悪魔に憑かれた男

大松ヨヨギ

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執拗く

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 (……はぁ、ついてないなあ…)
 
 繁華街、そこに大きなボストンバックを抱えながらヒラキ・ライトは自分の運のなさに嘆いていた。
 
『言ったやろ、一日でも遅れたら出てって貰うって』
 
 退院してやっと家に帰れる、そう思った矢先の出来事だ。ハウスクリーニングの業者が頼んでもいないのにヒラキの家から物を運び込んでいる現場に遭遇したのだ。一階の大家の家にどういうことか尋ねると、上記のような文言を突きつけられた。
 
 事情を説明しても、『うっさいわ、あんたトラブルしか持って来えへんやんか。家賃も滞納、近隣トラブル、今までよう我慢したわ』とぐうの音も出ない返答に、ヒラキは言われるがまま出ていくしか無かった。
 
 運良くハウスクリーニングの業者が捨てていなかった服は回収できたが、へそくりの現金や身分証明書、カードなどはどこに行ったのか不明のままである。
 
(とりあえずデリカロッドに行ってシフトを組んでもらわないと…。でも事件後営業してるのか?)
 
 無一文のヒラキは徒歩でデリカロッドに向かうつもりだったが、荷物が肩にくい込んで辛く、休み休み歩いていたらもう正午を回った。
 
(電話も財布もどこにも無い…)
 
 ジュース一本買う金がない、 どうしたものかと天を仰ぎ、情けなさで涙が出そうである。迎えに来てくれる人がいない、というのはヒラキを更に落ち込ませた。
 
(…何もかも上手くいかない…)
 
 ヒラキはボストンバックを地面に置いて、その上にどすんと座る。ランチタイムの人々をぼんやり眺めて後悔に後悔を重ねた。ヒラキは入院する一ヶ月ほど前、長年の友人と大喧嘩して『絶縁宣言』をしたのだが、それが今になって響いてくるとは思っていなかった。
 
「あーどうしようかな…ってあれは…」

 視線を遠くに向けると、頭一つ飛び抜けた見覚えのある男がこちらに向かって歩いて来ている。
 真黒の髪は光に透ける事無く、無表情のまま歩く男にヒラキは(げげ!)と顔を引き攣らせた。
 
 その制服のせいか彼が進む道は人が避ける。先日ヒラキの所に来たバッジ付きだ。その右腕には昼食だろうか?一人分にしては大きめな袋を下げている。
 
(ど、どうする?走って逃げる?いやいや流石にそれは失礼すぎるだろ…。とりあえず俯いて知らん顔知らん顔…)
 
 来るな、こっちへ来るなと念じる。しかしバチン、と向こうの視線がヒラキに合わせられ、男がこちらにずんずんと向かってくるのだ。
 
「おい、ヒラキさん。…退院したのか」
「ええ…まあ。先生がもう大丈夫そうだからと…。体だけは丈夫なんですよ…あはは…」
 
 ヒラキは無理に笑ってみせるが、男は愛想笑いの一つも浮かべない。怒っているのか呆れているのか分からぬ顔でボストンバックが気になるのかじっと見ている。
 
「その大荷物は?」
「えっと…色々ありまして」
 
 一度話しただけの男、更にバッジ付きに話すのはなんというか…ヒラキのプライドが許さなかった。見た目も職業も全てが上の人間に全財産ゼロ、家も無いという情けない姿を見せたくは無い。
 
「色々?」
 
 ぎっとその眉間にシワが寄せられ、ヒラキは肩を縮こませる。無表情が怖い、と思っていたが表情が付くとそれはそれで怖い。
 
(うぅ、この人苦手だ…)
 
「話せ」と低い声で言われると、嫌だとは言えない。ヒラキはその圧に押し潰され事の顛末を一から十まで話した。プライド?そんなものは数秒前に捨て去った。
 
「というわけで無一文、どうにか歩いてデリカロッドに向かう途中ですよ…。」
「…そいつは気の毒に…。」
「…じゃあ、そういうことで…」
 
 ヒラキはまだ体力は回復していなかったが、男との会話を終わらせる為立ち上がり、重たい荷物を持ち上げる。しかし視界がグラグラ揺れて蹲ってしまった。
 
「無理はしない方がいい。…ここから家が近い。休んでいけ」

  男の言葉にヒラキは直ぐに「いやいや!…それは悪いよ……」と返した。しかし彼はヒラキのカバンをひょいと持ち上げさっさと歩いていってしまう。なんて強引な男だろう、と内心愚痴を零してその背中を追いかけた。
 
 
 
  
「ここの紅茶は美味しいよ。君も飲めばいいのに。ひと口いるかい?」
 
   目尻にシワを刻み、口をつけていないカップをずい、と目の前に差し出したフェルトマイアーに、男は首を横に振った。
 
「…忙しいところ悪いな」
 
 どこで買ったのだろう?センスの欠けらも無い帽子から覗く美しい顔はいつ見ても飽きない。
 
 「構わないさ、今朝とりあえず一段落ついたからね。」
 
 ちょうどお昼時だからだろう、その喫茶店はそこそこ客が入っている。彼はソワソワと落ち着かない様子で辺りを見渡した。恐らくフェルトマイアーの近くに捜査員がいないか警戒しているのだろう。
 
「大丈夫、捜査は打ち切られたから。二つの事件も無事解決、何も問題ないよ。君が今のところ心配すべきは王打会くらいかな」

男はホッとしたように表情を緩ませ、水を一口含む。そしてパッドで黙々とメニューを眺めている。
 
「ところでどう?アーサー君とは」
「…扱いの難しい男だ。何を考えているのか分からない」 
「はは、彼は組織内でも浮いているからね。まさか君が彼に目をつけるとは…お目が高い」
 
 いつもはガラクタみたいなものばかり集める癖があるが、今回は違うらしい。フェルトマイアーは満足気に美味い紅茶を飲み下す。
 
「そういえばどうやってアーサー君を落としたの?彼が簡単に君を匿うとは思えないけど」
「『私の安全が確保出来たら帝国警察に出頭する』と言っただけだが…」
「つまり君はその条件で今彼と一緒にいる、ということかい?君も君なら彼も彼だなぁ」 
「そうなるな。ああ、しかし捜査が打ち切られたとさっきお前は言っていた。…じゃあ出頭する理由もないわけだ」
 
 ずる賢く片頬を釣り上げた頃、男の注文した肉ライスがテーブルに運び込まれる。油でギトギトの不健康そうな食事だ。彼は腹が減っていたのかそれを美味しそうにバクバク食べる。
 
 「…どうだろう、…アーサー君はあの子の代わりになりそうかな?」
 
 "あの子"の話題に男は匙を持ったまま固まった。
 
 怒り、憎しみ、…どうしようも無い寂しさ。その一瞬で表情を変えた彼は匙を置くと、静かな声で「………その話はしたくない。」と殻に閉じこもる。
 
 
「でも絶縁されたんでしょう?いい機会じゃない、君はあの子に依存し過ぎてた。傍から見たら異様だった。…他にも目を向けてご覧よ。」

(そもそもあんなガラクタが一番のお気に入りなんて友人として心配になるよ)
 
 男は俯いたまま残ったライスを無理やり口に押し込んで、テーブルに二人分の食事代をドン!と雑に置いた。
 
「…何にせよノエルはあいつの代わりではない。色々と世話になったな。」
 
 彼はそう言って席を立つとさっさと店を出ていった。男は"あの子"をとやかく言われることが嫌いだ。
 
(さて、アーサー君、君がどこまで引っ掻き回してくれるか…)
 
 一人ほくそ笑んで紅茶のおかわりを注文した。
 
 
 
 
 ノエルは砂糖レモンの缶をソファーで縮こまっているヒラキに手渡して全ての部屋を見て回る。…どうやらウィルソンは外出中のようだ。

 
『オイ主、ナンカ変ナ奴ガイル』とヒラキの足にガンガンとぶつかり、威嚇のつもりかボディーをクルクル回転させる。
 
「いた、痛た…止めろよ…」とロボット相手に情けない対応を取るヒラキに代わってノエルがロボットを足蹴にして方向転換させた。
 
 ホコリを撒き散らし廊下に行くそれを、彼は珍しそうに眺める。
 
「…喋る掃除ロボットなんてどこに売ってるんですか?」
「いやこれは元々喋らない。」
「へぇ~、じゃあ貴方が改造したとか…」
「いや、これは同居人が勝手にしたことだ。最近改造されたせいかゴミを吸わなくなったがな…」
 
 ヒラキは「え!同居人の方がいらっしゃるんですか?…だったら俺帰りますよ…」と悪い顔色で立ち上がった。だがノエルがギロリと睨むと彼はまた愛想笑いを浮かべて座り直す。
 
「…実は聞きたいことがあってな」
 
 何も無くしてヒラキを招き入れた訳では無い。勿論具合が悪そうだったというのもオマケの理由だが。
 彼は「…俺何もまだ思い出せてないです…」と申し訳なさそうに眉を下げたが、ノエルが聞きたいのは事件そのものの事では無い。
 
「デリカロッドにいた王国民の三人が行方不明だから探して欲しいとレミ・ゴールに頼まれたんだが…」
「え?彼女達が行方不明?……うっ…」
 
 ヒラキは脳みそに走る痛みを堪えるように頭を抱えた。そして何か思い出したのかハッとした顔をするのだ。
 
「ユカちゃん!…思い出した!俺はあの日清掃していて…そこにはユカちゃんもいた。…扉を開けたらいきなり銃を向けられて…」
「彼女は王国民の従業員なのか」
「……はい、ユカちゃんとカヲリちゃん、アユムちゃん…俺とその三人がデリカロッドで働く王国民の従業員です…。俺は…意識がなくなって…気がついたら病院にいたんだ…」
 
 ヒラキはその現場を思い出し、恐怖に震え出す。それを宥めることはノエルはしない。ただ眉を寄せ(デリカロッドの被害者にユカという名前の女はいなかったはずだ)とややこしさに苦悩する。
 
「犯人は見たのか?」
「男二人組で、顔は…何かで覆っていたような…。…そうだ、社長!あいつが死体を処分するからって…そいつらは言っていた」
 
ヒラキの記憶が絶対に正しいとは思っていない。だが現に三人は行方不明、というのだから嘘だとは言えない。
  
(…調べる価値はありそうだな。あとで話を整理するか…)
 
 「ただいま」
 
 ちょうどその時ウィルソンが玄関の扉を解除して帰宅する。
 
「ノエル?…帰ってるのか?」とひょっこりリビングに顔を出した男は、ヒラキを見るなりその顔を引き攣らせた。そしてヒラキも同様の反応だ。
 
 緊張の糸を極限まで引き伸ばしたようなヒリついた空気が二人の間で交わされる。
 
「……なんでお前がここにいるんだ」
「…えっとそれは俺のセリフなんだけど…」
 
 彼らが視線で『どういう事だ』とノエルに問いかける。だがむしろノエルが尋ねたい。『ただお互い職場で顔を合わせるだけの関係でそのような空気が出せるのかどうか』と。
 
「病み上がりで無一文、しかも顔色が悪かったから一時保護しただけだ」
 
 ノエルはまずウィルソンに、その次にヒラキに、「訳あって匿うことになった」と説明する。その間も彼らの空気感は変わることはない。
 
「二人は知り合い、…という事でいいのか?」
 
「…"ただ"の顔見知りです。」とヒラキは動揺すること無く断言した。一方でその言葉を聞いたウィルソンは明らかに表情が曇り、傷付いたように視線を床に落とす。
 
「そうなのか?」
「……そうだ。ただの顔見知りだ。それ以上ではない…。」
 
  掠れる声は微かに震えて…ノエルは不覚にもあの殴るような高揚に体が侵食されていく。それと同時に隣にいるこの冴えない男がそれを引き出しているのだと思うと敗北感に似たドス黒い感情が湧いてくるのだ。
 
(……何を考えてるんだ…俺は…)
 
 ウィルソンは来た道を引き返すように廊下に出ると、ノエルが普段使っている寝室に勝手に閉じ篭もる。
 
 気まずい空気に取り残されたノエルはヒラキに視線を向けると、彼もまた後悔している、といった表情で俯くのだ。
 
「…ただの顔見知りじゃ無さそうだな。」
「……」
「大っぴらにできない関係か?…レミ・ゴールが"恋人みたい"だと言っていたが…」
「断じて違います!……違うけど…簡単に言葉で言い表せるような関係なら苦労しない…かな」
 
  ヒラキは言葉を詰まらせる。自己嫌悪に呼吸を浅くして、廊下に消えた男の方へ気が行っているようだ。
 
「喧嘩でもしたのか」
「…まあそんなとこです。」
 
 どうしてか非常に不快だ。ムカムカして、奥歯がギリギリ鳴る。このどこにでも居そうな男がウィルソンの"特別"ではないか、と疑いを持ったその時から。
  
「ヒラキさんは無一文だと言っていたが…泊まっていくか」  
 
 ノエルは連れてきた癖に、ヒラキをさっさと追い出したくなった。これ以上ウィリアム・ウィルソンの事で話を続けたなら最悪な対応をする自信がある。
 
「…いえ、これ以上ご迷惑かける訳には…あいつも居候してるみたいだし…。俺は知り合いの所にしばらく泊めて貰います」
 
 ヒラキは帰り支度をして、すくっと立ち上がる。ノエルは玄関まで送ることにした。人畜無害そうな男に八つ当たりするのは避けられてほっとする。
  
 「何か三人の事で思い出したことがあったらここに連絡して欲しい」と走り書きのメモを渡した。
 
 廊下を行く男は、ウィルソンが閉じ篭もる部屋の前で一瞬足を止めて、後ろ髪を引かれながら玄関の扉を開ける。
 
ヒラキは愛想笑いを浮かべて言った、「すみません。あいつ、…迷惑かけるかもしれないけど…」と。
 
  
 
 
『オイ!オロセ』と寝室には機械音が響き渡る。その温もりを抱きしめ背中を丸める男にロボットは嫌がってモーターをフル回転させた。

 
「おい」

 ベッドの端に腰掛ける男の肩を揺さぶると、彼はぼんやりとこちらを見上げるのだ。魂が抜けかかっているようで、その喧しいロボットの声など聞こえていない。
 
 隣に腰掛け、ノエルは拘束されたロボットを引っ張りだそうとするが凄まじい力でホールドされている。
 
『オロセ!オロセ!』 
「…下ろしてやれ。それか電源を落としてくれ。うるさくて話ができない」
 
 少しの沈黙の後、男は言われた通りのっそりとした動作で掃除ロボットを床に置く。やっと解放されたそいつはぶつくさ小言を吐きながら廊下へ消えていった。空いた腕のやり場に困って、ウィルソンは自分の体を抱きしめる。

 
「我々秩序維持課は不死身の男の捜索を中止した。」
「………そうか…そいつはいい話だ。」
「驚かないんだな」
「驚いているさ」
 
 やはりウィルソンはどこからか情報を得ているのだろうか?それともヒラキの事が気になって仕方がなく、ノエルの言葉が耳に入っていないのだろうか。どちらにしてもあまり良い事では無い。
 
(…クソ、なんだってイライラしないといけないんだ…)
 
「そんなにヒラキさんの事が気になるか?」
「…違う。」
 
 ノエルは俯いた男の顔を無理やりこちらに向かせた。乱暴だったのか指先が頬にくい込んでほんのり赤くなっている。
 
「本当に違うなら目を見て言え」
 
 赤い唇はその強引さにわなわなと震え、「触るな」とノエルの腕を振り落とす。そしてギッと鋭い眼差しを向けるのだ。
 
 何故そのような目で睨む?攻撃的で、だが怯えたような眼差しで。
 
 拒絶、ノエルはそう捉える。ただでさえピリピリしていた神経を逆撫で、更に落胆と身勝手な怒りが混ざりとても嫌な気持ちだ。
 
「出来ないということは自分でそうだと言っているようなものだ。彼に気でもあるのか?」
 
 自分の形相など鏡がないと分からない。ノエルは今、動きの乏しい表情筋が人生で一番活発になっている。そしてウィルソンも気が立っているのか言葉尻が鋭い。
 
「簡単に言葉で言い表せるような関係じゃない。それにお前に何の関係がある?ただの同居人だろう。詮索するな」
「"ただ"の?…よく言ったものだ。」 
「そうだろう?それ以外が何かあったか?」
 
 尚湧き続ける性欲、自分のものにしたいという支配欲、自分より劣っている者への嫉妬、それらを混ぜ合わせてぐちゃぐちゃに混ぜ込んだもの。それを恋だの愛だのと言うには汚すぎる。
 
 今までノエルがしてきた恋愛はこのようなものでは無い。始まりは純粋で、美しく、心が跳ねるような…少なくとも悪い部分を際立たせるものではなかった。
 
『その唇を塞いで、嫌がる体を暴き、溜まった欲を発散させたい。』
 
 このままこの感情を抑え込むと欲望のまま目の前の男を犯してしまいそうで恐ろしい。正気に戻ったらきっと死ぬほど後悔するだろう。ならせめて、多少ニュアンスは違っても綺麗な言葉で包装して伝えた方が溢れ出す欲望の箍になる。
 
 ノエルは息を吸って、暴れ回る心臓をそのままに、男に伝える事にした。
 
「…俺はお前の事を恋愛対象として見ている」

 
 
 ぽかんと空いた唇は、突然の事に対応が出来ていないようである。苛立ちにはいい鎮静剤になったのだろうか、ウィルソンは「…お前は冗談を言うんだな」と抑揚のない声で呟いた。
 
「………冗談に聞こえたか?」

 空に浮いた手の指先がピンと引き攣り、血の気が無くなった肌に冷や汗が滑るように伝っていく。息を吸うのはこんなにも難しい事だったのか。
 
 汚い欲望が本心なのに、まるで本当に恋愛感情があるかのような作用にノエル自身戸惑っている。
 
  肺に空気を送り込もうとした時突然凄まじい力で肩を押され、ノエルはベッドにドン!と押し倒された。
 
「―ッ!?」

 その白い手のひらがノエルの首筋をぎっと握り、気道が絞られる。どれ程暴れ回ろうとも、男は手だけは離さない。見下ろす瞳は限界まで見開き、刃の切っ先のようにギラギラと光る。

「気持ち悪い」
「ゔッぐ…」 
「いいか、その気持ち悪い感情を私に向けるんじゃない」
 
 やけに冷静な声で男はそう言った。
 
 体が酸素を求め、男の腕をどうにか外そうと試みる。しかし彼は殺すことも厭わない、といった様子で力を緩めることはしなかった。
 
 
 その強烈な殺意に抵抗する気力さえ奪われていくのだ。だがこのままでは殺されてしまう、朦朧とする意識の中で、胸元の拳銃を必死に探す。
 
(この男は…ただの悪魔だ)

 指先が金属に触れる。ノエルはそれを抜き取ると、セーフティを解除し男の腹に躊躇うことなく撃ち込んだ。
 
 
 ―肉を貫通し、生暖かい汁がボタボタとノエルの腹の上に落ちる。緩んだ両手から逃れるようにノエルはベッドから転げ落ち、男と距離を取った。
  
「ゲホッ…ッゲホッ……殺す気か!」
 
 酸素を体が急激に吸収し、クラクラと脳みそが揺れる。彼は蹲って辛そうに腹を抑え、赤い血を撒き散らしこちらをギロリと睨みつけた。
 
「次おかしな事を言ったらいくらお前でも確実に殺すからな。」
 
 それはジョークでもなんでもない事は先程の行動でわかる。一体何がそこまで男の殺意を刺激してしまったのかノエルには理解ができない。
 
『気持ち悪い感情』と言っていたのでノエルの伝えた好意が余程気に食わなかったのだろうか。
 
「…それと私に乱暴に触れるな。腹が立つ」
 
 ウィルソンはのそのそと歩き出し、そう捨て台詞を吐いてリビングの方へ向かった。
 
 血塗れのシーツに血塗れのシャツを持て余し取り残されたノエルは大きな大きな溜息をついた。
 
 胸に鈍痛が走っている。熱を持って腫れ上がり、今にも破裂しそうである。汚いだけの感情だと思っていたが、どうやらそこに少しは純粋な恋愛感情が含まれていたようだ。
 
(まだ早いうちで良かった)
 
 その感情が性欲や支配欲に勝る前に無かったことに出来るのだから。
 
(しかし、…これからどうしたらいいんだ…。あいつを匿っていても俺にはもうメリットがない。)
 
 凶暴な牙を隠し持つ男を持て余している。思い返してみればウィリアム・ウィルソンは人目を気にせず若者に暴力を奮っていた。もちろんその時は正義感からやり過ぎたのだと思っていたが。
 
(…)
 
 不死身の男を見つけたとして突き出すか?
 
 ただ男を追い出して、知らないふりをすべきか?
 
 
「…クソ…!何故俺は…」
 
  ノエルは最悪な結果になると分かっていながらそれでも手離したいとは思わなかった。
 
 
 
 
 
 
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