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第零章 ―― 哀縁奇淵 ――
第006話 ―― 会って合う
しおりを挟む【前回のあらすじ――。不必要な言葉をラーフに咎められたノックは喧嘩別れし。また別の場所では、驢馬を従えた老人が疣のある鷲鼻まで使って、森で何かを察知していた。ノックは森にある狩り小屋に行きつき、寝そべって、かつて幼いラーフが天井に描いた星座に手を伸ばす】
「なぜ秋の星座であるピグマイオンの隣に春の星座であるアトラスが並んでいるのですか?」
凛とした声が尋ねる。
ノックは星に伸ばしていた手を引っ込め、急ぎ上体を起こす。
自分がついさっき上ってきた床の入口から、少女メリアが無造作に頭を入れていた。
鎧戸が光を遮り影が支配する小屋の中でも、メリアの気品は際立つ。
無用な音を立てずに彼女は、小屋に上がり込む。
所作の一つ一つが額縁で切り取るに値すると心中で断言するノックは、少女の質問を思い出し、視線を迷わせ口を開く。
「ああ、ええっと……。子供のころ、ラーフが適当に描いたから。よく覚えてないや。でも、よく分かったな。どれがどの星座か……」
「旅をしていると星を見ることが多いので。形の簡単なものは覚えました」
「ふーん。お爺さんは……ヘイミルさんだっけ? どうしたの?」
メリアは入口に足を浸す形で床に腰を下ろした。
「御じい様は、ラーフ殿が親類の家を紹介してくれるということで案内されています」
「ああ、でも今は……。あ! あんちゃんは羊小屋か……」
「ええ、今屋敷を使ってらっしゃる親類の方は、羊の見張りを手伝っているため、別の場所で寝泊まりしているとかで……。ラーフ殿の御父上と相談し、逗留のために拝借させてもらう運びとなりました。ちなみに、その後、ラーフ殿は御父上とともに職務に行かれる手はずです。残念ながら……、御じい様の助言もあり、御馳走は、またの機会になりました……大変無念です……」
と語る少女の表情には変化が乏しいが、俯いて目に陰を落とすだけで、心の内がありありと分かった。
そうか……、としか言えないノック。
メリアは。
「御じい様曰く……、宿を借りた上に食事を強請るなど不躾である、と……。ならば宿は抜きにして食事を乞いましょう、と言ったのですが……聞き入れてもらえませんでした……。ちなみに……、ノック殿の御父上は木を虫に食われる前に切り倒しに行かれました」
そうか……、とノックは不愉快を相手にぶつけないために視線を逸らす。
メリアはおもむろにあのお高そうな袋を取り出す。
「落ち着かないときはお腹を満たすのがいいのですよ?」
微笑む少女の手に向かってノックは掌の壁を差し出す。
「待ってくれメリア嬢。あんたの気持ちは有り難い。だが、その気持ちだけで十分だ。ありがとう」
「いえいえ、お気になさらず。私は沢山持ってますから一つ二つ差し上げても痛痒はありませんから」
少女が袋から手を引き抜こうとするのを腕を掴んで押し止めるノック。
「いやいやいやいいんだ。俺は君の真心で胸がいっぱいなんだ。もう大丈夫、むしろ君にこれ以上の気遣いをされたら、そっちのほうが心苦しくて仕方がないよ」
メリアは少年の眼差しに触れ、視線を下げると瞑目した。
「そうですか……。ならばよかった」
ノックは少女の腕から力が引いたのを感じて手を離し、全身の力を抜き、命拾いしたような吐息をこぼす。
「では、日を改めてご馳走します」
少女の透き通った眼差しは、嘘偽りのない相手への敬いと自然の恵みを分かち合いたいという誠実な願いに満たされている。
それが分かるからこそ、ノックは生理的恐怖と申し訳ない気持ちの狭間で感情が摺り潰され。
「あ、うん……。いつかね、いつか。本当にいつかね。今すぐじゃなくて。それこそ、俺の里のおいしいものを味わってから君の饗応に預かるよ」
「ノック殿の言葉遣いは、時に上流階級を思わせますね」
「ああ……、母ちゃんが無駄に教養があって、その影響だってさ。それより、クソ親父は今山でしばかれてんだよな?」
「いえ芝を刈っているのです。いえ、伐木にいそしんでいるのでした」
「つまり、今家に居ないんだよな……。それで、ラーフは仕事中だろ? というと……食事は」
メリアは酷く落ち込む。
「ご明察の通り……。ご相伴に預かることは叶いませんでしたので、ありあわせのもので空腹を凌ぐしかありません。いえ、御じい様の言う通り……。宿の世話までしてもらったというのに、さらには食事の提供まで催促するのはあまりにも無作法が過ぎる。そもそもラーフ殿には果たさねばならぬ職務があり、私のような異邦人にかまっている暇などない」
分かっているのだが無念でどうしようもない、という面持ちで涙を堪えているとすら見えるほど表情を曇らせるメリア。
それに対しノックは。
「そんなに腹減ってるなら……どうする? 俺の家に来る?」
メリアは彼女なりに驚きの感情を目に表し、動揺する。
「え、あ。しかし……。出合ったばかりで、男女が……」
「母ちゃんがいるから」
「あ……」
蔓植物を編んで作った籠には、洗ったばかりの衣服が詰まっていた。
水気を吸って重くなったそれらを抱えるのは、頭を布で適当に巻いた女性だった。髪を隠すのがこの地域の淑女の嗜みだが、豊かな房を呈する茶金の前髪も後ろ髪も日の光に差し出している。
そんな異端の整髪を堂々と披露する女性は腹部の膨らみがなければ十代の乙女と思われるほど闊達な面持ちと今にも走り出しそうな軽快な歩みをしていた。
母ちゃん……、と呼び声がして女性は振り返り、駆け寄ってくる少年に笑みを贈った。
「ノック! 父ちゃんは?」
知らない、と息子の明白で軽薄な答えに、母は呆れてため息を地面に吐く。
「あんたって子は手伝いさぼって……。どうせまた要らんこと言って怒らせて逃げてきたんでしょ?」
「違うよ、要らんこと言ったのは……」
釈明に意気込むノックだったが、母の視線が自分の後ろにあるのを察知して、随伴してくれた少女を平手で指し示す。
「この子はメリアって言って。旅をしてて。ついさっき、たまたま会ったんだ」
メリアは外套から出した右手を胸の位置に差し出すと、叩頭と名乗り申しをする。
その堂に入った立ち振る舞いに圧倒される母親は、持っていた籠を抵抗もなく息子に奪われ、自分のやるべきことを思い出す。
「あ、どうもご丁寧に。あたしはスカーリャ。このバカ息子の母親です」
本当ですか……、と返したメリアは、冷静さを根底に残しつつ心地よいくらいはっきりとした驚きの目を少年と母親に向ける。
「ご姉弟かと思いました」
スカーリャは、あからさまに喜んで、そんなわけないよぉ……、と手で扇ぐ。
微妙な面持ちを母親に向けたノックは、次に少女が空に目を向けているのを見て、両親の顔を並べていると勝手に解釈する。
「ちなみに親父と母ちゃんは3つくらいしか違わないぞ……。それよか……母ちゃん。メリアに何か御馳走してほしいんだけど……」
他人の両親の顔を比べて固まっていたメリアは”御馳走”という言葉に反応する。
スカーリャは我が子に目を丸くした。
「え、何を御馳走するって?」
「そりゃあ飯に決まってるだろ? まさかメリアに枝でも食べさせるつもりかよ?」
枝……、呟くメリアは遠くを見つめ本物の枝を探す。
息子のいつも通りの切り返しにスカーリャは赤面して、初対面の少女の顔色を窺いつつ、息子の前髪を叩いた。
「このバカ! よそ様の前で要らん事言って。それじゃあまるであたしが日ごろお前に枝食わせてるように聞こえるじゃないか! 口ばっかり達者になって、少しは父ちゃんを見習って腕を磨けってんだよ……ッ」
渋面するノックは叩かれた違和感に苛まれて、片腕に洗濯物を抱えながら、自身の前髪を撫でた。
スカーリャは少女に愛想笑いを浮かべる。
「ごめんなさいね。うちのバカ息子が変なこと言って」
「いえ、植物の根なら口にしたことはありますが、枝なんて食べたことありませんので、ぜひ、この機会に枝の味を知りたいと思います」
抱く期待を目の輝きとして発散する少女に、スカーリャは混乱をきたすと、正しいと思える答えが少しも浮かばない。
少女の理知的で粛々とした言葉遣いと雰囲気が、実際の文面と噛み合わず、もしかしたら異文化で解釈違いをしているのか、自分があまりにも世間知らずなのか、身分の差が原因か、とほんの一瞬でいろいろ考え、小さな自己嫌悪と無知の罪悪感が胸を占領する。
母親と思いを同じにするノックだが、事情を知っている分、対応できた。
「メリアごめん。うちには枝を調理する伝統はないし、そもそも枝を食わせるつもりはないんだ」
メリアは目を大きくし、見るからに落胆する。
「では、枝は頂けないと?」
「ごめん、そんなに腹が減ってるとは思わなかった俺が悪かった。冗談のつもりで言ったんだ。この埋め合わせに、俺の母ちゃんの料理を食べてくれ。味は……虫より美味いと保証する」
「え、ちょ、ノック何勝手に言ってんの? それと、あたしの飯を虫と比較するとはいい度胸だな」
ノックは抱える籠の上を横断した母の手に胸倉を掴まれ慌てる。
「違うんだ! 悪口のつもりじゃなくてメリアには、味の基準として虫が分かりやすいと思って!」
「本当ですか?」
息子に詰め寄ろうとしたスカーリャは少女の声に振り返り、新たな期待と興奮に目を輝かせ、ついでに口の端に光るものを垂らすメリアの勢いに怖気づく。
いよいよ、息子の首を腕で手繰り寄せるスカーリャは、少女に背を向けて小声で問い質す。
「どういうこと? 言っとくけど、うちにはあんな別嬪さんを満足させるような上等な食い物なんてないよ? 結納の品もないし、ご両親との挨拶もしてないし……」
「結納もご両親の挨拶もいらない。なんなら日取りも関係ないし俺と彼女はおそらくこの先ずっと仲のいい赤の他人のままだ……」
スカーリャは思案する。
「じゃあ、どうやってあの子を引き留めておくか……」
「引き留めなくていい。一時的でいいからお腹を満たせればいいんだよ。いつも通りの食事を頼む。最悪、土で嵩増しした粥でもボフっぐ……ッ」
母が息子の首に回していた腕は鉄槌に早変わりし、硬い拳がノックの後頭部に打ち下ろされた。
傍から見ていたメリアにとっては、いきなりのことで驚きに肩を跳ねてしまう。
再びスカーリャは半ば気絶した我が子の首を腕で引き寄せ、耳打ちする。
「あたしがいつ粥を土で嵩増ししたってッ? それとも、今度からあんたの飯に土を山のように盛ってやろうか? その代わり残したら承知しないけどね……ッ」
「あ、あのぉ……」
静々とメリアが伺うと、親子は主に呼ばれた召使いほどの機敏さで振り返り、また少女を慄かせる。
いよいよ申し訳なさで表情が頼りないものとなったメリアは言った。
「どうやら、私の我儘によって親子の間に溝を作ってしまったようで。大変申し訳ありません」
あらら、そんなつもりは砂粒ほどもなかった親子は大慌てで否定した。
「そんなことないよ!」
「そうだよ! 母ちゃんが暴力的なのはいつものことボっぅ!」
母の鋭利な肘鉄が横腹に食い込んだノックは、短い呻きの後は一言も話せず、顔を青くしてその場に頽れる。
動揺に身を震わせるメリアに対して、スカーリャは爽やかな笑みで応答した。
「あまり上等なメシ……食事は出せないけど。それでもいいならうちに寄ってきな」
メリアの髪が逆立つ気配を見せる。本当ですか! とありふれた台詞の裏に子供っぽい本心からの喜びが透けてしまう。
少女の隠せない純粋な面を感じてスカーリャは笑みをこぼした。
「ああ、できる限り、腕によりをかけるよ! と言うわけだからノック、あんたは洗濯物を干しときな」
「あ……い」
腹を満たす鋭い痛みにいまだ苛まれるノックは、それでも籠を抱えて歩き出す。
狼を追いかけていたのが嘘のように、その足取りたるや膝関節を痛めた老人と変わず、一歩一歩の痛々しさが切なさを誘う。
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