涙の魔女ドーラ

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涙の魔女、組合都市へ

涙の魔女、旅立つ

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 ピン、とコインを弾く。裏。また弾く。裏。三度目。裏。
 何度弾いてもコインはかたくなに裏を見せ続け、しまいには手から滑り落ちてコロコロと転がり、机の隙間に消えてしまった。
 薬草のきれっぱしや、ホコリや、虫のカケラが積み重なった床に這いずって机の下を覗いてみれば…やはり裏だ。
 これは、もうどうしようもなく、運命さえも告げている。その時が来てしまったらしい。
 静かに立ち上がって、手を払い、ゆっくりと部屋のドアを開ける。お師匠さま、灘の魔女、フルークトゥ・ボルテックスは、そこで何時ものように、揺り籠のような椅子を漕いで、赤ん坊のように揺蕩っていた。外では雨が降っているというのに、ここに響くのは暖炉に置かれた鍋のその中身の、ぐつぐつという音だけだった。
 目を覚ましたのだろうか、それとも最初から眠ってなどいなかったのだろうか、灘の魔女は、その眼を開いた。

 「今日は裏でした。これまでは表しか出なかったのに」
 「そうかい」
 「なぜ、今日なのでしょうね。雨は何時も通りに降っているというのに」
 「私が知る訳は無いだろう。お前が知らないのだから」
 
 お師匠さまはまるで老婆のような顔を歪ませると、溜息を一つ吐き、皺くちゃの指で近くに置かれている箪笥を指差した。

 「そこに旅に必要な物品を入れておいた。お前の母、ラクスの杖とローブもだ。自由に使いなさい」
 「はい。お師匠さま」
 「それと、お前に『涙の魔女』の綽名あだな、そして私の性を授ける。ここへ」
 「はい」

 まるで子供に目線を合わせるように椅子の傍にひざまづくと、箪笥を向いていた指は今度は私を指差し、虚空に青く輝く文字の羅列を描く。その文字は描かれるたびに私を取り囲むと、自らを書く手が止まると同時に、私の胸の奥へとすう、と吸い込まれていった。
 それを見届けると、お師匠さまはこれまで見せた事も無いような、柔らかな微笑みを浮かべた。

 「これでお前は一人の魔女であると同時に、私の子だ。その名はお前を守護するだろう」
 「ありがとうございます」
 「よい。それよりも、早く準備を済ませることだ」
 「分かりました」

 箪笥を開けると、幾つかの道具が整理され、静かに私を出迎える。その中には、藍に染まった宝石が埋め込まれた、一本の柳の長い杖もあった。
 この杖は、残り香が漂う頃でさえ、触れた事すら無かったというのに。一体何故なのだ。両親が私を生んで三百と十六年、コインは表を見せ続けていたというのに。
 涙が溢れ、目の前に畳まれた柔らかなローブに染みを作る。静寂の中に、雨の音が、聞こえ始める。外は、大丈夫だろうか?
 布袋に一切を詰め込み、ブーツを履き、ローブを身に着け、杖を手に持つ。杖の先に光る蒼石サファイアは一瞬身震いするように明滅すると、仄かな空色を発した。

 「これで杖はお前の物だ。それを持っていれば、お前の青の流れも少しは治まるだろう」
 「雨は、止まないようですが」
 「ふん。杖に頼っている内は、誰しも半人前なのさ!ケケッ」

 突然、後ろから聞こえた若々しい声に振り向く。
 そこに立っていたのは、かつて三つの海を支配した灘の魔女。その、若かりし頃の姿。私の記憶が示す、この世界で最も初めに目にしたお師匠さまの姿だ。
 長く豊かな狼色の髪はふわりと浮き、切れ長の二つの目は、まるで値踏みをするかのようにこちらを見詰めている。

 「調子が、良くなったのですか?」
 「空元気さ。婆アのままで送るのも良かったが、どうにも合わなくていけねえよ。やっぱりアタシは、こっちの方が性にあってらあな」
 「はあ…。ようやく、この頃は静かになったと思ったのに」
 「おんやー?お前、死にかけのお母様にそんな口を利いていて良いのかい?」
 「名前で呼んでくれないと、母とは認めてあげません」
 「そうかい。他には何か?ドーラちゃん」
 「…ハグしてください」
 「はいはい」

 母の胸にきゅうと抱きしめられると、薬草と、乳と、仄かな磯の香りが私の鼻をくすぐった。
 ああ、母の抱擁を受けるなど、一体何時ぶりの事であっただろうか?そして、次に私が求めるのは、一体何時になるだろうか?
 例え森の若木が巨木となり、魔女が老婆へ変わる程の年月を経ても、私は何も変わりはしないというのに。

 「おいおい、泣くなよ。もう赤ん坊じゃあねえだろう」
 「な、でてくだ、さっ」
 「…はいよ」

 氷のように硬い手が、しかし聖母のように慈しみを持った手が、私の頭をゆっくりと、優しく撫でる。感じるそれに温かさなんて無く、凍える程に冷たい筈なのに。私の胸の奥は、太陽のように、自ら熱を帯び始めていた。
 涙が静まってくるのを感じると、私は母の身体をそっと離した。私の涙で濡れに濡れた胸元を見下ろした母は、少し顔を歪ませた。
 
 「全く、こんなに胸元を濡らして…。そんなにママのおっぱいが恋しかったのかい?」
 「そう、かもしれません」
 「奇特だねえ。こんながさつな婆アに母性を求めたって、母乳の一滴も出やしないってのに」
 「それでも…それでも、あなたは私の母ですから」

 それを言ったと同時、悪戯っぽく笑っていた母の顔が、石のように強張る。そして、顔を何とも言い難い表情に歪め、何かを心底迷っているように悶え始めた。

 「…ああ、もう。クソ、やりづらいったらありゃしない…ちょっと待ってな!」
 
 そう頭を掻きむしりながら、母は向こうの棚へと駆けていく。棚を滅茶苦茶に荒らしながら漁り、戻ってきたその手には、一つの、装飾の無い、小さな銀色の指輪が握られていた。
 「やる!」苦虫を噛み潰したような顔でそう吐き捨てて、母は私の手にそれを押し付けた。

 「これは?」
 「使わネエ方が良いもんだ。ああ、使わネエ方がよっぽど良い。だが!もし命が惜しくなったら、ソイツに願え。それだけだ」
 「良い、のですか。お師匠さまの物を…」
 「ああ、アタシも何で渡したかなんて分かんネエよ。ただ、くそったれ、お前の辛気臭い顔を見てたら渡したくなったんだ。とっとけ」
 「――――ありがとうございます!」

 礼を言うと、母は照れたようにそっぽを向く。初めて見る弱った姿に、思わず笑みが口から零れた。

 「ケッ。それよりも、さっさとここから出てけ。もう少ししたら、盛大に花火を打ち上げっからよ」
 「分かりました。それではまた…母さん」
 「…ああ、またな」

 母に背を向けると、私は指輪を左手の小指にはめ、後ろ髪を引かれながらも正面の扉を開いた。
 昨日の夜は未だ明けず、森は静かに太陽の目覚めを待ちわびている。
 先程までは雨が降っていたのだろう。雲一つ無い空に対して森の地面は酷くぬかるみ、あちこちには水溜まりが出来て、夜の月を映し出していた。
 一歩踏み出す。ぐじゃり、と泥が潰れる音がした。もう一歩。ぐじゃり。もう三歩。ぐじゃぐじゃぐじゃり。私の体は前のめりに進み、何時の間にか、辺りは木々に覆われていた。
 しかし私は歩く、歩く、歩く。振り返らずに。雨雲を立ち込めさせてはいけないのだ。火が消えてしまわぬように。
 ―――――不意に、後ろで、何かが燃える音がした。
 泣くな、泣くな。振り向くな。私は魔女だ、涙の魔女だ。私の一粒の涙は、万の雨を呼ぶのだから。何を間違ったとしても、母の誇りを汚してはならない。
 苔と湿った土を蹴りだして、私は、そこから逃げるように走り出した。何処と行くとも知れず、ただ月の導くままに。


 その日、『灘の魔女』フルークトゥ・ボルテックスは死んだ。魔女としては異例の、老衰であった。
 魔女の家と亡骸は最期の大魔術によって灰となり、いつしかその跡も、雨によって森に還ったという。
 
 
 
 

 
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