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第零章 ―― 哀縁奇淵 ――
第016話 ―― 夜のアイ間に
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【前回のあらすじ――。旅人ヘイミルは、里の人たちと獣脚類の脅威について話し合い解散する。宿に入ったメリアは暖炉の火で一切れのチーズを温めながら、里の人に“本当のこと”を話すべきでは、と祖父ヘイミルに問うのだった】
孫娘の言葉にヘイミルは天井を仰ぐ。
「本当のこと、というより、我々の見当でしかない。確証もないのに危惧を伝えたとしても困惑させるだけだろう……。特にアレに関しては、知ることそのものが災いになりえる」
老人はまだ表の道にいるであろう人々のことを思って視線を向ける。
「なに……、彼らも長らくこの地でそれぞれの生業を営んできた。山野を駆け、大自然と向き合ってきたのだろう。ならば、わずかな変化を見逃さず身を守ることもできよう。しかし、彼らの能力を上回る脅威が現れれば、その時こそ……、我々が手を貸せばいい」
「わかりました……」
孫娘は納得と言うにはいささか落ち着きが過ぎる声で是を表明する。
ヘイミルは微笑んだ。
「いつも他者を気遣っているとはいえ。はっきりと言葉にするあたり、この里が気に入ったようだな」
「ええ、これほど異邦人に寛容なのは、あまりないので」
「そうだな。いっそ、定住するか?」
メリアは、丸くした目を一時祖父に向けたが、すぐにチーズを炙るための火に集中するも、熱から食物は遠ざけられた。
「それも悪くありません。ですが、御じい様との旅がまだあります……。繰り返し訪れてもいいですが、もっと広い世界を見たいと思います」
祖父の表情は微笑みが優勢だったが、しかし、虚しさの影が目元に掛かる。
「俺なんぞの心配はいいんだ……。お前は、お前のやりたいように生きればいい」
「では、御じい様とご一緒します」
「メリア……」
「お母様と……」
孫娘の言葉に老人は息を飲む。誰の視線も向いていない安堵からか、家族にさえ見せたくない深い悲しみを露にしてしまう。
それからゆっくりと俯き、祈るように両手の指を組み、握る力を強める。
痛みを堪える様な姿で、少女の言葉にじっと耳を傾ける。
「……お母様と約束しました……。御じい様を支えます、と……。私が力になると……」
孫娘が振り返ると、ヘイミルは急ぎ背筋を伸ばし、表に出した感情を隠すように平静を装う。
そして、焔を背にするメリアの微笑みに対峙する。いかなる言葉が彼女の口から紡がれても受け止められるよう心した。
メリアは視線を下げて、語りだす。
「それにメリアは、御じい様との旅が本当に好きです。広く世界を見渡すのは楽しいです。知ることが増えると、その分、強くなる気がするのです」
ヘイミルはゆっくりと息を吐きだした。
「それだけじゃなく。おいしいものも大好きなんだろ?」
祖父の笑みにメリアも釣られて微笑み、勿論……、と強く頷いた。
「ですので一緒に食べましょう」
常に冷静な少女は無意味に飾らず、正しいと思ったことを臆面もなく口にする。それでいて、ちゃんと言葉は選ぶ。
孫娘の心根に触れ、胸のつかえが薄れるヘイミル。
暖炉の明かりよりも優しく温かい気遣いに満たされる。
「そうか。ではご相伴に預かろう」
祖父が隣にやってくると、メリアは、はたと気づいて、あのお高かそうな袋を取り出し、口紐を解いて中からものを1つ取り出す、という動作を片手でこなした。
孫娘から受け取ったものを掌に乗せたヘイミルは、表情を喪失した。
メリア曰く。
「パンはまだ日持ちするので保留にして、まずは、そちらをお供にしましょう。一緒に食べれば美味しさが倍増するはずです」
パンの代わりとして奉げられたカミキリムシの幼虫は寒気を堪える様に老人の手中で丸くなる。
「あははは、ありがとうメリア」
言葉に最低限の感情を乗せたヘイミルはゆっくりと引き下がる。彼の顔は孫娘が見ていないことをいいことに何の感情も示していなかった。
それを知らないメリアは楽しそうに、まずは自分が口をつけたチーズに程よく火を通す。
「ふふふ、双方ともどもしっかりと焼けば、二重の芳しい香りとなって、きっと病みつきになるでしょう。ぜひ御じい様もご賞味くださいね」
振り返る孫娘が無償の笑顔を見せてくれる。
彼女の期待を台無しにしたくない一心でヘイミルは作り笑いとは思えない朗らかな笑顔を長年連れ添ってきた表情筋で形作る。
メリアは、祖父も自分と同じ思いを共有してくれたと確信し、食材の味を最大限引き出すことに集中し、暖炉の火加減を確認した。
ヘイミルは孫娘の視線が外れた瞬間動き出す。
狼の如く俊敏にそして猫の如く静謐に窓へたどり着き、鎧戸をさっと開いて、森へお帰り……、と囁き、小さな命を窓の外へ投擲した。
「御じい様?」
背中に声を受けたヘイミルは慄然する。
どうしましたか? と孫娘の平穏な声に問い質され、その心臓は言い表せぬ圧力によって拍動する。
振り返ったヘイミルは全力で顎を稼働し口内の空気を咀嚼した。
「うん、なかなか美味だなこの虫は……」
目を逸らすヘイミル。自分と一緒にいることを快く笑って喜んでくれる孫娘を直視することが“ウシロメタサ”という最大の敵を前にして叶わない。
だから絶句したメリアの見開いた眼に気づけなかった。
「御じい様……。いくら我慢できなかったとはいえ。生で食べるのはダメです」
「……」
ヘイミルは唾を飲み込み、そうだな……、と同意した。
悲しげなメリアは。
「それにチーズとの相性を堪能してほしかった。仕方がない……、私の分の虫をどうぞ」
「え?」
孫娘は心からの笑みとともに悪魔と形容された幼虫を差し出した。
「俺は先に寝るからな」
と言ったのは今まで椅子に重い腰を乗せていたダロンだった。彼は食卓の燈火から背いて渋面を闇に隠すが、組んだ腕が肩を持ち上げるほど力み、貧乏揺すりが床を擦って、騒々しい。
「分かったからその足やめて。靴が傷んじまう。床はあんたが無報酬で直せばいいけど、靴は金がかかるんだよ?」
妻の言葉に文句も出ないダロンは、不満に満ちた顔をより闇に近づける。
スカーリャは湯気の立ち上る器に口をつけ、夫の言葉を一応黙って聞く。
「まったく、あのガキはこんな夜更けにどこをほっつき歩いてやがる……。狼に食われたって文句も屁も出ねえぞッ」
「それはまだ2回しか言ってないね。でも1回で聞き飽きた」
そうかよ……、とダロンは立ち上がって居間の奥の扉の前に立つ。鹿の角のノブを潰さんばかりに握り締めると妻に振り返る。
「いいか、あのバカが帰ってきても絶対に家に入れるなよ! 朝まで頭を冷やさせろ」
「はいはい何度も言わなくていいから早く寝るがよい」
「ふん……承知しました……ッ」
夫の素直な言葉だけを受け入れたスカーリャは、欠伸をかいて肩に巻いていた狼の毛皮を体に密着させた。
開けた扉に入ったダロンは頭を出して、絶対入れるなよ……ッ、と念押しするが。
妻はそっけなく手を振って消えてしまえと指図する。
伴侶の態度に納得できない表情のダロンは、しかし何も言わず頭を引っ込めた。
やっと夫がいなくなりスカーリャは椅子から立ち上がると、小さな軋みを挙げて再び屋内の扉が開く。
いよいよスカーリャの顔も険しくなり、なにッ? と語気も強まる。
うっすらと開く扉の奥からダロンが告げた。
「……もし帰ってきたら、まあ……、その時は、謝ったら入れてやれ……。そんでそれ飲ませてやれ」
無骨だが大人しい声色である。
食卓の上にある湯気立つ陶器の水差しを確認したスカーリャは思わず微笑み、わかったよ……、と答える。
そうして扉が閉まり、今度こそダロンは奥に引っ込んだ。
呆れと愛おしさを綯い交ぜにした笑みをこぼすスカーリャは、重い足が階段を踏む音が止むと、窓の鎧戸を開け、行ったよ……、と囁く。
ゆっくりと立ち上がったノックは、室内を覗き込んて安堵した。
「それじゃ、お休み良い夢を」
お休み……、と返答しようとしたスカーリャは目を大きくして鎧戸を持ち上げると、背中を向けようとする我が子の肩を掴んだ。
「ちょっと、あんたどこ行く気?」
「……狩り小屋あるだろ? あそこで寝る。だから、母ちゃんは安心して家で寝てくれ」
唖然とするスカーリャの記憶に蘇る小屋は、一応屋根と壁を持っているが、いつ突風に吹き飛ばされるか知れたものではない、と内心断じてしまう代物。
小屋の強度と息子の体温を保つ能力に疑問を抱かずにはいられず、不安がよぎるスカーリャは、息子が逃げてしまわぬよう且つ夫の耳を気にしつつ言い募る。
「馬鹿言ってんじゃないよ。あんな粗末な……」
馬鹿という言葉に眉が動いたノックだったが、それ以上に、粗末、という言葉に表情を一変させる。
「あの小屋はしっかりと手入れしてるし。強度も申し分ない立派な小屋だ」
失言を意識したスカーリャは頷いた。
「分かったよ。でもまだ枝ノ月なんだよ? 夜は寒くなる。帰りたくないなら、いつもみたいにラーフの家に行きな。きっと……」
「いや……、今日は、今夜は、小屋に行く……ッ」
「凍え死んだらどうすんのさ……」
「そんなことないって。今日だってずっと日の光は出てた。ならいきなり雨が降らない限り問題ない」
「そんなこと言わないで……。ラーフの家に行くか。それか、さっさと父ちゃんに謝って家に入りな」
謝る、という言葉に拒絶の意思が生まれるノックは顔を伏せた。
瞼の裏には得意満面の父親が、ざまあみろ、と言わんばかりに見下してくる光景が実際に見たかのように描かれる。
今までの記憶が切り貼りされて構築された妄想だと理解していても、それでも出所のわからぬ屈辱がこみあげてくる。
そして、同輩の少年の厳しい顔という直近の記憶と、怒りに任せて言い返した自分の姿までもが第三者の視点という架空の立場で思い起こされ。
「嫌だ……」
我が子の予想通りの言葉にスカーリャは特別驚きもしないが、しかし呆れて溜息を吐く。
「なんだってうちの男どもは馬鹿ばっかりなんだろうねぇ」
頭を抱える母親に対し、そんなこと言うなよ……、と言うノックは気後れのある眼差しを向けるが。それ以上的確な指摘が思い浮かばない。
むしろ、母の言葉を自認する気持ちと根拠もなく違うと反発する意思が鬩ぎ合って居心地が悪い。
鎧戸をより持ち上げるスカーリャは、縋るように息子の顔を覗き込んだ。
「母さんも許してもらえるように言ってあげるから」
母親の表情から目を逸らしたノックは。
「いや、いいよ……」
と告げた。
スカーリャは口をへの字に曲げて着崩れていた狼の毛皮を息子に投げつけた。
頭に熱源が激突し、ノックはわずかに声を上げて振り返るが。
鎧戸は、勝手にしな……、という辛辣な言葉を最後に閉ざされる。
音で閂まで使われ完全に締め出されたと覚ったノックは、転がる毛皮を持ち上げる。
柔軟な冬毛に触れるとまだ温もりが毛の奥まで染みていた。
ノックは毛皮を羽織り、柔毛を服に擦り付けながら夜の森へ行くのである。
「畜生……ランプでも貰えばよかった」
後ろから物音がして振り返ると、わずかに開いた鎧戸から、なんと土製のランプを持った手が出ていた。
ノックはさっさと近づき、ランプを下支えした瞬間、母の手が引っ込んだ。
鎧戸を閉ざしたスカーリャは外からの、ありがとう……、という言葉に目を閉じる。
そして、遠ざかっていく足音が聞こえなくなると、閂を鎧戸の木製の爪に引っ掛け、窓枠の左右の窪みに上からはめた。
食卓にあったもう1つの素焼きの燈明を片手に奥の扉を開けて階段を上り個室に入ると、寝台ではすでに、熊のような体が羊の毛を編んで作った掛布団にくるまっていた。
寝台の傍にある棚に燈明を置いたスカーリャは、熊の隣に横たわり、掛布団を半分奪う。
「ノックは?」
火を消そうと身を起こしたスカーリャは脱力した体を寝台に預けた。
「起きてたんなら説得してくれればよかったのに……」
二人は背中合わせだ。
「……あいつなら大丈夫だ」
根拠なき夫の言葉に、スカーリャは微苦笑を浮かべる。
「そんなこと言って、一番心配してたのはあんただろ?」
「……そんなこたねえよ。俺はただ、あれだ。最近物騒だからな。もしかするとだ……その」
「獣に食われるって?」
夫の背中が騒がしく当たってスカーリャは声を漏らした。
笑うなよ……、と言われるが、おかしくてたまらない。
それでも夜なので声を上げるのは憚られたし、落ち着くのも早かった。
すると、ダロンは起き上がる。
「あいつ。こんな夜更けに何処に行くつもりだ?」
「あんたと作った狩り小屋だって。大丈夫……。明かりを持たせた」
今にも寝台から飛び起きそうだったダロンは、妻に袖を引っ張られてゆっくりと寝台に戻る。そして、妻と向き合い、言葉を聞く。
「あんたに似て強情だから、今は何を言っても聞きやしないよ……」
「でも……」
「心配じゃないのかって? そりゃあ心配だよ……。昼だろうと家の中だろうと……。けど、どんなに考えても行動しても、思い通りにならないのが人生なんだ……」
2人の胸には、軒先に吊るした板が浮かんでいた。
風に揺られる板に押した朱塗りの小さな手形は、実際よりも色鮮やかだった。
スカーリャは明かりを背にしているから、ダロンには表情が分からない。
けれど妻のお腹の丸みと温もりが、ダロンの堅い腹から伝わってくる。
抱きしめると、細い腕が横腹に乗せられ、背中に回される。
服を隔てても細い指先の冷たさが分かった。
ダロンは。
「……安心しろ。あいつなら大丈夫だ」
胸元で愛する人が頷くと、ダロンは腕を伸ばし、棚の上で揺らめく小さな焔を指で摘まんで、闇の住人となることを選んだ。
孫娘の言葉にヘイミルは天井を仰ぐ。
「本当のこと、というより、我々の見当でしかない。確証もないのに危惧を伝えたとしても困惑させるだけだろう……。特にアレに関しては、知ることそのものが災いになりえる」
老人はまだ表の道にいるであろう人々のことを思って視線を向ける。
「なに……、彼らも長らくこの地でそれぞれの生業を営んできた。山野を駆け、大自然と向き合ってきたのだろう。ならば、わずかな変化を見逃さず身を守ることもできよう。しかし、彼らの能力を上回る脅威が現れれば、その時こそ……、我々が手を貸せばいい」
「わかりました……」
孫娘は納得と言うにはいささか落ち着きが過ぎる声で是を表明する。
ヘイミルは微笑んだ。
「いつも他者を気遣っているとはいえ。はっきりと言葉にするあたり、この里が気に入ったようだな」
「ええ、これほど異邦人に寛容なのは、あまりないので」
「そうだな。いっそ、定住するか?」
メリアは、丸くした目を一時祖父に向けたが、すぐにチーズを炙るための火に集中するも、熱から食物は遠ざけられた。
「それも悪くありません。ですが、御じい様との旅がまだあります……。繰り返し訪れてもいいですが、もっと広い世界を見たいと思います」
祖父の表情は微笑みが優勢だったが、しかし、虚しさの影が目元に掛かる。
「俺なんぞの心配はいいんだ……。お前は、お前のやりたいように生きればいい」
「では、御じい様とご一緒します」
「メリア……」
「お母様と……」
孫娘の言葉に老人は息を飲む。誰の視線も向いていない安堵からか、家族にさえ見せたくない深い悲しみを露にしてしまう。
それからゆっくりと俯き、祈るように両手の指を組み、握る力を強める。
痛みを堪える様な姿で、少女の言葉にじっと耳を傾ける。
「……お母様と約束しました……。御じい様を支えます、と……。私が力になると……」
孫娘が振り返ると、ヘイミルは急ぎ背筋を伸ばし、表に出した感情を隠すように平静を装う。
そして、焔を背にするメリアの微笑みに対峙する。いかなる言葉が彼女の口から紡がれても受け止められるよう心した。
メリアは視線を下げて、語りだす。
「それにメリアは、御じい様との旅が本当に好きです。広く世界を見渡すのは楽しいです。知ることが増えると、その分、強くなる気がするのです」
ヘイミルはゆっくりと息を吐きだした。
「それだけじゃなく。おいしいものも大好きなんだろ?」
祖父の笑みにメリアも釣られて微笑み、勿論……、と強く頷いた。
「ですので一緒に食べましょう」
常に冷静な少女は無意味に飾らず、正しいと思ったことを臆面もなく口にする。それでいて、ちゃんと言葉は選ぶ。
孫娘の心根に触れ、胸のつかえが薄れるヘイミル。
暖炉の明かりよりも優しく温かい気遣いに満たされる。
「そうか。ではご相伴に預かろう」
祖父が隣にやってくると、メリアは、はたと気づいて、あのお高かそうな袋を取り出し、口紐を解いて中からものを1つ取り出す、という動作を片手でこなした。
孫娘から受け取ったものを掌に乗せたヘイミルは、表情を喪失した。
メリア曰く。
「パンはまだ日持ちするので保留にして、まずは、そちらをお供にしましょう。一緒に食べれば美味しさが倍増するはずです」
パンの代わりとして奉げられたカミキリムシの幼虫は寒気を堪える様に老人の手中で丸くなる。
「あははは、ありがとうメリア」
言葉に最低限の感情を乗せたヘイミルはゆっくりと引き下がる。彼の顔は孫娘が見ていないことをいいことに何の感情も示していなかった。
それを知らないメリアは楽しそうに、まずは自分が口をつけたチーズに程よく火を通す。
「ふふふ、双方ともどもしっかりと焼けば、二重の芳しい香りとなって、きっと病みつきになるでしょう。ぜひ御じい様もご賞味くださいね」
振り返る孫娘が無償の笑顔を見せてくれる。
彼女の期待を台無しにしたくない一心でヘイミルは作り笑いとは思えない朗らかな笑顔を長年連れ添ってきた表情筋で形作る。
メリアは、祖父も自分と同じ思いを共有してくれたと確信し、食材の味を最大限引き出すことに集中し、暖炉の火加減を確認した。
ヘイミルは孫娘の視線が外れた瞬間動き出す。
狼の如く俊敏にそして猫の如く静謐に窓へたどり着き、鎧戸をさっと開いて、森へお帰り……、と囁き、小さな命を窓の外へ投擲した。
「御じい様?」
背中に声を受けたヘイミルは慄然する。
どうしましたか? と孫娘の平穏な声に問い質され、その心臓は言い表せぬ圧力によって拍動する。
振り返ったヘイミルは全力で顎を稼働し口内の空気を咀嚼した。
「うん、なかなか美味だなこの虫は……」
目を逸らすヘイミル。自分と一緒にいることを快く笑って喜んでくれる孫娘を直視することが“ウシロメタサ”という最大の敵を前にして叶わない。
だから絶句したメリアの見開いた眼に気づけなかった。
「御じい様……。いくら我慢できなかったとはいえ。生で食べるのはダメです」
「……」
ヘイミルは唾を飲み込み、そうだな……、と同意した。
悲しげなメリアは。
「それにチーズとの相性を堪能してほしかった。仕方がない……、私の分の虫をどうぞ」
「え?」
孫娘は心からの笑みとともに悪魔と形容された幼虫を差し出した。
「俺は先に寝るからな」
と言ったのは今まで椅子に重い腰を乗せていたダロンだった。彼は食卓の燈火から背いて渋面を闇に隠すが、組んだ腕が肩を持ち上げるほど力み、貧乏揺すりが床を擦って、騒々しい。
「分かったからその足やめて。靴が傷んじまう。床はあんたが無報酬で直せばいいけど、靴は金がかかるんだよ?」
妻の言葉に文句も出ないダロンは、不満に満ちた顔をより闇に近づける。
スカーリャは湯気の立ち上る器に口をつけ、夫の言葉を一応黙って聞く。
「まったく、あのガキはこんな夜更けにどこをほっつき歩いてやがる……。狼に食われたって文句も屁も出ねえぞッ」
「それはまだ2回しか言ってないね。でも1回で聞き飽きた」
そうかよ……、とダロンは立ち上がって居間の奥の扉の前に立つ。鹿の角のノブを潰さんばかりに握り締めると妻に振り返る。
「いいか、あのバカが帰ってきても絶対に家に入れるなよ! 朝まで頭を冷やさせろ」
「はいはい何度も言わなくていいから早く寝るがよい」
「ふん……承知しました……ッ」
夫の素直な言葉だけを受け入れたスカーリャは、欠伸をかいて肩に巻いていた狼の毛皮を体に密着させた。
開けた扉に入ったダロンは頭を出して、絶対入れるなよ……ッ、と念押しするが。
妻はそっけなく手を振って消えてしまえと指図する。
伴侶の態度に納得できない表情のダロンは、しかし何も言わず頭を引っ込めた。
やっと夫がいなくなりスカーリャは椅子から立ち上がると、小さな軋みを挙げて再び屋内の扉が開く。
いよいよスカーリャの顔も険しくなり、なにッ? と語気も強まる。
うっすらと開く扉の奥からダロンが告げた。
「……もし帰ってきたら、まあ……、その時は、謝ったら入れてやれ……。そんでそれ飲ませてやれ」
無骨だが大人しい声色である。
食卓の上にある湯気立つ陶器の水差しを確認したスカーリャは思わず微笑み、わかったよ……、と答える。
そうして扉が閉まり、今度こそダロンは奥に引っ込んだ。
呆れと愛おしさを綯い交ぜにした笑みをこぼすスカーリャは、重い足が階段を踏む音が止むと、窓の鎧戸を開け、行ったよ……、と囁く。
ゆっくりと立ち上がったノックは、室内を覗き込んて安堵した。
「それじゃ、お休み良い夢を」
お休み……、と返答しようとしたスカーリャは目を大きくして鎧戸を持ち上げると、背中を向けようとする我が子の肩を掴んだ。
「ちょっと、あんたどこ行く気?」
「……狩り小屋あるだろ? あそこで寝る。だから、母ちゃんは安心して家で寝てくれ」
唖然とするスカーリャの記憶に蘇る小屋は、一応屋根と壁を持っているが、いつ突風に吹き飛ばされるか知れたものではない、と内心断じてしまう代物。
小屋の強度と息子の体温を保つ能力に疑問を抱かずにはいられず、不安がよぎるスカーリャは、息子が逃げてしまわぬよう且つ夫の耳を気にしつつ言い募る。
「馬鹿言ってんじゃないよ。あんな粗末な……」
馬鹿という言葉に眉が動いたノックだったが、それ以上に、粗末、という言葉に表情を一変させる。
「あの小屋はしっかりと手入れしてるし。強度も申し分ない立派な小屋だ」
失言を意識したスカーリャは頷いた。
「分かったよ。でもまだ枝ノ月なんだよ? 夜は寒くなる。帰りたくないなら、いつもみたいにラーフの家に行きな。きっと……」
「いや……、今日は、今夜は、小屋に行く……ッ」
「凍え死んだらどうすんのさ……」
「そんなことないって。今日だってずっと日の光は出てた。ならいきなり雨が降らない限り問題ない」
「そんなこと言わないで……。ラーフの家に行くか。それか、さっさと父ちゃんに謝って家に入りな」
謝る、という言葉に拒絶の意思が生まれるノックは顔を伏せた。
瞼の裏には得意満面の父親が、ざまあみろ、と言わんばかりに見下してくる光景が実際に見たかのように描かれる。
今までの記憶が切り貼りされて構築された妄想だと理解していても、それでも出所のわからぬ屈辱がこみあげてくる。
そして、同輩の少年の厳しい顔という直近の記憶と、怒りに任せて言い返した自分の姿までもが第三者の視点という架空の立場で思い起こされ。
「嫌だ……」
我が子の予想通りの言葉にスカーリャは特別驚きもしないが、しかし呆れて溜息を吐く。
「なんだってうちの男どもは馬鹿ばっかりなんだろうねぇ」
頭を抱える母親に対し、そんなこと言うなよ……、と言うノックは気後れのある眼差しを向けるが。それ以上的確な指摘が思い浮かばない。
むしろ、母の言葉を自認する気持ちと根拠もなく違うと反発する意思が鬩ぎ合って居心地が悪い。
鎧戸をより持ち上げるスカーリャは、縋るように息子の顔を覗き込んだ。
「母さんも許してもらえるように言ってあげるから」
母親の表情から目を逸らしたノックは。
「いや、いいよ……」
と告げた。
スカーリャは口をへの字に曲げて着崩れていた狼の毛皮を息子に投げつけた。
頭に熱源が激突し、ノックはわずかに声を上げて振り返るが。
鎧戸は、勝手にしな……、という辛辣な言葉を最後に閉ざされる。
音で閂まで使われ完全に締め出されたと覚ったノックは、転がる毛皮を持ち上げる。
柔軟な冬毛に触れるとまだ温もりが毛の奥まで染みていた。
ノックは毛皮を羽織り、柔毛を服に擦り付けながら夜の森へ行くのである。
「畜生……ランプでも貰えばよかった」
後ろから物音がして振り返ると、わずかに開いた鎧戸から、なんと土製のランプを持った手が出ていた。
ノックはさっさと近づき、ランプを下支えした瞬間、母の手が引っ込んだ。
鎧戸を閉ざしたスカーリャは外からの、ありがとう……、という言葉に目を閉じる。
そして、遠ざかっていく足音が聞こえなくなると、閂を鎧戸の木製の爪に引っ掛け、窓枠の左右の窪みに上からはめた。
食卓にあったもう1つの素焼きの燈明を片手に奥の扉を開けて階段を上り個室に入ると、寝台ではすでに、熊のような体が羊の毛を編んで作った掛布団にくるまっていた。
寝台の傍にある棚に燈明を置いたスカーリャは、熊の隣に横たわり、掛布団を半分奪う。
「ノックは?」
火を消そうと身を起こしたスカーリャは脱力した体を寝台に預けた。
「起きてたんなら説得してくれればよかったのに……」
二人は背中合わせだ。
「……あいつなら大丈夫だ」
根拠なき夫の言葉に、スカーリャは微苦笑を浮かべる。
「そんなこと言って、一番心配してたのはあんただろ?」
「……そんなこたねえよ。俺はただ、あれだ。最近物騒だからな。もしかするとだ……その」
「獣に食われるって?」
夫の背中が騒がしく当たってスカーリャは声を漏らした。
笑うなよ……、と言われるが、おかしくてたまらない。
それでも夜なので声を上げるのは憚られたし、落ち着くのも早かった。
すると、ダロンは起き上がる。
「あいつ。こんな夜更けに何処に行くつもりだ?」
「あんたと作った狩り小屋だって。大丈夫……。明かりを持たせた」
今にも寝台から飛び起きそうだったダロンは、妻に袖を引っ張られてゆっくりと寝台に戻る。そして、妻と向き合い、言葉を聞く。
「あんたに似て強情だから、今は何を言っても聞きやしないよ……」
「でも……」
「心配じゃないのかって? そりゃあ心配だよ……。昼だろうと家の中だろうと……。けど、どんなに考えても行動しても、思い通りにならないのが人生なんだ……」
2人の胸には、軒先に吊るした板が浮かんでいた。
風に揺られる板に押した朱塗りの小さな手形は、実際よりも色鮮やかだった。
スカーリャは明かりを背にしているから、ダロンには表情が分からない。
けれど妻のお腹の丸みと温もりが、ダロンの堅い腹から伝わってくる。
抱きしめると、細い腕が横腹に乗せられ、背中に回される。
服を隔てても細い指先の冷たさが分かった。
ダロンは。
「……安心しろ。あいつなら大丈夫だ」
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