白銀オメガに草原で愛を

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帰還

66.精霊の庭

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 あとどれくらい下りていけばいいのだろうと疑問が芽生えたころ、下のほうにわずかな光が見えて、キアラはあの大きな岩が近いことに気がついた。

「……明かりが見えるな」

 ユクガにも見えるらしい。聞こえた声にキアラが顔を向けると、ユクガもキアラに視線を向けてくれたところのようだった。ユクガがそのまま立ち止まったのでキアラも立ち止まり、伸びてくる手を受け入れる。言葉は交わしていたけれど、繋いだ手以外でユクガを感じられる機会はしばらくなかったから、胸がほわほわしてきて心地いい。
 頬に触れて撫でてくれた手が、キアラの髪をもてあそび、そっと髪を耳にかけたかと思うと、ふにふにと耳をいじってくる。

「……ユクガ、様?」

 痛みも不快感もないが、どことなく、気恥ずかしい。おずおずと声をかけると、ユクガの手がキアラの耳から離れて、代わりに、唇を指でなぞられる。

「……すまん、触れたくてたまらない」

 声をあげかけて、キアラは必死に息を止めた。昼間の外のように明るいところだったら、おそらく真っ赤になっているのがユクガにも見えてしまったに違いない。耳まで熱い気がする。
 そうしてキアラに触れて、撫でて、存分に堪能していった手が離れていくと、ユクガがぎこちなく顔をそらした。

「……すまん」
「い、いいえ……」

 ユクガに触れられるのは、嫌なことではない。ユクガがキアラを大切に思ってくれているのだろうと感じられて、嬉しいけれど、でも、どきどきしてしまう。
 二人でそっと顔を見合わせて、どちらからともなく小さく笑って、繋いだ手に改めて力を込める。

「行くか」
「はい」

 見えてきたわずかな光に向かって、残りの段を下りていく。たどりついた淡い光が漏れている部屋の中には、夢で見た通り、キアラの体よりも大きな岩が据えられていた。石造りの部屋は岩から放たれている光で照らされていて、水の中のように揺らぐ光の中を、精霊がゆったりと漂っている。

「岩、か……?」
「はい」

 あのときの、薄青に光った精霊はいない。けれど、今回は、ユクガと一緒に自分の足で歩いてここまで来たのだ。触れてはいけないと、止められることはないだろう。

 ユクガと繋いでいた手を解いて、ゆっくりと岩に近づいていく。自由に漂っていた精霊たちが、いつのまにか、キアラをじっと見つめている。
 少し緊張してきて、キアラは岩の手前で立ち止まった。部屋の中央にそびえている大きな岩は、エポナペネの湖のように、淡い光を揺らめかせている。
 一つ息をついて、キアラはそっと岩に触れた。

 途端に岩が消えてしまって、キアラは慌てて手を引っ込めた。気づけば床が雲に覆われていて、日の出前の空のように、あたりが淡い黄色に染まっている。

「来たか」

 振り向くと、薄青の精霊が立っていた。

「……どちらさま、でしょうか……?」
「わかるか」

 夢に出てきた精霊と似た姿だが、あの精霊とは違う。どこか面白がるような声に首を傾げると、キアラの横にふわふわと雲が漂ってきた。

「かけよ」

 かけよ、とは、と思って、キアラはようやく気がついた。
 ここには、ユクガがいない。
 慌ててあたりを見回すキアラの傍に、いつのまにか精霊が立っている。

「まずはかけよ」
「う」

 とん、と額を押されてあとずさると、ちょうど雲が膝のあたりにあって、キアラは半ば尻もちのような形で雲に座ることになった。
 精霊も優雅に腰を下ろしたが、雲も何もないところに、どうやってか座っている。

「あ、あの……ユクガ様は、どちらにいらっしゃるのですか」
「それから問うか」

 精霊は人の形によく似ているが、目や鼻や口、およそ顔というものがよくわからなかった。つるりとした面だけがある、というわけでもなく、じっと見ようとすると、なぜかぼやけてしまって見ることができない。
 しかし、キアラの耳にきちんと音として声は聞こえてくるし、今、精霊が笑っているらしいのもわかる。

「さて、如何語るべきや、ヒュルカの子」

 夢に出てきた精霊と違って、この精霊の言い回しは少し難しかった。ただ、キアラにわかるように、どう話したらいいか考えてくれているらしいことはわかる。
 キアラも雲の上に行儀よく座り直して、精霊に改めて尋ねる。

「あの……ここは、どちら、なのでしょうか」
「……人は、精霊の庭、と言いける」

 精霊の庭とは何だろう。首を傾げたキアラに、精霊が苦笑した気配が伝わってくる。

「精霊ばかり、出で入りうるかたなり……汝は精霊を倶したらねば、言の葉通じがたし」

 ますます難しい。首を傾げたまま眉を寄せたキアラのもとに、精霊がふわりと飛んでくる。

「え、と」

 そのまま、雲の上に押し倒されてしまった。覆い被さられても恐怖はないが、精霊に手首を押さえつけられては、身動きも取れない。

「精霊様?」
「……危機感足らず……まぁよい、契りを結ぶぞ」
「ちぎり、とは、何ですか」

 答えのないまま、精霊の顔が近づいてきたかと思うと、唇にやわやわしたものが当たる。

「う……?」

 口づけられている、のだろうか。ユクガとしかしたことがないけれど、ユクガとの口づけとずいぶん違う気がする。何だか冷たいような、すーすーするものが口の中に流れ込んできている。

「んぅ……う」
「飲みゃ、ヒュルカの子」

 飲め、ということだろうか。
 言われた通り、水とは違う何かをこくりと飲み込む。喉がすーすーする。

「……精霊様、今のは、何ですか」
「これで少しは此方の言葉がわかろう?」

 先ほどまでよりは、意味がわかる、ような気もする。先ほどのすーすーするものが何かはわからないが、話をするために飲ませてくれたらしいことはわかった。
 精霊が手を自由にしてくれたので、そっと頬らしきあたりに触れてみる。

「お話しできるように、してくださったのですか」
「……ヒュルカの子よ、先ほども申したが、其方、無防備に過ぎる」

 無防備、とは何だろうか。しかし無防備が過ぎる、と言われたのだから、何か失礼なことをしてしまったのかもしれない。

「申し訳ありません、私は、何かしてはいけないことをいたしましたか」

 精霊が、おそらく真顔になって黙ってしまって、キアラはおろおろと手を引っ込めた。精霊には精霊なりの作法があるのかもしれないが、キアラにはわからない。できれば礼儀正しく接したいのだが、どうしたらいいだろう。

「其方は本当に……箱入りにもほどが……いや、紛うことなき箱入りであったな……」

 周囲を見回してみたものの、箱は見当たらない。

「精霊様、はこいり、とは、何ですか」
「……忘れよ。其方はそれでよい」

 覚えなくてもいいらしい。きょとんと見上げるキアラの上から起き上がり、精霊が抱き起こしてくれる。

「ありがとうございます、精霊様」
「……此方が其方を傷つけんとするものならば、如何いたす、ヒュルカの子」

 キアラは目を瞬いて、じっと精霊を見つめた。こうして優しく助けてくれている精霊が、キアラを傷つけるとは思えない。

「私に、ひどいことをなさるおつもりなのですか」
「……此方の負けぞ」

 何か競っていただろうか。
 また首を傾げるキアラを撫でて、精霊が何もないところに座り直す。

「……ここは精霊のみが出入りのかなう場所ゆえ、其方の番は入ること能わず。元の場所にて其方を待っている」

 先ほどの質問の答えをくれるらしい。
 精霊の言葉を聞きながら考えて、ユクガはここに来られないので、あの岩のあった部屋にいる、ことまではわかった。
 しかし、精霊だけが出入りできる場所なら、キアラも入れないのではないだろうか。
 尋ねようとして、精霊の話に続きがあるようなのに気がつく。

「其方はヒュルカの子なれば、ここに入ることもできよう」
「……精霊様、その、ひゅるか、というのは、どなたかのお名前でしょうか」

 精霊がまた黙ってしまった。人ではなくて、場所の名前だろうか。しかしどちらにせよ、ヒュルカという言葉を聞いたのは初めてだ。
 ふわりと飛んできた精霊が、キアラを抱き上げて、子どもにするように膝の上に乗せてくる。

「ファルファーラの王家のものは皆、この精霊の庭にて、精霊と契りを結ぶが倣い」
「……私、は、ファルファーラの……王族、なのですか」
「然り」

 そうなのかもしれない、とは思っていたが、はっきりと肯定されてしまって、キアラは少しうろたえた。キアラが知っている王族の人と言えば、ククィツァ、マナヴィカ、ゲラルドとエドゥアルドだが、彼らのように威厳のある振る舞いなどできないし、キアラはものを知らない。とても、王族ですと表明してやっていく自信はない。
 精霊に優しく撫でられておずおずと顔を上げたものの、キアラは浮かない顔を見せるしかなかった。

「恐れずとも良い。其方には此方がいる」

 抱きしめられて、子どもをあやすように背中を撫でられると、キアラの体はゆるゆると解けていった。いつか感じた心地よさを思い出して、そっと顔を上げる。

「……あの精霊様は、ここにはいらっしゃらないのですか」

 顔立ちははっきりしないのに、精霊が困ったように笑っている気がして、キアラはなんとなくの答えを悟った。うつむいた頭をまた精霊が撫でてくれて、顔にかかった髪を払ってくれる。

「……精霊は名を持たぬが常なれど、彼の者は、シハユという」
「……シハユ、様」
「其方の片親なり」

 思わず目を見張ったものの、キアラは精霊をただ見上げることしかできなかった。
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