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第零章 ―― 哀縁奇淵 ――
第035話 ―― 動き揺らぐ
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【前回のあらすじ――。ノックは父ダロンに、少女メリアの不調を説明して、背負ったメリアをヒースの家に運ぶことを選んだ。そして、森で獣と出会って怪我をした人物に忠告を受けたことを告げ、母にも注意をしてほしいと父親に頼んだ。ダロンは我が子に必ず家に帰ることを約束させ、無駄な言葉をかけることなく、我が子の背中を見送る】
ノック殿……、とメリアが呟く。
「ノックでいいよ」
「では……ノック。メリア、もう、大丈夫ですので、ここで……」
そういってメリアは、滑るように少年の背中から降りるのだが、体を支えるために着地した足は力なく震える。
ノックは反転して少女の二の腕を捕まえて引き寄せるが力及ばず、ゆっくりと腰を下ろす手伝いをすることとなった。
「ほら、まだ立てないじゃないか」
「すみません……。頭はさっきより晴れたのですが。よいしょ」
それでも少女は立ち上がる試みを止めることなく、結果、少年の肩を借りて、2本の脚で体を支えることには成功した。
歩けるか? とノックに問われて頷くメリア。
「大丈夫です。足も……」
そういってメリアは少年から離れ、軽い屈伸を始める。
ほらこのとおり……、と言って自分の健全さを披露し顔を上げるメリアは、膝を曲げたまま後ろに体が倒れる。
ノックが慌てて背後に回り込み背中を受け止めなければ、芝生に転がっていた。
「おいおい。気をつけろ。まだ頭もはっきりしてないんじゃないのか? なんか子供っぽくなった気がするし」
「えへへ……子供っぽいですかね?」
なんだか陽気な顔で微笑むメリア。
目を細めるノックは、少女の頬の赤味を察した。
「いや、これは酔っ払いだな」
えへへお酒は飲んでおりませ~ん……、とメリアは分かり切ったことを述べる。
駆け寄ってきた幼い子供達に、大丈夫? と心配される始末である。
大丈夫ですぅ……、と間延びしたメリアの返答で、あまり大丈夫ではないことを察知したであろう幼子達は少し距離を置いた。
この少女がつい先刻、森で魔法を使って颯爽と駆けて行った人物と一緒とは思えないノックは、メリアを背後から抱えて持ち上げると、彼女の二の腕を自分の肩に乗せ、腰を抱える。
メリアの体を支えられたと確信して再び歩みを進めた。
「それでそれで?」
と外来の羊飼いベンダが前のめりになって催促するので、里の羊飼いのコムンは嘆息してから口を開く。
「ダイアウルフが勝手に逃げ出したらとんでもないからよ。シャフルを追って俺達も森の中に行ったんだよ。あの時はまだ生まれて三月も経ってない子供だったから、何かに惹きつけられたんだろうなぁ……。そしたら、俺達が森に入ってすぐにシャフルが戻ってきて、と思ったら猪連れてきやがって。俺達があっけにとられてたら、シャフルが俺たちの間を突っ切ってよ。そうなると、今度は俺達が猪に追われて……」
話を聞いていた2人は腹を抱える。
一方コムンは全く笑えない。
「本当に参ったよ……。ヒースさんが呼び止めてもシャフルは聞かないし。猪は俺たちを追いかけるし。ラーフもノックも泣くし喚くし……」
言い終わる前に、入口を見張っていた老狼のシュズバが前触れもなく頭を上げ、獣の眼差しが注がれる戸口が開いた。
「俺がなんだって?」
入ってきて早々、文句を含んだ声を上げた少年に、ノック……! とコムンは呼びかけ、表情を険しくするが、直ぐに、少年の連れを見て驚く。
「それに、メリアちゃん。どうしたんだ?」
ノックの肩を借りるメリアは手を振って、大丈夫ですぅ……、と語った。
椅子から立ち上がった男3人は短い距離を駆け付けるが出来る処置などなく、肩を貸すノックに道を譲る。
外来の猟師ロゲルが、何があったんだ? と心配した。
「ちょっと、毒気に中てられてな」
毒気? と復唱するコムンは上ずった声になった。
メリアは椅子を掴み、ここで結構……、と言って腰を下ろした。
ひと段落したノックは少し引き返しシュズバの頭を撫でて、今日も元気そうだな爺さん……、と話しかけてから人間に説明した。
「ああ、あれだ。コレボクの呪いに中てられてな。そのせいでちょっと具合が悪くなったんだ」
なんだそりゃ……、と口走るコムンをはじめとして最初にいた来訪者2名も困惑する。
食卓を肘掛けにして落ち着くメリアは。
「ええ、まあ。そうですね……。少しマシになりましたが……」
と話に加わるが顔色は優れず、深い溜息をついて瞑目する。
“呪い”と聞いて里の外の2人は顔を顰める。
ある程度事情を呑み込むコムンは。
「そ、そうか。それは……大変だったな。でも、なんでお前が、彼女と一緒にいたんだ?」
「ああ……、森で会った」
「は? お前……、俺の忠告……」
とコムンは顰め面になるが、すぐに別のことを思い出し、質問する。
「でも、メリアちゃんには俺の親父に事情の説明を頼んだんだが。会えなかったのか?」
「いえ、コムン様の御父上様にも無事合流し、コムン様の事情を話しましたので……、その点はご安心を……」
メリアの受け答えははっきりとしていた。
ノックの表情も晴れる。
「本当によくなったんだな」
「ええ、おそらく魔法の効力が消えてきたものと思われます。まだ眩暈はありますが、これなら一両日中には全快するかと」
よかった……、と胸を撫で下ろすノックは次に芳しくない面持ちとなり、渋い表情のコムンに尋ねる。
「ところで、ラーフは?」
まだ帰ってきてない……、とコムンは一度瞬きで視線を外し、腕を組んで険しい顔を継続する。
そうか……、とノックは表情が曇る。若干湿った肩に手を置き、皆の顔を見た。
「話しておきたいことがある。実は……森に行って、メリアと会う前に、別の人に会ってさ……」
森で羊が獣に襲われ犠牲になった。
その話を聞くうちに、残り3つの椅子に座った男3人は驚く。
あからさまに表情に恐怖が浮かぶ羊飼いのベンダは、視線を下げる。
食卓に肘を置くコムンは、狼の横に腰を下ろすノックに尋ねた。
「その話、他に知ってるのは?」
「ええっと、人が追われたことは大雑把だけど、俺の親父に伝えた。だから、このことを他の皆にも伝えてほしい」
「了解した。俺も親父に……」
コムンの目の前で青ざめるベンダは、ロゲルに背中を摩ってもらう。
「まだ、お前の羊と決まったわけじゃないだろ?」
「そう……だな……」
まだ掛ける言葉が浮かばないコムンは、聞こえてきた雨音に胸騒ぎを覚えた。
遠雷は、丸太の壁をたやすく突破する音で傲慢に到来を誇示し、不安をより助長する。
そして、地鳴りのような音にかすかな揺れを感じる。だが、それに反応するのはメリアくらいなものだった。
帰ってきたか……、とコムンが口走る。
それから羊の鳴き声が鮮明に聞こえた。
メリアも理解する。
「ヒースさんですか?」
ノックは頷いたが表情が堅くなる。そして、親戚2人組も居心地が悪くなった。
ロゲルが立ち上がり、外に向かう。
「柵に繋ぎ留めてた犬をちょっと見てくる」
ベンダも。
「お、俺も、こっちの羊が悪さしないとも限らないし……」
コムンも後に続き、口を開く。
「俺も、ヒースさんが来たなら帰るよ。あの親戚2人を俺の家に案内しないといけないし」
「それなら……、そういえば、鍵を忘れていました……」
とメリアが立ち上がろうとするが、コムンは手の平を見せて制止する。
「今は休んだほうがいい。安心しろ、2人は俺の部屋より快適な羊小屋に案内する……。でお前は?」
ノックは俯いた。
「少し待つよ……ラーフに、話があるから……」
メリアは……、と呟く少女は、ノックと目が合う。
答えを聞く前にコムンは肩をすくめ、そんじゃ……、と言って戸口を潜った。
ややあって、ヒースが中に入って、戸口の脇に杖と鞄を置く。
「やあ2人とも、ラーフに用事でも?」
勝手にお邪魔していた2人の若者は椅子から立ち上がり軽い会釈をする。
しかし、終始にこやかなヒースには遠慮が過ぎたかもしれない。
「ごめんなさい。勝手に上がり込んで」
謝罪するノックに、ヒースは首を横に振る。
「いやいや気にしないでくれ。いつでも歓迎するよ。それと……家に居辛かったら遠慮せず来てくれ。ラーフも喜ぶ……」
その誘いにノックは苦笑い。
ヒースは事情を思い出した。
「まあ、ラーフとも、何かあったみたいだけど……その後、仲直りは?」
少年の顔色が悪くなり視線が下がっていくので、ヒースはおおよそのことを了解した。
「コムンのいう通りみたいだね。実際に見るまで信じられなかったが……。いやぁ、2人が喧嘩するなんていつ以来だ? たしか小さいころ、貰った茹で卵を半分にするはずだったのに、ノックが黄身を独り占めしてラーフが泣き喚いた時以来かな?」
「ああ、そんなことも……」
「なんて酷いことをしたのですノック……ッ!」
それまで物静かだった少女がいきなり立ち上がり苛烈に追及した。
ノックは勿論、ヒースも少女の剣幕に表情を失い、目を瞬かせる。
食卓を杖の代わりに体を支えるメリアは、血走った眼で告げる。
「いいですか! 茹で卵というのは完成された料理なのです! そこから、黄身を奪うということは、すなわち……! スープから具材を奪うようなもの! あるいは、パスタからソースを奪うことに等しい最低な行いなのですッ!」
メリアは痛みを耐えるような表情になり、呆然とする2人に横を向き、彼方に眼差しを向ける。
「無論、卵白を軽んじるつもりはありません……。卵白だけを使った料理もあります。塩釜焼にするときは、卵白が大量に必要ですし、卵白を泡立てることでメレンゲができる。しかし……ッ、こと茹で卵にいたっては、卵白は黄身があるからこそ、その淡白な風味がより真価を発揮するのです……ッ。それなのに……ッ、黄身を奪い取るなんて……ッ。酷過ぎる!」
誣告の対象である少年、および被害者の父親すら無視して、メリアは感情のままに思いの丈と持論を展開する。
ヒースは失礼のないように手で少女を示して、彼女は何でここに? と尋ねた。
「ああ、コムンから聞いてない? 俺が使った呪いのせいで具合が悪くなって、ちょっと休憩と知識人の励ましを求めて……」
「はぁ……なるほど……。獣の話以外に……。コムンが大変だろうけどよろしく、と言っていたのはそのことか……」
ヒースは事情を整理して、少女を改めて確認し深く頷き、大丈夫そうだね……、と断言した。
よかったぁ……、と胸を撫で下ろすノックに、振り返ったメリアは厳しい目を向けた。
「話はまだ終わってませんよ!」
「え、まだ続くの!」
「いいですか。茹で卵というのはそもそも……」
「何を語りだすつもりなんだ?」
これから大演説を披露しようとする少女に困惑を禁じ得ない少年の狼狽。
若者たちの勝手気ままな振る舞いにヒースは苦笑いから、純粋な気楽の微笑みを浮かべ。
家主の背後では狼が3頭寄り添い合うのであった。
森の中では、黒い霧の天幕が緩やかな渦を描いていたが、途端に動きを失い、急速に重くなって潰れながら、霧散していく。
色が違えば春の日差しに溶けていく雪を思わせる現象。
跡形もなく霧が消えた後に現れたのは芽吹いた草花、だけではなかった。
地面に倒れる死体。綺麗な断面を見せる人体の一部。そして、黒い鎧に鈍い光を宿す老兵であった。
顔の皺と灰色が混ざる白髪でもって重ねた齢を物語るヘイミル。
しかし、その気迫と体格は衰えを知らず。外套を失って完全に暴かれた鎧が異彩を放つ。
彼が握る武骨な剣は黒仔羊の術者の胸を貫き、トウヒの幹に磔にしていた。
傍らで蹲って身を震わせる黒仔羊の数人が、生まれたての小鹿のように手足を支えに立ち上がる。そして、剣の先端が仲間と樹を貫いていると分かり、両手の黒い霧を凝固させ、爪にする。
最初から立っていた同胞が身構え告げる。
「ははは……。よくぞ我らの呪イ師を仕留めタ……。だが哀れよな。勢いあまって得物を失うとハ……」
「力を制御できぬとハ、英雄も老いたようだナ……ッ」
一斉に老兵へ踏み込もうとした。しかし。
「あぁ……」
ヘイミルは声を漏らすと、片手で無造作に剣を振り払う。
生木が内部から引き裂かれる壮絶な音が響いたのは一瞬だったが、盛大に飛び散る血糊と木片が、鈍色の刃の登場に花を添える。
剣が空を切り裂く音を合図に黒仔羊は踏み止まった。
「得物が……なんだって?」
老人のただ一つの瞳に宿るどこまでも暗い闇を覗き込んだ黒仔羊は、一歩引きさがった。
横からそっと近づこうとした者は、振り返った老人と視線でも合ったのか、委縮する。
襲撃者が躊躇するのを目の当たりにし、ヘイミルは深く頷いた。
「お互い……、無駄死にはよそう……。俺もこれ以上の運動は明日に差し障りがあるし……。それに、お前たちも、負わされた役目を果たしてしまったらしいしな」
老人は取り囲む敵でも、遅れて立ち上がる敵でもなく、周辺を見渡して、歩き始めた。
1人の黒仔羊が近づく老人に対し、身を震わせる。
傍目からでも分かるほど怯えている。
だが、縮こまる体を意志の力で奮い立たせ、そして向かってくる相手に対峙する。
老人は目と鼻の先に迫っていた。
見下ろす隻眼は、荒野を熱する太陽の如き無慈悲な眼差しを向け。
その屹立した身体は、岩の断崖の如く不動な意思を体現していた。
ノック殿……、とメリアが呟く。
「ノックでいいよ」
「では……ノック。メリア、もう、大丈夫ですので、ここで……」
そういってメリアは、滑るように少年の背中から降りるのだが、体を支えるために着地した足は力なく震える。
ノックは反転して少女の二の腕を捕まえて引き寄せるが力及ばず、ゆっくりと腰を下ろす手伝いをすることとなった。
「ほら、まだ立てないじゃないか」
「すみません……。頭はさっきより晴れたのですが。よいしょ」
それでも少女は立ち上がる試みを止めることなく、結果、少年の肩を借りて、2本の脚で体を支えることには成功した。
歩けるか? とノックに問われて頷くメリア。
「大丈夫です。足も……」
そういってメリアは少年から離れ、軽い屈伸を始める。
ほらこのとおり……、と言って自分の健全さを披露し顔を上げるメリアは、膝を曲げたまま後ろに体が倒れる。
ノックが慌てて背後に回り込み背中を受け止めなければ、芝生に転がっていた。
「おいおい。気をつけろ。まだ頭もはっきりしてないんじゃないのか? なんか子供っぽくなった気がするし」
「えへへ……子供っぽいですかね?」
なんだか陽気な顔で微笑むメリア。
目を細めるノックは、少女の頬の赤味を察した。
「いや、これは酔っ払いだな」
えへへお酒は飲んでおりませ~ん……、とメリアは分かり切ったことを述べる。
駆け寄ってきた幼い子供達に、大丈夫? と心配される始末である。
大丈夫ですぅ……、と間延びしたメリアの返答で、あまり大丈夫ではないことを察知したであろう幼子達は少し距離を置いた。
この少女がつい先刻、森で魔法を使って颯爽と駆けて行った人物と一緒とは思えないノックは、メリアを背後から抱えて持ち上げると、彼女の二の腕を自分の肩に乗せ、腰を抱える。
メリアの体を支えられたと確信して再び歩みを進めた。
「それでそれで?」
と外来の羊飼いベンダが前のめりになって催促するので、里の羊飼いのコムンは嘆息してから口を開く。
「ダイアウルフが勝手に逃げ出したらとんでもないからよ。シャフルを追って俺達も森の中に行ったんだよ。あの時はまだ生まれて三月も経ってない子供だったから、何かに惹きつけられたんだろうなぁ……。そしたら、俺達が森に入ってすぐにシャフルが戻ってきて、と思ったら猪連れてきやがって。俺達があっけにとられてたら、シャフルが俺たちの間を突っ切ってよ。そうなると、今度は俺達が猪に追われて……」
話を聞いていた2人は腹を抱える。
一方コムンは全く笑えない。
「本当に参ったよ……。ヒースさんが呼び止めてもシャフルは聞かないし。猪は俺たちを追いかけるし。ラーフもノックも泣くし喚くし……」
言い終わる前に、入口を見張っていた老狼のシュズバが前触れもなく頭を上げ、獣の眼差しが注がれる戸口が開いた。
「俺がなんだって?」
入ってきて早々、文句を含んだ声を上げた少年に、ノック……! とコムンは呼びかけ、表情を険しくするが、直ぐに、少年の連れを見て驚く。
「それに、メリアちゃん。どうしたんだ?」
ノックの肩を借りるメリアは手を振って、大丈夫ですぅ……、と語った。
椅子から立ち上がった男3人は短い距離を駆け付けるが出来る処置などなく、肩を貸すノックに道を譲る。
外来の猟師ロゲルが、何があったんだ? と心配した。
「ちょっと、毒気に中てられてな」
毒気? と復唱するコムンは上ずった声になった。
メリアは椅子を掴み、ここで結構……、と言って腰を下ろした。
ひと段落したノックは少し引き返しシュズバの頭を撫でて、今日も元気そうだな爺さん……、と話しかけてから人間に説明した。
「ああ、あれだ。コレボクの呪いに中てられてな。そのせいでちょっと具合が悪くなったんだ」
なんだそりゃ……、と口走るコムンをはじめとして最初にいた来訪者2名も困惑する。
食卓を肘掛けにして落ち着くメリアは。
「ええ、まあ。そうですね……。少しマシになりましたが……」
と話に加わるが顔色は優れず、深い溜息をついて瞑目する。
“呪い”と聞いて里の外の2人は顔を顰める。
ある程度事情を呑み込むコムンは。
「そ、そうか。それは……大変だったな。でも、なんでお前が、彼女と一緒にいたんだ?」
「ああ……、森で会った」
「は? お前……、俺の忠告……」
とコムンは顰め面になるが、すぐに別のことを思い出し、質問する。
「でも、メリアちゃんには俺の親父に事情の説明を頼んだんだが。会えなかったのか?」
「いえ、コムン様の御父上様にも無事合流し、コムン様の事情を話しましたので……、その点はご安心を……」
メリアの受け答えははっきりとしていた。
ノックの表情も晴れる。
「本当によくなったんだな」
「ええ、おそらく魔法の効力が消えてきたものと思われます。まだ眩暈はありますが、これなら一両日中には全快するかと」
よかった……、と胸を撫で下ろすノックは次に芳しくない面持ちとなり、渋い表情のコムンに尋ねる。
「ところで、ラーフは?」
まだ帰ってきてない……、とコムンは一度瞬きで視線を外し、腕を組んで険しい顔を継続する。
そうか……、とノックは表情が曇る。若干湿った肩に手を置き、皆の顔を見た。
「話しておきたいことがある。実は……森に行って、メリアと会う前に、別の人に会ってさ……」
森で羊が獣に襲われ犠牲になった。
その話を聞くうちに、残り3つの椅子に座った男3人は驚く。
あからさまに表情に恐怖が浮かぶ羊飼いのベンダは、視線を下げる。
食卓に肘を置くコムンは、狼の横に腰を下ろすノックに尋ねた。
「その話、他に知ってるのは?」
「ええっと、人が追われたことは大雑把だけど、俺の親父に伝えた。だから、このことを他の皆にも伝えてほしい」
「了解した。俺も親父に……」
コムンの目の前で青ざめるベンダは、ロゲルに背中を摩ってもらう。
「まだ、お前の羊と決まったわけじゃないだろ?」
「そう……だな……」
まだ掛ける言葉が浮かばないコムンは、聞こえてきた雨音に胸騒ぎを覚えた。
遠雷は、丸太の壁をたやすく突破する音で傲慢に到来を誇示し、不安をより助長する。
そして、地鳴りのような音にかすかな揺れを感じる。だが、それに反応するのはメリアくらいなものだった。
帰ってきたか……、とコムンが口走る。
それから羊の鳴き声が鮮明に聞こえた。
メリアも理解する。
「ヒースさんですか?」
ノックは頷いたが表情が堅くなる。そして、親戚2人組も居心地が悪くなった。
ロゲルが立ち上がり、外に向かう。
「柵に繋ぎ留めてた犬をちょっと見てくる」
ベンダも。
「お、俺も、こっちの羊が悪さしないとも限らないし……」
コムンも後に続き、口を開く。
「俺も、ヒースさんが来たなら帰るよ。あの親戚2人を俺の家に案内しないといけないし」
「それなら……、そういえば、鍵を忘れていました……」
とメリアが立ち上がろうとするが、コムンは手の平を見せて制止する。
「今は休んだほうがいい。安心しろ、2人は俺の部屋より快適な羊小屋に案内する……。でお前は?」
ノックは俯いた。
「少し待つよ……ラーフに、話があるから……」
メリアは……、と呟く少女は、ノックと目が合う。
答えを聞く前にコムンは肩をすくめ、そんじゃ……、と言って戸口を潜った。
ややあって、ヒースが中に入って、戸口の脇に杖と鞄を置く。
「やあ2人とも、ラーフに用事でも?」
勝手にお邪魔していた2人の若者は椅子から立ち上がり軽い会釈をする。
しかし、終始にこやかなヒースには遠慮が過ぎたかもしれない。
「ごめんなさい。勝手に上がり込んで」
謝罪するノックに、ヒースは首を横に振る。
「いやいや気にしないでくれ。いつでも歓迎するよ。それと……家に居辛かったら遠慮せず来てくれ。ラーフも喜ぶ……」
その誘いにノックは苦笑い。
ヒースは事情を思い出した。
「まあ、ラーフとも、何かあったみたいだけど……その後、仲直りは?」
少年の顔色が悪くなり視線が下がっていくので、ヒースはおおよそのことを了解した。
「コムンのいう通りみたいだね。実際に見るまで信じられなかったが……。いやぁ、2人が喧嘩するなんていつ以来だ? たしか小さいころ、貰った茹で卵を半分にするはずだったのに、ノックが黄身を独り占めしてラーフが泣き喚いた時以来かな?」
「ああ、そんなことも……」
「なんて酷いことをしたのですノック……ッ!」
それまで物静かだった少女がいきなり立ち上がり苛烈に追及した。
ノックは勿論、ヒースも少女の剣幕に表情を失い、目を瞬かせる。
食卓を杖の代わりに体を支えるメリアは、血走った眼で告げる。
「いいですか! 茹で卵というのは完成された料理なのです! そこから、黄身を奪うということは、すなわち……! スープから具材を奪うようなもの! あるいは、パスタからソースを奪うことに等しい最低な行いなのですッ!」
メリアは痛みを耐えるような表情になり、呆然とする2人に横を向き、彼方に眼差しを向ける。
「無論、卵白を軽んじるつもりはありません……。卵白だけを使った料理もあります。塩釜焼にするときは、卵白が大量に必要ですし、卵白を泡立てることでメレンゲができる。しかし……ッ、こと茹で卵にいたっては、卵白は黄身があるからこそ、その淡白な風味がより真価を発揮するのです……ッ。それなのに……ッ、黄身を奪い取るなんて……ッ。酷過ぎる!」
誣告の対象である少年、および被害者の父親すら無視して、メリアは感情のままに思いの丈と持論を展開する。
ヒースは失礼のないように手で少女を示して、彼女は何でここに? と尋ねた。
「ああ、コムンから聞いてない? 俺が使った呪いのせいで具合が悪くなって、ちょっと休憩と知識人の励ましを求めて……」
「はぁ……なるほど……。獣の話以外に……。コムンが大変だろうけどよろしく、と言っていたのはそのことか……」
ヒースは事情を整理して、少女を改めて確認し深く頷き、大丈夫そうだね……、と断言した。
よかったぁ……、と胸を撫で下ろすノックに、振り返ったメリアは厳しい目を向けた。
「話はまだ終わってませんよ!」
「え、まだ続くの!」
「いいですか。茹で卵というのはそもそも……」
「何を語りだすつもりなんだ?」
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若者たちの勝手気ままな振る舞いにヒースは苦笑いから、純粋な気楽の微笑みを浮かべ。
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森の中では、黒い霧の天幕が緩やかな渦を描いていたが、途端に動きを失い、急速に重くなって潰れながら、霧散していく。
色が違えば春の日差しに溶けていく雪を思わせる現象。
跡形もなく霧が消えた後に現れたのは芽吹いた草花、だけではなかった。
地面に倒れる死体。綺麗な断面を見せる人体の一部。そして、黒い鎧に鈍い光を宿す老兵であった。
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しかし、その気迫と体格は衰えを知らず。外套を失って完全に暴かれた鎧が異彩を放つ。
彼が握る武骨な剣は黒仔羊の術者の胸を貫き、トウヒの幹に磔にしていた。
傍らで蹲って身を震わせる黒仔羊の数人が、生まれたての小鹿のように手足を支えに立ち上がる。そして、剣の先端が仲間と樹を貫いていると分かり、両手の黒い霧を凝固させ、爪にする。
最初から立っていた同胞が身構え告げる。
「ははは……。よくぞ我らの呪イ師を仕留めタ……。だが哀れよな。勢いあまって得物を失うとハ……」
「力を制御できぬとハ、英雄も老いたようだナ……ッ」
一斉に老兵へ踏み込もうとした。しかし。
「あぁ……」
ヘイミルは声を漏らすと、片手で無造作に剣を振り払う。
生木が内部から引き裂かれる壮絶な音が響いたのは一瞬だったが、盛大に飛び散る血糊と木片が、鈍色の刃の登場に花を添える。
剣が空を切り裂く音を合図に黒仔羊は踏み止まった。
「得物が……なんだって?」
老人のただ一つの瞳に宿るどこまでも暗い闇を覗き込んだ黒仔羊は、一歩引きさがった。
横からそっと近づこうとした者は、振り返った老人と視線でも合ったのか、委縮する。
襲撃者が躊躇するのを目の当たりにし、ヘイミルは深く頷いた。
「お互い……、無駄死にはよそう……。俺もこれ以上の運動は明日に差し障りがあるし……。それに、お前たちも、負わされた役目を果たしてしまったらしいしな」
老人は取り囲む敵でも、遅れて立ち上がる敵でもなく、周辺を見渡して、歩き始めた。
1人の黒仔羊が近づく老人に対し、身を震わせる。
傍目からでも分かるほど怯えている。
だが、縮こまる体を意志の力で奮い立たせ、そして向かってくる相手に対峙する。
老人は目と鼻の先に迫っていた。
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