白銀オメガに草原で愛を

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帰還

65.暗がりを下へ

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 建物の壁も崩れていたが、床もところどころ抜け落ちていて、キアラとユクガは慎重に中を進んでいった。飾られていたらしい織物も朽ちていて、半ばから裂けて床に落ちている。
 しかし調度品はどれもこれも、キアラから見てもすごく良いものだったのではないかと思える品々ばかりだ。

「……ここは、何のための建物だったのだろうな」

 独り言のような小さな声に、キアラは火の精霊が照らし出すユクガを見上げた。先ほど明かりを頼んだ精霊が、律儀に二人の傍を照らし続けてくれている。
 キアラはここに来ることばかりに意識を割いていたが、確かに、湖の上にわざわざ建物を作るというのは大変だろうし、何か特別な目的があったのかもしれない。

「……ルガート様でしたら、ご存じでしたでしょうか」
「戻ったら聞いてみるか」
「はい」

 中の作りはキアラが夢で見ていた通りで、進む先に迷うことはなかった。倒れている調度品を乗り越えるのに抱き上げてもらうようなこともあったが、案内するのはキアラの役目で、どこへ進めばいいかはわかっている。壁に作りつけられていたり、廊下に立てられたりしている道具に火の精霊が宿って照らしてくれているので、夜とはいえ建物の中は柔らかい光で明るかった。

「……ここです」

 奥へ進み、部屋の壁にぽっかりと空いた穴の前に立って、キアラは一度立ち止まった。飛び交っている精霊がほのかに明るいので、しっかりした階段が、崩れることなく続いているのがわかる。

「この下に、行きたいのです」
「……階段、なのか?」

 火の精霊を見てみると、この先には行けないのか、首を横に振っていた。そっと手を差し出して手のひらの上に招き、小さな精霊に微笑む。

「ここまで助けてくださって、ありがとうございました」

 ぴょこぴょことキアラの手で飛び跳ねたあと、火の精霊がふわふわと漂っていく。

「……キアラ」

 精霊を見送っていたら不意にユクガに呼ばれ、キアラはぱっと顔を上げた。火の精霊がいなくなって少し暗くなってしまったが、壁の調度品から精霊の明かりは届いているから、まだ困るほどではない。

「……精霊が、見えているのか」
「あ……」

 言われて気がついて、キアラは思わず口元を両手で覆った。

 火の精霊が、手のひらに乗るくらいの小さな人の姿をしているのがわかっていた。キアラの問いかけに答えたり、お礼を言ったら嬉しそうにしていたり、ごく自然に、精霊が何をしているのか見えていた。
 周囲を見回せば、たくさんの精霊が、いろいろな姿で、好きなように漂っている。
 いつから見えるようになっていたか、はっきりとはわからない。この建物に着いたころからだろうか。

 戸惑いで体が震えてしまって、相手はユクガだとわかっているのに、肩に触れられて半ば飛び跳ねるように驚いてしまった。
 キアラの前に片膝をついて、ユクガがじっと見つめてくる。

「恐ろしいのか」

 精霊は、恐ろしい、ものではない。精霊はいつでもキアラに対して優しくて、必ず傍にいてくれる。今もぽわぽわと周囲をたくさんの精霊が漂っているが、キアラが彼らに目を向けても、興味をひかれている様子はしても、怒るようなそぶりは見られない。
 いつのまにかできていた、のが怖いのだ。どうしてできるようになったのかわからないから、人に説明することもできないし、どこまでのことができるのかわからないから、いつか誰かを傷つけてしまったらと思うと、恐ろしい。

「……精霊の見えない俺では、頼りにならないかもしれないが……俺が傍にいる。案ずるな」

 そっとキアラの頬を撫でて、ユクガが抱き寄せてくれた。草原のような匂いと温かくて力強い腕に包まれると、どきどきと落ちつかなかった胸がゆっくりと静かになっていって、ようやく、息ができる。

「……ありがとう、ございます、ユクガ様」

 少しのことで取り乱してしまって、もっとしっかりしなくてはいけないと思うのだが、ユクガは何も言うつもりはなさそうだった。キアラの顔を見て、何度か撫でてくれて、立ち上がって手を差し出してくれる。
 頼っていい、甘えていいと何度も教えてくれるから、そのうちキアラは寄りかかりすぎてしまうのではないかと思ってしまう。

「この先に、行きたいのか」
「……はい」

 また二人で手を繋いで、キアラは壁の穴の前に立った。ほのかに光る精霊が飛び交っているから、階段が下まで続いているのが、キアラにはわかる。けれど、もしかしたら、ユクガには見えないのかもしれない。

「ユクガ様」
「何だ」

 目を凝らすように階段の先を眺めていたユクガが、すっと瞳を向けてくれる。なぜだかまた胸のあたりがどきどきして、キアラはごまかすようにユクガの手をぎゅっと握った。

「階段は、見えていらっしゃいますか」
「……途中まではな」

 部屋の明かりが届くところまでは見えているものの、その先は真っ暗で何もわからないらしい。
 ただ、少なくとも階段が見えているということは、階段自体は精霊が作ったものではなくて、人の歩ける場所のはずだ。
 じっと見上げるキアラを、空いたほうの手でユクガが撫でてくれる。

「……一緒に、来てくださいますか」
「精霊が許す限りは、お前とともに行くつもりだ」

 繋いでいるユクガの腕を、キアラはそっと抱きしめた。
 真っ暗なところを下りていくのはきっと恐ろしいことのはずなのに、見えていてなお怖がってしまうキアラの傍にいようとしてくれる。
 精霊と同じように、ユクガもずっと、キアラに優しい。

「精霊は、ユクガ様を拒んでいらっしゃいません」
「……それなら、ともに行こう」
「はい」

 二人でゆっくりと足を踏み出して、キアラは慎重に階段を下りていった。進むにつれて、おそらく部屋からの明かりは届かなくなっているのだろうが、精霊のおかげでキアラにとっては真っ暗な空間ではない。ユクガはどう感じているのだろうと見上げてみると、斜め下を向いて、淡々と歩いている。

「ユクガ様、見えていらっしゃるのですか」

 声をかけると、キアラのほうを向いてくれる。ただ、ユクガの目は、いつものようにキアラをまっすぐ見てはくれない。

「……いや、お前の顔もわからない」

 ユクガの前をぽわぽわと精霊が横切ったが、それにも気づいていないようだった。何も見えないまま階段を下りるのは、恐ろしいのではないだろうか。

「……ユクガ様、この先、右、向きで、回って……ずっと、階段が続いています」
「……そうか」

 それぞれの精霊の輝きは強くないのだが、たくさんの精霊が飛び交っているおかげで、キアラは先のほうまで見えている。精霊たちも気にかけてくれているのか、足元に寄ってきて、段がよく見えるようにしてくれる。
 だから、ユクガに見えないのならば、キアラが目になればいいのだ。キアラのできないことをユクガが担ってきてくれたように、キアラがユクガを助ければいい。

「精霊がたくさんいらっしゃって、私たちの周りをたくさん飛んでいます」

 ユクガの口がわずかに弧を描いて、キアラの声に耳を傾けてくれているようだった。きっと何も話さずに暗いところを歩いているだけなのは辛いだろうから、精霊の姿が、人に似ていたり、鳥に似ていたり、一つではないことを伝えてみる。

「そ、それから、えっと」

 しかし、人に周りの様子を話して聞かせるなどしたことがなかったから、キアラはすぐ言葉に詰まってしまった。
 おろおろしながらユクガを見上げると、唇が弧を描いて、キアラのほうを見下ろしてくる。

「お前の目には、そのように見えているのか」

 不思議そうというわけでもなく、確認するために尋ねているわけでもなく、ただ柔らかく言葉をかけられて、キアラは小さくうなずいた。

「……キアラ?」
「あ、は、はい、私には、そう見えています」

 キアラには周囲が見えているけれど、ユクガには見えていないのを忘れていた。うなずくだけではいけなくて、声で返事をしなければユクガにはわからない。
 繋いだ手に、そろっともう片方の手も添えて、ユクガの顔をこっそり見つめる。

「精霊に照らされたお前は、美しいだろうな。俺も見てみたいものだ」
「えぅ」

 変な声が出てしまって、キアラは慌てて口元を押さえた。ユクガが不思議そうに瞬きをして、それから小さく笑い声を漏らす。
 まさに今、キアラも同じようなことを思っていた。精霊のほのかな明かりで照らし出されているユクガの横顔が、とても格好良くて、今なら見つめていても気づかれないだろうと思ってしまったのだ。
 キアラがじっと見つめていたのを、ユクガは気づいてしまっただろうか。

「……キアラ」
「は、はい、ユクガ様」
「出会ったときからずっと、お前は美しい」

 誰でもいいからとにかく、階段を転げ落ちなかったことを褒めてほしいとキアラは思った。
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