5 / 17
執拗く
一
しおりを挟む
王国が帝国に併合されて三十年、人々の暮らしは一見すると平穏に見える。何せ国が『平和な世の中の促進』を謳っているのだ。
戦争の傷跡などそのネオンに隠してしまえば分からないだろう。人々の嘆きは爆音に掻き消え、朝など来ない。そこの住人のうち何人がその事実に気がついているのか。
「帝国警察の者だ。…先週ここに運び込まれたヒラキ・ライトの病室はどこにある」
その黄金に輝くバッジを目にした受付の女は何かを察したのか、「入院病棟は五階でございます。そちらの受付の方で」とだけ言うと、さっさと奥に引っ込んだ。
ノエルは言われた通りに五階へ向かうことにした。エレベーターに向かう途中、沢山の怪我人が待合室でぐったりしている姿を目撃する。
折れた腕をぶら下げる男、身体中痣だらけで震える女、顔がパンパンに腫れ上がった子供。彼らは皆同じ顔をして順番を待つのだ。
エレモアシティー総合病院には色々な患者が朝昼晩関係なく舞い込む。反政府組織は素より戦争孤児や降伏した王国民など、帝国が隠したい様々な"腫れ物"が押し込まれた街だからだ。
五階入院病棟の受付、そこに座る女はタバコを吹かしながらボリボリとピーナッツを咀嚼している。窪んだ瞼、黄ばんだナース服はいつ洗濯したのだろう。
「ヒラキ・ライトの病室はどこだ」
「…はぁ、そこの通路を右に折れて、一番奥の赤色の札が下がっているとこ」
面倒くさそうに説明して、枯れ木のような指で奥を指さした。
「バッジ付きはいいわね、えらそーにしても金が沢山貰えるんでしょ?」と嫌味をぶつけ、わざとらしく口を開けて咀嚼する。
(…偉そう…か)
ノエルは少し女の言葉を気にしながら右の通路を曲がった。五十メートル程真っ直ぐ伸びた廊下の左右には病室が並んでいる。
…時刻は昼の十一時過ぎだというのに人の気配が一切感じられない。
重症患者のみの病棟で、皆身動きが取れないのか?それにしても他の看護師がいてもいいはずだがあの受付以外居ない気がしてきた。
(…ここか)
一番奥、確かにそこの部屋には赤い札が掛けられている。ノエルは「帝国警察の者だ」と三回ノックした。すると中から「…どうぞ」と弱々しい男の声が入室を許可する。
扉の先にはベッドで上体だけ起こした男が愛想笑いを浮かべて「…こんにちは」と控えめに挨拶をした。点滴に繋がれてはいるものの意識はしっかりあるようだ。
「体調が優れない中申し訳ないが、デリカロッドの事件のことについて話を聞きたい」
ヒラキ・ライト、彼は先の事件の生存者だ。デリカロッドの清掃員で、事件当日社長室の扉の前で倒れていたところを第一発見者の娼婦の通報によりこのエレモアシティー総合病院に運び込まれた。
話によると腹部を撃たれ一時は意識不明の重体だったがだいぶ回復したようだ。
ノエルは断りを入れること無く折りたたみ椅子を広げ腰を下ろす。同じ目線の方が話しやすいだろうと気遣った結果である。
バッジ付きのノエルに肩を強ばらせ、自信なさげに視線を逸らした。冴えないこの男の特徴は若干違う両目の色くらいだ。ノエルは平凡で頼りない気の弱そうな男だという分析をする。
「事件当日の事を覚えていることでいいから教えて欲しい」
「…すみません、何も覚えていないんです。フロアの清掃をいつも通りして…それから記憶がなくて…」
ノエルが少し襟を正しただけで、彼はビクッと体を強ばらせた。
その男の行動は何だかこちらが悪いことをしているような…複雑な気持ちになる。
「…では、話を変えよう。デリカロッドの監視プログラムの操作盤を扱ったことは?」
彼は数秒考えると、「…操作盤は基本的に業者さんが点検作業の時しか触らないので…」と恐る恐る発言した。
「外部の人間が触ることは可能なのか」
「…出来ないことは無いと思います」
当時デリカロッドは監視プログラムがシャットダウンされていた為犯行の映像が残らなかった。被疑者のベン・カインはそれらを『知り合いのハッカーに頼んでダウンさせた』と供述したらしいが、その形跡が見当たらない。
つまりは態々手動で電源を落とした事になるが、そもそも出入口の監視プログラムにベン・カインらしき人間は写っていなかった。そうなるとデリカロッド内部の人間が関係している可能性がある。
(あの男は『巻き込まれただけ』だと言っていたが…。)
一番手っ取り早いのはウィルソンに詳しく話を聞くことだ。本当のことを言うかは分からないが、当時の様子を聞くくらいなら教えてくれそうな気がする。
「…デリカロッドの社長は事件が起こる前から誰かと揉めていたということはあったか?」
「どうでしょう、あの人なんと言うか…嫌な人だったから常に揉めてたかも…。」
「嫌な人、と言うのは具体的にどう嫌なんだ」
ノエルの質問にヒラキは気まずそうに拳をぎゅっと握る。
「当方、王国民の端くれでして…それで色々…」
「詳しく話してくれ」
「…簡単に言うと毎日他の従業員よりいくつか仕事が多かったり…もちろんその分の給与は付きません。人間として扱っていないような暴言や無意味な攻撃なんてのは日常茶飯事ですよ。…はは」
乾いた自嘲は、なんとも痛々しい。ヒラキのように不当な扱いを受けている王国民はきっと見えていないだけで沢山いるのだろう。
ドミニク・モナは王国嫌いで、王国打倒委員会と繋がっていたという話は上がっていた。それにミカジメ料を渋るほど金への執着があったのだろう。それで殺人まで発展することはなにも不自然では無い。
(事件直近の記憶が無いんじゃ、これ以上聞いても時間の無駄だ。…また日を改めて―)
―パタパタとサンダルを鳴らす音。
外からガサツな足音が小走りでこの部屋に向かってきていることに気がつく。
「ヒラキー、服持ってきたけど…て、」
ノックもせず開けられた扉の先にはいつかの娼婦が荷物を抱えて立っている。レミ・ゴールはノエルの顔を見るや否や「あー!」と目を見開いた。抱えていた荷物を床にどすんと置いてノエルに駆け寄る。
「なに?どうしてあんたがここに?ヒラキとも知り合いなの?」
「……俺はデリカロッドの事件について捜査しているだけだが」
「あ、なるほどね。でもこんな偶然あるんだ~」
レミの盛り上がりに「…えっと……二人は知り合い?」とベッドの上の男は眉を下げる。
「ほら、昨日話したでしょ。彼がウィルソンの―」
「え?………この人が?」
どうやら彼女はヒラキに二人の関係を話したらしい。勝手にペラペラ喋るレミをノエルは睨みつけるが効果は期待できない。話してしまったのなら仕方がないと割り切って対応するしかない。
「…あの男の知り合いか?」
「…ええ、まあ…そんなところです…。顔見知り…というか…職場によく来るんですよ…。特別仲が良い訳じゃ…」
ヒラキの顔色は心做しか初めより悪くなっている気がする。まるで繋がれた管から血を吸われているように青ざめ、声量も無く弱々しい。そんな彼とは対極的にレミの甲高い声が割って入った。
「二人は大の仲良しよね~。親友?と言うより傍から見たら恋人みたいな?」
病人をからかうようにレミはにっと笑った。それに対してヒラキはガシャン、と点滴スタンドが倒れそうになるほど大きな動作をして否定する。
「違う!!…違います。レミさん、おかしなこと言わないでください」
「なによ~、ちょっと元気付けようと思っただけじゃん」
「そんなんじゃ元気になりませんよ…。変な誤解が生まれるのでやめてください…」
「ま、あんたみたいな冴えない男がウィルソンとどうこうなるなんてだ~れも思ってないから!」
ノエルは椅子を畳み、彼に「何か思い出したら連絡してくれ」とだけ伝えるとさっさと部屋を後にする。彼はそれに了承すると愛想笑いを浮かべて見送った。
長い廊下は相変わらず人気がなく、背後から追いかけてきたレミの「ちょっと待って!」という声がよく反響した。
面倒くさそうに足を止めたノエルに彼女は動じることなく歩きながら話そうと提案する。どうせ断ったところで彼女は引かないだろう。
「…手短に頼む」
「分かった。…ヒラキはやっぱり何も覚えてなかった?」
「ああ。意識が回復してそう経っていないから仕方がない。…彼は王国民なんだな。本人から聞くまで気が付かなかった」
王国民を見分ける方法の一つにその"訛り"が上げられる。イントネーションが若干帝国とは違う、ただそれだけだが些細な事で笑いものにする連中は沢山いるのだ。
「この間話したでしょ?…王国民の従業員がクビになったって。ヒラキもそのうちの一人なの。本人はクビにされた記憶が飛んでるみたいだけど…」
「他のクビにされた王国民とは連絡がついたのか?」
彼女は「その事についてあんたにお願いがある」と切羽詰まったように浅い呼吸を繰り返す。彼女にとって余程重要な事なのだろう。
「実は、…ずっとその王国民の従業員と連絡が取れないの。ヒラキは見つかったけど後の三人の行方が分からない。」
「クビになってもうデリカロッドの人間とは関わりたくないんじゃないか」
「そうかもしれない、…だけどそうじゃない。嫌な予感がする。」
両腕で自分を抱くレミはソワソワと落ち着かない様子でその長い爪をパタパタと動かした。
エレベーターの前、ノエルは下の矢印を押して上へ上がってくるのを待つ。二階、三階…点灯するランプに早く来い、と思うのは彼女が面倒な事を言い出しそうだからだ。
「…三人を探して!」
「出来ない」
「どうして?事件に関係しているかもしれないのに!」
「………」
エレベーターがようやく五階まで登ってきた。ノエルはその箱に乗ると、直ぐに開閉ボタンを押す。彼女はノエルが応える気がないと分かると、腹が立ったのか閉まる扉をガン!と蹴った。
「クソバッジ付き!」と罵る声は、五階に残されたままエレベーターは降りていく。
(…三人の行方か。一応ローレン部隊長に報告はしておこう…)
扉を開けたら最近は『おかえり』と出迎えがある。しかし今日はそれも無いようだ。薄暗い廊下にほんの少し感じる寂しさをノエルは(仕事の疲れが溜まっているからだ)と解釈した。
「いないのか?」
リビングも寝室も浴室からトイレまで明かりが灯っていない。ノエルは男に『外出するのはいいが自己責任で極力遠出はするな』と言いつけたので、どこか出かけたのだろう。リビングの明かりを灯すとテーブルの上に走り書きのメモが置かれている。
『ロボットが故障したので部品と食料をそこまで買いに行ってくる。安心したまえ、私だとバレないよう変装するから。寂しいだろうがいい子に待っているように』
ぐっと眉を寄せてノエルは制服を適当に脱ぎ捨てソファーに横になった。最近ウィルソンがこのソファーで寝ているせいか久しぶりの革の感触だ。少し男の甘い香りが残っている。
色々とやらなければならない事はあるが、寝転がった瞬間何も考えられぬほど眠くなった。
(大丈夫なのか?また王打会に付け回されて大変なことになって無ければいいが…報告書も作成しないと…)
意識が段々現実と夢の間で混ざり出した。ふわふわと心地の良い感覚が全身に巡るとそこはもう夢の世界だ。
暗闇の中で浮かぶ白い背中、それはゴツゴツとしていて女のものとは思えない。だが艶めかしく、夢の中のノエルはその肌に触れたいと強く思ったのだ。
躊躇いも葛藤もなく肌の感触を確かめた。…自分が嫌になるが、その体が誰のものなのか理解している。隠れた願望の現れ?夢の中の自分は欲求のままに行動するのだ。
『ノエル、どうしたんだ?』と落ち着いた声が問いかける。その声は届いていたが、答えることはない。筋肉のハリで指先が跳ね返され、更にその感覚を全身で味わいたいとノエルは男の背中を抱き締める。
『お前…変だ。やめろ』とその腕から逃れようとする男に無性に腹が立って、グッと腕に力がこもった。
『俺に触れると安心するんだろう。だから触ってやっている』とおぞましい台詞が自分の口から発せられた。
首筋に顔を埋めて、脇腹、骨張った鎖骨の窪みを撫で回す。少し汗ばんだ肌は誘うように手のひらに吸い付いてなんとも手放し難く、夢中になってその体を撫で回した。
違う、汗ばんでいるのはノエルの汚い手で、男の体は闇の中で清く輝いているだけに違いない。
ガチャン、と扉が乱暴に開け放たれなければ、夢の中のノエルは男を穢らわしい欲望で貶める所だった。
静かな足音でリビングまでやって来た男は「ただいま」と呑気に声をかける。
その目覚めは酷いものだ。のそのそと上体を起こし、体に異変が無いか確認した。
(……大丈夫)
ノエルは体が反応を示さなかった事にホッと胸を撫で下ろす。夢は願望ではなくただの意味不明なツギハギだ。きっと抱いていたのは目の前の男ではなく昔のガールフレンドだったはずだ。…そうでなくては困る。
「安売りでつい沢山買ってしまったよ」
変装と言うには帽子を被っただけのウィルソンは大量の食料品を買ったのだろう、ガサガサと袋を鳴らしながら帰宅した。
「抜け殻を散らかしてるなんて珍しい。寝ていたのに起こしてしまったな」
「…いや、構わない」
せっせとノエルの脱ぎ散らかした制服を彼は抱え、洗濯カゴに放り込んだ。そして何やらキッチンで買ってきた物を仕分けして、今晩食すものだけ持ってくる。
「少し横に退いてくれ。」
男はノエルの隣に座ると、テーブルに二人分の食事を広げた。殆どハイカロリーの茶色い肉の塊、気持ちばかりの彩り野菜。「お前これ好きだっただろ?」とノエルが良く飲む『砂糖レモンジュース』も買ってきたようだ。
甘い香りが鼻腔をくすぐると脳裏には先程の夢が過ぎる。
「今日はどこに行っていたんだ?」
「…仕事だ」
「バッジ付きも大変だな。」
ウィルソンはジュースにストローを突き立て、少量ずつ吸い上げる。その甘ったるさに一瞬目を見開いて、「…お前は甘党なんだな」と眉を下げながら笑った。
帽子を寝癖が着いたまま被ったのか、ぴょこんと跳ねた白金の髪をノエルはそっと指で整えた。指の間の柔らかく、ノエルの思い通りに大人しくなる髪はいつまでも触っていたくなる。
その行動を咎めることも無くされるがままでは、誰がその奇行を止めるというのか。
「…どうした?寂しかったのか?」と子供をあやす様に優しい声色の男は吸い込まれそうな瞳で覗き込む。それはノエルの衝動を受け入れ、甘やかすのだ。
(……俺はとち狂ったんだろうか)
また催眠にかけられたように男以外がボヤけていく。その頬まで下った手のひらにウィルソンは自分の手を重ねてじゃれるように頬擦りするのだ。時々触れる赤い唇は誘うように暖かい。
このままこの空気が続けばあの夢をなぞるようにおかしくなってしまうのではないか、言い寄れぬ恐怖が一歩踏み止まらせている。
ノエルはその手を不器用に引っ込めると、よからぬ事をしないよう両手をぎゅっと組む。目を閉じてゆっくり深呼吸した。
(違う、…違う。)
そう言い聞かせ、冷静さを取り戻す努力をする。
「……お前は俺に触れられる事に嫌悪感は湧かないのか」
「この間言っただろう、私はお前に触れると安心する。でも少し驚いた、お前からだなんてね。少しは仲良くなれたようで嬉しい」
(……ああ、駄目だ)
これ以上ウィルソンと話していると自覚せざるを得ない。ノエルは席を立って、食事を取らぬまま自室へ籠ることにした。これが気の迷いでもそうでなくとも、色々と精査しなければならない。
無言で立ち去ったノエルに、残されたウィルソンは並べられた食事を残念そうに見つめて「また距離感を間違えた」と一人チキンにかぶりつくのであった。
窓の一つや二つ、作っても良さそうな程圧迫感を感じる部屋。コンクリートの壁はまるで独房にでもいるような気になる。中央の円卓は会議するには手狭だが少人数ならば問題は生じない。
そこで一人テーブルを独占し、提出する報告書をデータベースに纏め終える。凝り固まった体をグイッと伸ばし、ちらりと時刻を確認した。
(…八時集合と聞いていたが…)
一時間、気が付かぬうちに経っていたようだ。だがローレンもサコダもいつまでもやって来る気配がない。ノエルは時刻を間違えたのかとローレンからのメッセージを確認しても時刻、場所共に間違いでは無い。
(何かトラブルでもあったのか?)
ノエルは新たなメッセージが届いていないか確認するが特にそれもなかった。二人はこのまま来ないかもしれないが、入れ違いになっても面倒なので連絡があるまでこの独房を堪能する他ない。
昨晩まともに眠れなかった男の下瞼には黒いクマが染み付いて酷い顔だ。円卓に突っ伏し、(人の気も知らずあの男は…)と眠い目を擦った。
今朝のウィルソンは床で掃除ロボットを抱いてすやすやと眠っていた。散らかった工具に囲まれて、頬にオイルを付けたまま、朝日に目を覚ますこともなく熟睡だ。それに腹が立つが起きていたらいたでノエルは困っていた。
ウィルソンは男のノエルにベタベタ触れられて何故平気なのだろう。彼はやたらと『安心』という言葉を使いたがるが、一瞬でも汚い欲を向けた男のどこに『安心』を感じるというのか。
(最近それらしい事をしていなかったから、たまたま手近かな美しい男に欲情しただけ…なのか)
自分でも恐ろしいがあの男に性的魅力を感じたのは紛れもない事実だ。それがただの一過性のものだといいのだが。
(しかし…これは厄介だ)
一緒に暮らす以上、その事実は非常に困った問題だ。暫くは男と顔を合わせる度罪悪感を感じるだろう。
「すみません!前のスキープカーが事故っちゃって!しかも違う駅に降ろされちゃうし!」
乱暴に開けられた扉から現れたサコダは言い訳を並べ立てる。しかし髪が寝癖だらけで、制服のボタンが掛け違えていてはその言い訳は説得力がない。
「あれ?ローレン部隊長いないんすか?」
「…ああ。」
「はぁ~良かったぁ…、次遅刻したら俺やばいんすよね~」
彼は向かい側の椅子を豪快に引いて席に着いた。極力サコダと話さなくて済むようにノエルは終わったはずの報告書のデータベースを開き、作業するふりをした。
「……」
「……ねえねえ先輩、そういえばあの美人のおにーさんどうなったんすか?」
「……」
「無視されると変に勘ぐっちゃうなぁ~。あの後どこかに連れ込んだとか?やりますね~先輩」
にやけ顔のサコダにノエルは不愉快を隠さない。それは少しでも心に疚しさがあるから尚更過敏に感じ取る。
「俺そういうの偏見ないっすよ~」
全く面倒な奴に男の存在を知られたものだ。だがサコダの言う通り黙りを決め込むと更に怪しまれそうである。ここは在り来りな嘘をついてやり過ごす。
「何も無い」
「……まあ、そうっすよね~、先輩の浮ついた話なんて一切聞かないし…。にしても一時間すよね、ローレン部隊長どうかしたんすかね?」
「…さあな」
噂をすれば彼女はやって来る。静かに扉から入室し、珍しく浮かない顔をして。
「…待たせて申し訳ない。」
「何かあったんすか?」
「…そうね。」
かん、かんと心做しかヒールの音すら元気が無い。サコダとノエルはその様子に顔を見合わせる。ローレンは座ることなく二人の前に立つと、言葉を濁すこと無く簡潔に言うのだ。
「不死身の男の捜査は打ち切りになった」
「ええ!?なんで!?」
サコダは驚きのあまり椅子を思い切り後ろに引いて立ち上がる。ノエルも行動には移さないが、彼と同じく驚いていた。
「…"上からのお達し"と言えば納得かしら」
ローレン自身納得していない様子で唇をギリギリ噛んで、悔しさが滲んでいる。
「いやいや、さすがに俺でもそれは納得いかないっすよ!だってこれを逃せば昇進なんて一切望みないし…」
「昇進については上は"善処"するらしいから心配しなくていいわ。」
それにサコダは「良かったぁ~」と安心したのか椅子に座り直した。彼にとってこの件は昇進の為の職務なのだろう。
ノエルはというと、脳内で小さな混乱と戦っていた。男をどう隠すか、どう探しているフリをするか考えなくて済む。…それは非常に有難い打ち切りだ。肩に乗っていた重しが一つ、二つ程降りたのだから。
「というわけで解散よ。明日からは別のチームと合流してもらう」
「ちょっと待ってください。…先日デリカロッドの被害者の証言と―」
「解散、と言ったでしょう。報告書はデータベース上で受け取る。…二人とも今日は早く帰っていいわよ」
ローレンはノエルの話を最後まで聞くことなく急ぎ足でどこかへ向かった。
肩は軽くなったが、どうも腑に落ちない幕引きだ。…ノエルがまだ爆弾を抱えているからそう思うのだろうか。
「……おいサコダ。頼みたいことがある」
「なんすか?金なら貸しませんよ。」
「……………違う。実は昨日ヒラキ・ライトに会いに行ったんだが…」
ノエルはサコダにレミから聞いた消息不明の王国民の事を話した。レミの名前を聞いたサコダは目を輝かせ、「俺がその三人の事調べますよ!」と申し出る。彼女に気があるのだろう、その好意を利用するようで心苦しいが使えるものは使わないと勿体ない。
「でも、なんで急に打ち切り?…なぁーんか匂いますよね~。政府の陰謀?それとも皇族かなぁ?飛躍して宇宙人とか?ワクワクするなぁ~」と彼は落ち着きなく体を揺らした。
「…ワクワク?…お前もするのか」
「俺実は…陰謀論とか大好きなんすよ。二人で帝国の闇を暴いて…とか映画っぽくないすか?そんで百年後とかに英雄として石像になるのとか面白そう」
ノエルは先程サコダは昇進のために職務を熟していると思った。しかし彼を突き動かしているのはそれだけではないようだ。そもそも本気で昇進したいと思っているならば普段から適当な事はしない。
「…まあ悪くは無いが」
「そうと決まれば早速レミちゃんに会いに行ってくるっす!二人で天地をひっくり返しましょう!」
「おい、俺はまだお前の話に乗った訳では……」
サコダはノエルの声など届いていないようで駆け足で退室する。
結局独房に残されたのはノエルだけだ。サコダに話したことを早々に後悔して、一時間で凝り固まった体を引き伸ばしつつ立ち上がった。
(……気は進まないが一旦帰宅してウィルソンに状況を説明するか…)
家で待つ男に対しての感情は纏まっていないが。
戦争の傷跡などそのネオンに隠してしまえば分からないだろう。人々の嘆きは爆音に掻き消え、朝など来ない。そこの住人のうち何人がその事実に気がついているのか。
「帝国警察の者だ。…先週ここに運び込まれたヒラキ・ライトの病室はどこにある」
その黄金に輝くバッジを目にした受付の女は何かを察したのか、「入院病棟は五階でございます。そちらの受付の方で」とだけ言うと、さっさと奥に引っ込んだ。
ノエルは言われた通りに五階へ向かうことにした。エレベーターに向かう途中、沢山の怪我人が待合室でぐったりしている姿を目撃する。
折れた腕をぶら下げる男、身体中痣だらけで震える女、顔がパンパンに腫れ上がった子供。彼らは皆同じ顔をして順番を待つのだ。
エレモアシティー総合病院には色々な患者が朝昼晩関係なく舞い込む。反政府組織は素より戦争孤児や降伏した王国民など、帝国が隠したい様々な"腫れ物"が押し込まれた街だからだ。
五階入院病棟の受付、そこに座る女はタバコを吹かしながらボリボリとピーナッツを咀嚼している。窪んだ瞼、黄ばんだナース服はいつ洗濯したのだろう。
「ヒラキ・ライトの病室はどこだ」
「…はぁ、そこの通路を右に折れて、一番奥の赤色の札が下がっているとこ」
面倒くさそうに説明して、枯れ木のような指で奥を指さした。
「バッジ付きはいいわね、えらそーにしても金が沢山貰えるんでしょ?」と嫌味をぶつけ、わざとらしく口を開けて咀嚼する。
(…偉そう…か)
ノエルは少し女の言葉を気にしながら右の通路を曲がった。五十メートル程真っ直ぐ伸びた廊下の左右には病室が並んでいる。
…時刻は昼の十一時過ぎだというのに人の気配が一切感じられない。
重症患者のみの病棟で、皆身動きが取れないのか?それにしても他の看護師がいてもいいはずだがあの受付以外居ない気がしてきた。
(…ここか)
一番奥、確かにそこの部屋には赤い札が掛けられている。ノエルは「帝国警察の者だ」と三回ノックした。すると中から「…どうぞ」と弱々しい男の声が入室を許可する。
扉の先にはベッドで上体だけ起こした男が愛想笑いを浮かべて「…こんにちは」と控えめに挨拶をした。点滴に繋がれてはいるものの意識はしっかりあるようだ。
「体調が優れない中申し訳ないが、デリカロッドの事件のことについて話を聞きたい」
ヒラキ・ライト、彼は先の事件の生存者だ。デリカロッドの清掃員で、事件当日社長室の扉の前で倒れていたところを第一発見者の娼婦の通報によりこのエレモアシティー総合病院に運び込まれた。
話によると腹部を撃たれ一時は意識不明の重体だったがだいぶ回復したようだ。
ノエルは断りを入れること無く折りたたみ椅子を広げ腰を下ろす。同じ目線の方が話しやすいだろうと気遣った結果である。
バッジ付きのノエルに肩を強ばらせ、自信なさげに視線を逸らした。冴えないこの男の特徴は若干違う両目の色くらいだ。ノエルは平凡で頼りない気の弱そうな男だという分析をする。
「事件当日の事を覚えていることでいいから教えて欲しい」
「…すみません、何も覚えていないんです。フロアの清掃をいつも通りして…それから記憶がなくて…」
ノエルが少し襟を正しただけで、彼はビクッと体を強ばらせた。
その男の行動は何だかこちらが悪いことをしているような…複雑な気持ちになる。
「…では、話を変えよう。デリカロッドの監視プログラムの操作盤を扱ったことは?」
彼は数秒考えると、「…操作盤は基本的に業者さんが点検作業の時しか触らないので…」と恐る恐る発言した。
「外部の人間が触ることは可能なのか」
「…出来ないことは無いと思います」
当時デリカロッドは監視プログラムがシャットダウンされていた為犯行の映像が残らなかった。被疑者のベン・カインはそれらを『知り合いのハッカーに頼んでダウンさせた』と供述したらしいが、その形跡が見当たらない。
つまりは態々手動で電源を落とした事になるが、そもそも出入口の監視プログラムにベン・カインらしき人間は写っていなかった。そうなるとデリカロッド内部の人間が関係している可能性がある。
(あの男は『巻き込まれただけ』だと言っていたが…。)
一番手っ取り早いのはウィルソンに詳しく話を聞くことだ。本当のことを言うかは分からないが、当時の様子を聞くくらいなら教えてくれそうな気がする。
「…デリカロッドの社長は事件が起こる前から誰かと揉めていたということはあったか?」
「どうでしょう、あの人なんと言うか…嫌な人だったから常に揉めてたかも…。」
「嫌な人、と言うのは具体的にどう嫌なんだ」
ノエルの質問にヒラキは気まずそうに拳をぎゅっと握る。
「当方、王国民の端くれでして…それで色々…」
「詳しく話してくれ」
「…簡単に言うと毎日他の従業員よりいくつか仕事が多かったり…もちろんその分の給与は付きません。人間として扱っていないような暴言や無意味な攻撃なんてのは日常茶飯事ですよ。…はは」
乾いた自嘲は、なんとも痛々しい。ヒラキのように不当な扱いを受けている王国民はきっと見えていないだけで沢山いるのだろう。
ドミニク・モナは王国嫌いで、王国打倒委員会と繋がっていたという話は上がっていた。それにミカジメ料を渋るほど金への執着があったのだろう。それで殺人まで発展することはなにも不自然では無い。
(事件直近の記憶が無いんじゃ、これ以上聞いても時間の無駄だ。…また日を改めて―)
―パタパタとサンダルを鳴らす音。
外からガサツな足音が小走りでこの部屋に向かってきていることに気がつく。
「ヒラキー、服持ってきたけど…て、」
ノックもせず開けられた扉の先にはいつかの娼婦が荷物を抱えて立っている。レミ・ゴールはノエルの顔を見るや否や「あー!」と目を見開いた。抱えていた荷物を床にどすんと置いてノエルに駆け寄る。
「なに?どうしてあんたがここに?ヒラキとも知り合いなの?」
「……俺はデリカロッドの事件について捜査しているだけだが」
「あ、なるほどね。でもこんな偶然あるんだ~」
レミの盛り上がりに「…えっと……二人は知り合い?」とベッドの上の男は眉を下げる。
「ほら、昨日話したでしょ。彼がウィルソンの―」
「え?………この人が?」
どうやら彼女はヒラキに二人の関係を話したらしい。勝手にペラペラ喋るレミをノエルは睨みつけるが効果は期待できない。話してしまったのなら仕方がないと割り切って対応するしかない。
「…あの男の知り合いか?」
「…ええ、まあ…そんなところです…。顔見知り…というか…職場によく来るんですよ…。特別仲が良い訳じゃ…」
ヒラキの顔色は心做しか初めより悪くなっている気がする。まるで繋がれた管から血を吸われているように青ざめ、声量も無く弱々しい。そんな彼とは対極的にレミの甲高い声が割って入った。
「二人は大の仲良しよね~。親友?と言うより傍から見たら恋人みたいな?」
病人をからかうようにレミはにっと笑った。それに対してヒラキはガシャン、と点滴スタンドが倒れそうになるほど大きな動作をして否定する。
「違う!!…違います。レミさん、おかしなこと言わないでください」
「なによ~、ちょっと元気付けようと思っただけじゃん」
「そんなんじゃ元気になりませんよ…。変な誤解が生まれるのでやめてください…」
「ま、あんたみたいな冴えない男がウィルソンとどうこうなるなんてだ~れも思ってないから!」
ノエルは椅子を畳み、彼に「何か思い出したら連絡してくれ」とだけ伝えるとさっさと部屋を後にする。彼はそれに了承すると愛想笑いを浮かべて見送った。
長い廊下は相変わらず人気がなく、背後から追いかけてきたレミの「ちょっと待って!」という声がよく反響した。
面倒くさそうに足を止めたノエルに彼女は動じることなく歩きながら話そうと提案する。どうせ断ったところで彼女は引かないだろう。
「…手短に頼む」
「分かった。…ヒラキはやっぱり何も覚えてなかった?」
「ああ。意識が回復してそう経っていないから仕方がない。…彼は王国民なんだな。本人から聞くまで気が付かなかった」
王国民を見分ける方法の一つにその"訛り"が上げられる。イントネーションが若干帝国とは違う、ただそれだけだが些細な事で笑いものにする連中は沢山いるのだ。
「この間話したでしょ?…王国民の従業員がクビになったって。ヒラキもそのうちの一人なの。本人はクビにされた記憶が飛んでるみたいだけど…」
「他のクビにされた王国民とは連絡がついたのか?」
彼女は「その事についてあんたにお願いがある」と切羽詰まったように浅い呼吸を繰り返す。彼女にとって余程重要な事なのだろう。
「実は、…ずっとその王国民の従業員と連絡が取れないの。ヒラキは見つかったけど後の三人の行方が分からない。」
「クビになってもうデリカロッドの人間とは関わりたくないんじゃないか」
「そうかもしれない、…だけどそうじゃない。嫌な予感がする。」
両腕で自分を抱くレミはソワソワと落ち着かない様子でその長い爪をパタパタと動かした。
エレベーターの前、ノエルは下の矢印を押して上へ上がってくるのを待つ。二階、三階…点灯するランプに早く来い、と思うのは彼女が面倒な事を言い出しそうだからだ。
「…三人を探して!」
「出来ない」
「どうして?事件に関係しているかもしれないのに!」
「………」
エレベーターがようやく五階まで登ってきた。ノエルはその箱に乗ると、直ぐに開閉ボタンを押す。彼女はノエルが応える気がないと分かると、腹が立ったのか閉まる扉をガン!と蹴った。
「クソバッジ付き!」と罵る声は、五階に残されたままエレベーターは降りていく。
(…三人の行方か。一応ローレン部隊長に報告はしておこう…)
扉を開けたら最近は『おかえり』と出迎えがある。しかし今日はそれも無いようだ。薄暗い廊下にほんの少し感じる寂しさをノエルは(仕事の疲れが溜まっているからだ)と解釈した。
「いないのか?」
リビングも寝室も浴室からトイレまで明かりが灯っていない。ノエルは男に『外出するのはいいが自己責任で極力遠出はするな』と言いつけたので、どこか出かけたのだろう。リビングの明かりを灯すとテーブルの上に走り書きのメモが置かれている。
『ロボットが故障したので部品と食料をそこまで買いに行ってくる。安心したまえ、私だとバレないよう変装するから。寂しいだろうがいい子に待っているように』
ぐっと眉を寄せてノエルは制服を適当に脱ぎ捨てソファーに横になった。最近ウィルソンがこのソファーで寝ているせいか久しぶりの革の感触だ。少し男の甘い香りが残っている。
色々とやらなければならない事はあるが、寝転がった瞬間何も考えられぬほど眠くなった。
(大丈夫なのか?また王打会に付け回されて大変なことになって無ければいいが…報告書も作成しないと…)
意識が段々現実と夢の間で混ざり出した。ふわふわと心地の良い感覚が全身に巡るとそこはもう夢の世界だ。
暗闇の中で浮かぶ白い背中、それはゴツゴツとしていて女のものとは思えない。だが艶めかしく、夢の中のノエルはその肌に触れたいと強く思ったのだ。
躊躇いも葛藤もなく肌の感触を確かめた。…自分が嫌になるが、その体が誰のものなのか理解している。隠れた願望の現れ?夢の中の自分は欲求のままに行動するのだ。
『ノエル、どうしたんだ?』と落ち着いた声が問いかける。その声は届いていたが、答えることはない。筋肉のハリで指先が跳ね返され、更にその感覚を全身で味わいたいとノエルは男の背中を抱き締める。
『お前…変だ。やめろ』とその腕から逃れようとする男に無性に腹が立って、グッと腕に力がこもった。
『俺に触れると安心するんだろう。だから触ってやっている』とおぞましい台詞が自分の口から発せられた。
首筋に顔を埋めて、脇腹、骨張った鎖骨の窪みを撫で回す。少し汗ばんだ肌は誘うように手のひらに吸い付いてなんとも手放し難く、夢中になってその体を撫で回した。
違う、汗ばんでいるのはノエルの汚い手で、男の体は闇の中で清く輝いているだけに違いない。
ガチャン、と扉が乱暴に開け放たれなければ、夢の中のノエルは男を穢らわしい欲望で貶める所だった。
静かな足音でリビングまでやって来た男は「ただいま」と呑気に声をかける。
その目覚めは酷いものだ。のそのそと上体を起こし、体に異変が無いか確認した。
(……大丈夫)
ノエルは体が反応を示さなかった事にホッと胸を撫で下ろす。夢は願望ではなくただの意味不明なツギハギだ。きっと抱いていたのは目の前の男ではなく昔のガールフレンドだったはずだ。…そうでなくては困る。
「安売りでつい沢山買ってしまったよ」
変装と言うには帽子を被っただけのウィルソンは大量の食料品を買ったのだろう、ガサガサと袋を鳴らしながら帰宅した。
「抜け殻を散らかしてるなんて珍しい。寝ていたのに起こしてしまったな」
「…いや、構わない」
せっせとノエルの脱ぎ散らかした制服を彼は抱え、洗濯カゴに放り込んだ。そして何やらキッチンで買ってきた物を仕分けして、今晩食すものだけ持ってくる。
「少し横に退いてくれ。」
男はノエルの隣に座ると、テーブルに二人分の食事を広げた。殆どハイカロリーの茶色い肉の塊、気持ちばかりの彩り野菜。「お前これ好きだっただろ?」とノエルが良く飲む『砂糖レモンジュース』も買ってきたようだ。
甘い香りが鼻腔をくすぐると脳裏には先程の夢が過ぎる。
「今日はどこに行っていたんだ?」
「…仕事だ」
「バッジ付きも大変だな。」
ウィルソンはジュースにストローを突き立て、少量ずつ吸い上げる。その甘ったるさに一瞬目を見開いて、「…お前は甘党なんだな」と眉を下げながら笑った。
帽子を寝癖が着いたまま被ったのか、ぴょこんと跳ねた白金の髪をノエルはそっと指で整えた。指の間の柔らかく、ノエルの思い通りに大人しくなる髪はいつまでも触っていたくなる。
その行動を咎めることも無くされるがままでは、誰がその奇行を止めるというのか。
「…どうした?寂しかったのか?」と子供をあやす様に優しい声色の男は吸い込まれそうな瞳で覗き込む。それはノエルの衝動を受け入れ、甘やかすのだ。
(……俺はとち狂ったんだろうか)
また催眠にかけられたように男以外がボヤけていく。その頬まで下った手のひらにウィルソンは自分の手を重ねてじゃれるように頬擦りするのだ。時々触れる赤い唇は誘うように暖かい。
このままこの空気が続けばあの夢をなぞるようにおかしくなってしまうのではないか、言い寄れぬ恐怖が一歩踏み止まらせている。
ノエルはその手を不器用に引っ込めると、よからぬ事をしないよう両手をぎゅっと組む。目を閉じてゆっくり深呼吸した。
(違う、…違う。)
そう言い聞かせ、冷静さを取り戻す努力をする。
「……お前は俺に触れられる事に嫌悪感は湧かないのか」
「この間言っただろう、私はお前に触れると安心する。でも少し驚いた、お前からだなんてね。少しは仲良くなれたようで嬉しい」
(……ああ、駄目だ)
これ以上ウィルソンと話していると自覚せざるを得ない。ノエルは席を立って、食事を取らぬまま自室へ籠ることにした。これが気の迷いでもそうでなくとも、色々と精査しなければならない。
無言で立ち去ったノエルに、残されたウィルソンは並べられた食事を残念そうに見つめて「また距離感を間違えた」と一人チキンにかぶりつくのであった。
窓の一つや二つ、作っても良さそうな程圧迫感を感じる部屋。コンクリートの壁はまるで独房にでもいるような気になる。中央の円卓は会議するには手狭だが少人数ならば問題は生じない。
そこで一人テーブルを独占し、提出する報告書をデータベースに纏め終える。凝り固まった体をグイッと伸ばし、ちらりと時刻を確認した。
(…八時集合と聞いていたが…)
一時間、気が付かぬうちに経っていたようだ。だがローレンもサコダもいつまでもやって来る気配がない。ノエルは時刻を間違えたのかとローレンからのメッセージを確認しても時刻、場所共に間違いでは無い。
(何かトラブルでもあったのか?)
ノエルは新たなメッセージが届いていないか確認するが特にそれもなかった。二人はこのまま来ないかもしれないが、入れ違いになっても面倒なので連絡があるまでこの独房を堪能する他ない。
昨晩まともに眠れなかった男の下瞼には黒いクマが染み付いて酷い顔だ。円卓に突っ伏し、(人の気も知らずあの男は…)と眠い目を擦った。
今朝のウィルソンは床で掃除ロボットを抱いてすやすやと眠っていた。散らかった工具に囲まれて、頬にオイルを付けたまま、朝日に目を覚ますこともなく熟睡だ。それに腹が立つが起きていたらいたでノエルは困っていた。
ウィルソンは男のノエルにベタベタ触れられて何故平気なのだろう。彼はやたらと『安心』という言葉を使いたがるが、一瞬でも汚い欲を向けた男のどこに『安心』を感じるというのか。
(最近それらしい事をしていなかったから、たまたま手近かな美しい男に欲情しただけ…なのか)
自分でも恐ろしいがあの男に性的魅力を感じたのは紛れもない事実だ。それがただの一過性のものだといいのだが。
(しかし…これは厄介だ)
一緒に暮らす以上、その事実は非常に困った問題だ。暫くは男と顔を合わせる度罪悪感を感じるだろう。
「すみません!前のスキープカーが事故っちゃって!しかも違う駅に降ろされちゃうし!」
乱暴に開けられた扉から現れたサコダは言い訳を並べ立てる。しかし髪が寝癖だらけで、制服のボタンが掛け違えていてはその言い訳は説得力がない。
「あれ?ローレン部隊長いないんすか?」
「…ああ。」
「はぁ~良かったぁ…、次遅刻したら俺やばいんすよね~」
彼は向かい側の椅子を豪快に引いて席に着いた。極力サコダと話さなくて済むようにノエルは終わったはずの報告書のデータベースを開き、作業するふりをした。
「……」
「……ねえねえ先輩、そういえばあの美人のおにーさんどうなったんすか?」
「……」
「無視されると変に勘ぐっちゃうなぁ~。あの後どこかに連れ込んだとか?やりますね~先輩」
にやけ顔のサコダにノエルは不愉快を隠さない。それは少しでも心に疚しさがあるから尚更過敏に感じ取る。
「俺そういうの偏見ないっすよ~」
全く面倒な奴に男の存在を知られたものだ。だがサコダの言う通り黙りを決め込むと更に怪しまれそうである。ここは在り来りな嘘をついてやり過ごす。
「何も無い」
「……まあ、そうっすよね~、先輩の浮ついた話なんて一切聞かないし…。にしても一時間すよね、ローレン部隊長どうかしたんすかね?」
「…さあな」
噂をすれば彼女はやって来る。静かに扉から入室し、珍しく浮かない顔をして。
「…待たせて申し訳ない。」
「何かあったんすか?」
「…そうね。」
かん、かんと心做しかヒールの音すら元気が無い。サコダとノエルはその様子に顔を見合わせる。ローレンは座ることなく二人の前に立つと、言葉を濁すこと無く簡潔に言うのだ。
「不死身の男の捜査は打ち切りになった」
「ええ!?なんで!?」
サコダは驚きのあまり椅子を思い切り後ろに引いて立ち上がる。ノエルも行動には移さないが、彼と同じく驚いていた。
「…"上からのお達し"と言えば納得かしら」
ローレン自身納得していない様子で唇をギリギリ噛んで、悔しさが滲んでいる。
「いやいや、さすがに俺でもそれは納得いかないっすよ!だってこれを逃せば昇進なんて一切望みないし…」
「昇進については上は"善処"するらしいから心配しなくていいわ。」
それにサコダは「良かったぁ~」と安心したのか椅子に座り直した。彼にとってこの件は昇進の為の職務なのだろう。
ノエルはというと、脳内で小さな混乱と戦っていた。男をどう隠すか、どう探しているフリをするか考えなくて済む。…それは非常に有難い打ち切りだ。肩に乗っていた重しが一つ、二つ程降りたのだから。
「というわけで解散よ。明日からは別のチームと合流してもらう」
「ちょっと待ってください。…先日デリカロッドの被害者の証言と―」
「解散、と言ったでしょう。報告書はデータベース上で受け取る。…二人とも今日は早く帰っていいわよ」
ローレンはノエルの話を最後まで聞くことなく急ぎ足でどこかへ向かった。
肩は軽くなったが、どうも腑に落ちない幕引きだ。…ノエルがまだ爆弾を抱えているからそう思うのだろうか。
「……おいサコダ。頼みたいことがある」
「なんすか?金なら貸しませんよ。」
「……………違う。実は昨日ヒラキ・ライトに会いに行ったんだが…」
ノエルはサコダにレミから聞いた消息不明の王国民の事を話した。レミの名前を聞いたサコダは目を輝かせ、「俺がその三人の事調べますよ!」と申し出る。彼女に気があるのだろう、その好意を利用するようで心苦しいが使えるものは使わないと勿体ない。
「でも、なんで急に打ち切り?…なぁーんか匂いますよね~。政府の陰謀?それとも皇族かなぁ?飛躍して宇宙人とか?ワクワクするなぁ~」と彼は落ち着きなく体を揺らした。
「…ワクワク?…お前もするのか」
「俺実は…陰謀論とか大好きなんすよ。二人で帝国の闇を暴いて…とか映画っぽくないすか?そんで百年後とかに英雄として石像になるのとか面白そう」
ノエルは先程サコダは昇進のために職務を熟していると思った。しかし彼を突き動かしているのはそれだけではないようだ。そもそも本気で昇進したいと思っているならば普段から適当な事はしない。
「…まあ悪くは無いが」
「そうと決まれば早速レミちゃんに会いに行ってくるっす!二人で天地をひっくり返しましょう!」
「おい、俺はまだお前の話に乗った訳では……」
サコダはノエルの声など届いていないようで駆け足で退室する。
結局独房に残されたのはノエルだけだ。サコダに話したことを早々に後悔して、一時間で凝り固まった体を引き伸ばしつつ立ち上がった。
(……気は進まないが一旦帰宅してウィルソンに状況を説明するか…)
家で待つ男に対しての感情は纏まっていないが。
0
あなたにおすすめの小説
真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~
水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。
アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。
氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。
「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」
辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。
これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!
捨てられた生贄オメガ、魔王城で極上の『巣作り』始めます!~不眠症の魔王様、私のクッションで爆睡して溺愛モードに突入~
水凪しおん
BL
「役立たずのオメガ」として冷遇され、血も涙もない魔王への生贄として捨てられたリノ。
死を覚悟して連れてこられた魔王城は、寒くて硬くて、居住性最悪のブラック環境だった!?
「こんなところで寝られるか!」
極限状態で発動したオメガ特有の『巣作り本能』と、神業レベルの裁縫スキルが火を噴く!
ゴミ同然の布切れをフカフカのクッションに、冷たい石床を極上のラグマットにリフォーム。
すると、不眠症で常にイライラしていた魔王ザルドリスが、リノの作った「巣」のあまりの快適さに陥落してしまい……?
「……貴様、私を堕落させる気か」
(※いいえ、ただ快適に寝たいだけです)
殺されるどころか、魔王様に気に入られ、気付けば城中がリノの虜に。
捨てられた生贄オメガが、裁縫一つで魔王城を「世界一のマイホーム」に変える、ほのぼの逆転溺愛ファンタジー!
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。
きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。
自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。
食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。
【8話完結】強制力に負けて死に戻ったら、幼馴染の様子がおかしいのですが、バグですか?
キノア9g
BL
目が覚めたら、大好きだったRPGの世界に転生していた。
知識チートでなんとか死亡フラグを回避した……はずだったのに、あっさり死んで、気づけば一年前に逆戻り。
今度こそ生き残ってみせる。そう思っていたんだけど——
「お前、ちょっと俺に執着しすぎじゃない……?」
幼馴染が、なんかおかしい。妙に優しいし、距離が近いし、俺の行動にやたら詳しい。
しかも、その笑顔の奥に見える“何か”が、最近ちょっと怖い。
これは、運命を変えようと足掻く俺と、俺だけを見つめ続ける幼馴染の、ちょっと(だいぶ?)危険な異世界BL。
全8話。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる