桜の朽木に虫の這うこと

第１作 桜の朽木に虫の這うこと

第２７話 千里の道も一歩から

「うまい……」

　料理を口に含んで数回咀嚼そしゃくしたところで、ウツロは衝撃しょうげきを受けた。

　箸はしを持つ手が硬直こうちょくする。

　ブロイラーと一緒に固めた岩塩がんえんの中で、トコトン蒸むされたネギから溶け出す、甘み。

　極限まで凝縮ぎょうしゅくされたその「うまみ成分」が、彼の口内こうないで奇跡の化学反応を起こす。

　なんだこれは？

　舌に絡みついてくる……

　液体とも固体ともつかない汁が、俺の味覚をとろけさす。

　ネギの甘みと塩の辛からみがほどよく融合し、噛かめば噛むほど飽和する。

　ウツロはわれを忘れて、その美味を文字どおり噛みしめた。

　舌が嫌悪を感じるギリギリの熱さ。

　味わうほどにそれが鼻から抜けていき、味覚だけではなく嗅覚きゅうかくをも刺激して、形容できない至福をもたらす。

　ああ、幸せだ。

　こんなに幸せで、いいんだろうか？

「……悔くやしいけれど、おいしいよ、その……『柾樹まさき』……」

「やっと名前、呼んでくれたな、ウツロくん・・・・・？」

「……」

　屈辱くつじょくだ……

　だが俺の負けだ、完全に。

　この男、南柾樹みなみ　まさきの腕は確かだ。

　俺を料理で、その味で黙らせた。

　俺は、屈服くっぷくしたんだ。

　隠かくれ里ざとでの生活で、飯を作るなど日常茶飯事にちじょうさはんじだった。

　自分で言うのもなんだけれど、自信があった。

　アクタもお師匠様も、俺の作る飯が一番うまいと言ってくれた。

　俺自身、調理の腕には覚えがあるほうだと思っていた。

　だが、これは……

　南柾樹……

　この男の作る飯は、なんてうまいんだ……

　言葉などでは、とうてい表現できない。

　ただ、口福こうふくであるとしか言えない。

　クソっ、なんでだ？

　なぜこんな男に、こんなうまい飯が作れるんだ？

　理解の範疇はんちゅうをはるかに超えている。

　人を見かけで判断してはならない。

　それはわかる、重々じゅうじゅうわかる。

　だがいくらなんでもこれは、この落差はなんだ？

　クソっ、いまいましい。

　うますぎる、こいつの料理は。

　手が止まらない。

　箸ごとかじってしまいそうだ。

　いっそ皿までしゃぶりつきたい。

　クソっ、うまい、うますぎる……！

「おいおい、ゆっくり食えって。飯がのどに詰つまっちまうぜ？」

「うっ――！？」

　ハッとして、周囲を見回す。

　一同が料理にがっつくウツロの姿を、ポッカリと口を開いて見つめている。

　し、しまった……

　俺としたことが、あまりのうまさに……

　はっ、まさか……

　これもこの男の策略さくりゃくなのか……？

　俺に料理をむさぼらせ、その醜態しゅうたいを衆目しゅうもくの場ばにさらし、俺に恥はじをかかせ、精神的に追いつめるという作戦だな……？

　おのれ、南柾樹……

　やはり、狡猾こうかつなやつだ……！

「仕込んだな？　南柾――」

「お、おい！」

「ウツロさん！」

「ちょっと、ウツロくん！　大丈夫！？」

　料理がのどに詰つまった。

　外見も内面も一見いっけんクールな彼であるが、気道をふさいだネギを必死に吐き出そうと咳せきこんだり、胸むなもとを殴打おうだするその姿は、はっきり言ってバカ丸出しである。

「はあ～」

「うっ！？」

　深くため息をついたあと、星川雅ほしかわ　みやびが的確な位置に当て身を入れ、ウツロの口から、それは立派なネギが吐き出された。

「いっ！？」

　食事から吐瀉物としゃぶつへと変化したそれは、真向かいに座っている真田龍子さなだ　りょうこの眉間みけんをしたたかに打った。

「おい、龍子っ！　バカか、てめえっ！」

　白目しろめをむいて泡あわを吹く彼女。

　南柾樹は唾つばを飛ばして、ウツロを叱責しっせきした。

「姉さん、しっかり！」

　椅子いすから崩くずれかかった姉を、真田虎太郎さなだ　こたろうはがんばって支えている。

「ウツロくうん……あとでゆっくり、お話ししましょうか……？」

　引きつった笑顔を、星川雅は目の前の「バカ」へ向けた。

「す、すみません……」

　ウツロはすっかり萎縮いしゅくして、彼女が真田龍子を処置するのを、縮ちぢこまりながら待っていた。

　地獄の時間である。

　南柾樹、真田虎太郎の両名は、ジトッとした視線を余すことなく、この愉快な少年へ送り続けた。

　終わった……

　俺も、ここまでか……

　「人間」になる、どころではない。

　これでは道化どうけ役者のほうが、よっぽど高級だ。

　それよりも何よりも、ああ……

　真田さんに、嫌われる……

　彼の全身は、鳥肌とりはだと脂汗あぶらあせでいっぱいになった。

　がんばれウツロ、負けるなウツロ。

　千里の道も一歩からだ。

　だが、「人間」までの道のりは、果てしなく遠い……

（『第２８話　調停ちょうてい』へ続く）