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13 全ての決着
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喫茶店を出たその足で、私は阪急皆月市駅の構内にある100円ショップに立ち寄った。
調理用の刃渡りの長いそれをセルフレジに持っていってバーコード決済で購入して、レジ袋は買わずにバッグにしまい込んだ。
そして、私はその足でずっと行きたかった場所に向かった。
202号室と表札に書かれた部屋のインターホンを無言で何度も鳴らすと、嶋田先輩は部屋着らしい上下の薄手のスウェット姿で玄関のドアを開けた。
室内には暖房がよく効いていて、こんな体型なのにこの人は寒がりなのだろうかと私はどうでもいいことを考えた。
「日比谷先生……」
「……」
「とりあえず……中入ります?」
「お願いします」
先輩の家に入る所を目撃されたくないなどと、今更考えている場合ではなかった。
初めて見た嶋田先輩の下宿は2LDKのファミリー向けマンションで、裕福な開業医の息子だとは聞いていたけど一人でこんなに広い下宿に住んでいるとは予想していなかった。まさか彼女ができた時のためにという訳でもないだろうけど、お金持ちが考えることは私には分からない。
先輩は目測で12帖ほどもあるリビングに私を通し、別の部屋からパイプ椅子を運んでくると私にとりあえず座るよう促した。
高級そうな木製の椅子に座っている先輩と食卓のテーブルを挟んで向かい合い、先輩は何から話を切り出そうかと迷っている様子だった。
「あの……とりあえず今の日比谷先生がただならぬ状況にあることは雰囲気で分かりました。それは合ってるよね?」
「……」
私は無言で頷いた。
「それって僕に責任があることなのかな? もしかして……」
「先輩と会っていたことを、彼氏の浮気相手の看護師に知られました。彼氏に伝わっているかどうかは知りませんけど、どっちみち私はもう終わりです」
「それは……」
驚いた顔をした先輩の目の前で、私は先ほど100円ショップで購入した「調理器具」をバッグから右手で取り出した。
プラスチックの容器を開けて乱暴にセラミックの包丁を取り出すと包装をテーブルに置いて、私は右手でしっかりと包丁の柄を握ると椅子から立ち上がった。
突然刃物を見せられた先輩は恐怖を感じてか椅子に座ったまま硬直していて、私の意図を誤解している様子の彼に私は少しでも先輩を安心させたいと思って言葉を続けた。
「今から彼氏の下宿に行って、あいつを刺し殺して私も頸動脈を切って死にます。これまで先輩を私のプライベートに巻き込んでしまって本当にすみませんでした」
「日比谷先生、やけになっちゃいけない!」
「浮気されたから仕返ししたいとか、そういう話じゃなくて。私もう人生が辛いんです。あんな辛い思いをして、こんな暗い気持ちで生き続けるぐらいならあいつを道連れにしてこの世からさよならします」
「本当に落ち着いてください。君が死んだら僕は悲しい」
「だったら、どうして……」
私は先輩に何をしてほしかったのだろう。先輩に今何を言ってほしいのだろう。
わざわざ先輩の家まで来てこんな狂人のような真似をして、私は一体何を求めているのだろう。
包丁の柄を右手でぎゅっと握ったまま硬直している私に、先輩は薄手のスウェット姿のまま恐る恐る近づいてきた。
そして私の右手にゆっくり両手を伸ばして、包丁の柄を握っている私の右手を両手で優しく包んだ。
接近したまま肥えた顔でじっと私の顔を見つめている先輩に、私は心の中で救いを求めた。
そして先輩は私の右手を両手でぎゅっと握ると、
セラミックの包丁の先端を、自分の肥満した腹部へと勢いよく突き立てた。
人生で初めて、私は刃物で人の身体を刺す感覚を体験した。
私が我に返った時には先輩は腹部を包丁で貫かれ、痛みのあまりリビングの床に仰向けに倒れ込んでいた。
「なっ……!?」
「ああああ、あああ痛い、痛い。日比谷先生、でもこれでいいんだ……」
ようやく声が出たことに自分自身混乱しつつ、私は痛みで床をのたうち回る先輩を見て叫んだ。
「何がいいんですか!? あなた一体何がしたいんですかっ!?」
「これでいいんだよ、これで。君は僕に脅されて何度もラブホテルに連れ込まれてレイプされた。だから僕から逃れようと僕を刺した。彼氏さんにどうかそう伝えてください。そうすれば彼氏さんだってきっと分かってくれる」
「先輩、あなたおかしいですよ。私はそんなこと望んでません」
「君が彼氏さんを殺して死んでしまうぐらいなら、僕は君に殺されたい。今すぐ警察と救急車を呼んでください。僕はもう死ぬかも知れないけど、君は警察に正直に話せば犯罪者にならなくて済む。僕が生きていれば、絶対に証言するから……」
スウェットの中からどろどろと赤い血を流しながら、先輩はそのまま意識を失った。
それから何がどうなったのかは、今でもはっきりと思い出せない。
私は119番通報をして、駆けつけた救急隊にこれまでの一部始終を正直に話した。
嶋田先輩はそのまま自分の勤務先である畿内医科薬科大学病院に三次救急扱いで搬送されて、すぐに救急医療部の当直医の先生に開腹止血術を受けて一命をとりとめた。
私は皆月市警察に事情聴取を受けて、先輩が意識を取り戻すまでの間は殺人未遂の嫌疑でそのまま警察に身柄を拘束された。
手術の翌日に目覚めた嶋田先輩は私の身を案じてかあの時先輩の下宿で起こったことを警察に全て正直に話してくれて、先輩が自分で自分を刺したという話が虚偽ではないと判明したことで私はようやく釈放された。
病院が火消しに動いてくれたのか一連の事件は嶋田先輩が自分で自分を刺したという部分だけが病院内で噂になって、私がその場にいたことは辛うじて知られずに済んだ。
それでも私の態度から嶋田先輩の自傷行為に私が何らかの形で関与していたことはそれとなく伝わって、それからは病院内で同じ班の友達を除く誰もが私を敬遠するようになっていった。
あの事件が起きてから、有村も賢人も私の人生に関わってくることは一切なかった。もし私が彼女らの立場でもそうするだろうと思った。
誰だって殺されたくはないから。
そして嶋田先輩は退院してすぐに「一身上の都合」で畿内医科薬科大学病院を退職して、それからは私にも2年目研修医の同期にも何も知らせずに姿を消した。
勤務している初期研修医の名前が公表される病院はごく一部に限られるから、先輩がどこかの病院で初期研修を続けているのかどうかさえ私は知ることができなかった。
あれだけのことがあったのに。
私との関係に何の決着も付けないままで、先輩は私の前からいなくなった。
調理用の刃渡りの長いそれをセルフレジに持っていってバーコード決済で購入して、レジ袋は買わずにバッグにしまい込んだ。
そして、私はその足でずっと行きたかった場所に向かった。
202号室と表札に書かれた部屋のインターホンを無言で何度も鳴らすと、嶋田先輩は部屋着らしい上下の薄手のスウェット姿で玄関のドアを開けた。
室内には暖房がよく効いていて、こんな体型なのにこの人は寒がりなのだろうかと私はどうでもいいことを考えた。
「日比谷先生……」
「……」
「とりあえず……中入ります?」
「お願いします」
先輩の家に入る所を目撃されたくないなどと、今更考えている場合ではなかった。
初めて見た嶋田先輩の下宿は2LDKのファミリー向けマンションで、裕福な開業医の息子だとは聞いていたけど一人でこんなに広い下宿に住んでいるとは予想していなかった。まさか彼女ができた時のためにという訳でもないだろうけど、お金持ちが考えることは私には分からない。
先輩は目測で12帖ほどもあるリビングに私を通し、別の部屋からパイプ椅子を運んでくると私にとりあえず座るよう促した。
高級そうな木製の椅子に座っている先輩と食卓のテーブルを挟んで向かい合い、先輩は何から話を切り出そうかと迷っている様子だった。
「あの……とりあえず今の日比谷先生がただならぬ状況にあることは雰囲気で分かりました。それは合ってるよね?」
「……」
私は無言で頷いた。
「それって僕に責任があることなのかな? もしかして……」
「先輩と会っていたことを、彼氏の浮気相手の看護師に知られました。彼氏に伝わっているかどうかは知りませんけど、どっちみち私はもう終わりです」
「それは……」
驚いた顔をした先輩の目の前で、私は先ほど100円ショップで購入した「調理器具」をバッグから右手で取り出した。
プラスチックの容器を開けて乱暴にセラミックの包丁を取り出すと包装をテーブルに置いて、私は右手でしっかりと包丁の柄を握ると椅子から立ち上がった。
突然刃物を見せられた先輩は恐怖を感じてか椅子に座ったまま硬直していて、私の意図を誤解している様子の彼に私は少しでも先輩を安心させたいと思って言葉を続けた。
「今から彼氏の下宿に行って、あいつを刺し殺して私も頸動脈を切って死にます。これまで先輩を私のプライベートに巻き込んでしまって本当にすみませんでした」
「日比谷先生、やけになっちゃいけない!」
「浮気されたから仕返ししたいとか、そういう話じゃなくて。私もう人生が辛いんです。あんな辛い思いをして、こんな暗い気持ちで生き続けるぐらいならあいつを道連れにしてこの世からさよならします」
「本当に落ち着いてください。君が死んだら僕は悲しい」
「だったら、どうして……」
私は先輩に何をしてほしかったのだろう。先輩に今何を言ってほしいのだろう。
わざわざ先輩の家まで来てこんな狂人のような真似をして、私は一体何を求めているのだろう。
包丁の柄を右手でぎゅっと握ったまま硬直している私に、先輩は薄手のスウェット姿のまま恐る恐る近づいてきた。
そして私の右手にゆっくり両手を伸ばして、包丁の柄を握っている私の右手を両手で優しく包んだ。
接近したまま肥えた顔でじっと私の顔を見つめている先輩に、私は心の中で救いを求めた。
そして先輩は私の右手を両手でぎゅっと握ると、
セラミックの包丁の先端を、自分の肥満した腹部へと勢いよく突き立てた。
人生で初めて、私は刃物で人の身体を刺す感覚を体験した。
私が我に返った時には先輩は腹部を包丁で貫かれ、痛みのあまりリビングの床に仰向けに倒れ込んでいた。
「なっ……!?」
「ああああ、あああ痛い、痛い。日比谷先生、でもこれでいいんだ……」
ようやく声が出たことに自分自身混乱しつつ、私は痛みで床をのたうち回る先輩を見て叫んだ。
「何がいいんですか!? あなた一体何がしたいんですかっ!?」
「これでいいんだよ、これで。君は僕に脅されて何度もラブホテルに連れ込まれてレイプされた。だから僕から逃れようと僕を刺した。彼氏さんにどうかそう伝えてください。そうすれば彼氏さんだってきっと分かってくれる」
「先輩、あなたおかしいですよ。私はそんなこと望んでません」
「君が彼氏さんを殺して死んでしまうぐらいなら、僕は君に殺されたい。今すぐ警察と救急車を呼んでください。僕はもう死ぬかも知れないけど、君は警察に正直に話せば犯罪者にならなくて済む。僕が生きていれば、絶対に証言するから……」
スウェットの中からどろどろと赤い血を流しながら、先輩はそのまま意識を失った。
それから何がどうなったのかは、今でもはっきりと思い出せない。
私は119番通報をして、駆けつけた救急隊にこれまでの一部始終を正直に話した。
嶋田先輩はそのまま自分の勤務先である畿内医科薬科大学病院に三次救急扱いで搬送されて、すぐに救急医療部の当直医の先生に開腹止血術を受けて一命をとりとめた。
私は皆月市警察に事情聴取を受けて、先輩が意識を取り戻すまでの間は殺人未遂の嫌疑でそのまま警察に身柄を拘束された。
手術の翌日に目覚めた嶋田先輩は私の身を案じてかあの時先輩の下宿で起こったことを警察に全て正直に話してくれて、先輩が自分で自分を刺したという話が虚偽ではないと判明したことで私はようやく釈放された。
病院が火消しに動いてくれたのか一連の事件は嶋田先輩が自分で自分を刺したという部分だけが病院内で噂になって、私がその場にいたことは辛うじて知られずに済んだ。
それでも私の態度から嶋田先輩の自傷行為に私が何らかの形で関与していたことはそれとなく伝わって、それからは病院内で同じ班の友達を除く誰もが私を敬遠するようになっていった。
あの事件が起きてから、有村も賢人も私の人生に関わってくることは一切なかった。もし私が彼女らの立場でもそうするだろうと思った。
誰だって殺されたくはないから。
そして嶋田先輩は退院してすぐに「一身上の都合」で畿内医科薬科大学病院を退職して、それからは私にも2年目研修医の同期にも何も知らせずに姿を消した。
勤務している初期研修医の名前が公表される病院はごく一部に限られるから、先輩がどこかの病院で初期研修を続けているのかどうかさえ私は知ることができなかった。
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