手を両手で包んでくれる。
「すごく冷たくなってますよ、寒かったですか?」
「い、いいえ、大丈夫……」
「……お部屋に戻られたら、温かい飲み物をご用意しますね」
「……ありがとうございます、ミオ」
よたよた歩くキアラに合わせ、ミオとシアがゆっくり歩いてくれるのが優しくて、ぐす、と鼻を鳴らしてしまった。泣いていないことにしたかったのに。けれど、ミオもシアも、何も言わずに一緒に歩いてくれる。
もっとしっかりしていなければいけないのに、怖いとどうしても、体が固まって、動けなくなってしまう。
「神子様は甘いものがお好きですから、ホットミルクに蜂蜜を入れたものをいただきましょうか」
「……はちみつ……とは、何ですか」
「ええっと……蜂が集めた、甘いとろとろのものがあるんですよ」
「あまいとろとろ……?」
ミオとシアは、食べ物に限らずキアラが知らないことを一つ一つきちんと教えてくれて、怒らない。怖くない二人が傍にいてくれるのは、心強かった。
「もしかしたら、とろとろというよりべたべた……」
「……シア……?」
シアが言いかけて止まったので声をかけたものの、ゆっくりと立ち止まってしまった。不思議に思ってシアの視線の先を追うと、いくつか人影が見える。ベールがあるせいで、相手の顔はよくわからない。少なくとも、キアラと同じか少し低いくらいの背丈だから、真ん中にいるのはゲラルドではないだろう。
「……ごきげんよう、神子様。お会いできるなんて光栄です」
「ごき、げん、よう……?」
おそらく挨拶だと思う。そっと膝を曲げて挨拶を返すと、相手が静かに近づいてきた。城の中ではキアラを見ると廊下の端のほうに行ってしまう人がほとんどだから、珍しい。
「……ゲラルド殿下の正妃、マナヴィカ様です。ヴァルヴェキアのご出身です」
小さく耳打ちしてくれたミオが、ごく自然にキアラとマナヴィカという人の間に立つ。
「……あなたは、侍従かしら?」
「神子様に万一がないよう、総主様に仰せつかっております。ご容赦ください」
二人のやりとりがよくわからなくてシアを見たものの、二人のほうを向いたままだ。ひとまず大人しくしていたほうがよさそうだと、キアラもマナヴィカにベール越しの視線を向けた。
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