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夏休みの部活
渚さんのレッスン
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「これで心置きなくヴァイオリンにいけるわ」
冴子はそう言って僕に握り拳を突き出した。
僕はその拳を見てそして冴子の顔に視線を移した。そこには今まで見た事もない冴子の笑顔があった。
冴子には似つかわしくない爽やかで屈託のない笑顔だった。なのに僕は何故かその笑顔を見ると更に寂しい気持ちになった。一人置いて行かれたような気持になった。
僕は冴子と軽く拳を合わせた。
「亮ちゃん。ありがとう」
今日の冴子は『ありがとう』の投げ売り状態だ。
ゆっくりと冴子は拳を戻した。
そしてじっと僕の瞳を見て
「次はコンクール会場やね」
と呟くように言った。
「え?」
冴子は僕の返事も聞かずに
「先生、それじゃあ、私はそろそろ帰ります。ピアノは今まで通りちゃんと来ますから」
と言って椅子から立ち上がると、お辞儀をしてそのまま部屋から出て行った。
先生は見送るためか、冴子の後を追うように部屋から出て行った。
僕は一人ピアノの前に取り残されてしまった。文字通り一人で置いて行かれた。
部屋の中は静かだった。僕も一緒に帰りたくなった。そんな事を思いながら僕は今さっき弾いた『ハンガリー舞曲』の楽譜を見るとはなく眺めていた。余韻がまだこの部屋には残っていた。
「本当にいい演奏やったわ。久しぶりに二人の連弾を聞いたけど、良かったよ」
僕は声が聞こえた部屋の奥の扉を見た。
そこにはピアノ越しに渚さんの姿があった。
「聞いとったん?」
「うん。最初から聞いとった」
そう言うと渚さんはピアノのへりを指先で撫でながら歩み寄ってきた。
「冴子のピアノは変わったでしょ?」
「うん」
「亮平がこの教室に帰ってきてから、あの子本当に練習していたもんねえ……」
と冴子が出て行った扉に目をやりながら渚さんは言った。
「そうなんやぁ……」
――だったら何故彼女はヴァイオリンに転向したんだ?――
「それで踏ん切りをつけたのかもね」
と渚さんが僕の想いに応えるように言った。
「あの子はあんたに、取り残されるのが嫌でずっと必死で追いかけていたみたいね」
「え? そうなんですか?」
思わぬひとことに僕は驚いた。
「あ、やっぱり気が付いていなかったんや」
そう言って渚さんは呆れたように笑った。そして隣のピアノの椅子に腰かけた。
「ごめんなさい……全く気が付いてなかった……」
冴子は単なる負けず嫌いの女の子だとは思っていた。だから単純に誰にも負けたくないのだろうと勝手に思っていた。
「別に謝らなくてもええんやけど……で、年明けぐらいかな……急に必死にピアノを弾き出して先生も『どうしたんやろ?』って心配するぐらい。……私があんたのピアノを聞いた時に冴子も宏美も一緒に居たよね?」
「うん。おった」
「あの後ね。冴子がやって来て『渚さん。私は亮平のピアノに勝てますか?』って聞いてきたのよ」
「え? そんな事が……」
初めて耳にする話だった。
「そう。『どうやったら勝てますか?』ではなく『勝てますか?』だったのね。『あれ?この子こんな聞き方をするタイプだっけ?』とその時は思ったわ。もっと自信に満ち溢れているタイプの人間だと思っていたからね。勝ち負けのジャッジを人に預けるような聞き方は絶対しない子だと思っていたからちょっと驚いたわ」
「だから、『音楽は勝ち負けではないのよ』って答えたんだけど、それがダメだったかもね」
「なんで?」
「分かるでしょ? その答え方って私が冴子の質問に答えられないから……いや答えにくいから……その場を誤魔化したというか……つまり私が『冴子は勝てない』というのを言えなくて言葉を濁したって思われたみたいね」
「そんなぁ……」
「それでも一度は、あんたの後を追いかけようとしたんじゃないのかな?」
「え? そうなん?」
「多分ね……でも今日の音を聞いて分かったわ」
「何がですか?」
渚さんはちょっと考えて
「あんたは見事にフラれたね」
と僕を見て笑った。
「え?」
「そう。フラれた……ピアノではね……いや、違うか……あ!……なるほどねぇ……そうかぁ、ピアノではね……」
と渚さんは何かに気が付いたように何度も頷いた。
「え?」
僕は渚さんの言っている事の意味が全く分かっていなかった。
「本当に亮平は驚くほど勘が鈍いところがあるわね。でもこれは分からないかぁ……冴子らしいわ」
と呆れたような顔で僕をまじまじと見た。
「あんな繊細で叙情的な旋律を奏でておきながら、女心は全く分からないのかぁ……天は二物を与えずとはよく言ったもんだ」
と渚さんは一人で納得していた。
「なんなん? その女心って? 冴子にそんなもんあるん?」
「う~ん。亮平……宏美ちゃんと上手く行っているのぉ? そんな感性で? 私は心配になってきたよぉ」
と渚さんは僕の顔を近づけて来て心配そうに見つめた。
「大丈夫です……多分……」
僕はそう応えながら、さっき別れ際に感じた宏美の寂しげな雰囲気を思い出していた。
――何か大切な事を俺は見落としている?――
僕は少し不安になってきていた。
「ま、冴子はヴァイオリンにいってしまったし、暫くは亮ちゃんとは絡む事は無いかもねえ……」
「はぁ……」
と答えてから僕は今日の音楽室での出来事を思い出した。
「そう言えば、今日部活で冴子に『ツィゴイネルワイゼン』の伴奏を頼まれて弾いたんやけど……」
と渚さんに言った。
「『ツィゴイネルワイゼン』? サラサーティの?」
「うん。そう」
「はは~ん。そういう事かぁ」
「え?どういう事なん?」
「いや。それは自分で考えなさい。ふ~ん。なるほどねぇ……やっぱりねぇ……」
と渚さんは意味深な笑いを僕に向けた。さっきからの渚さんの言葉は謎かけみたいで、僕には彼女が何を理解できたのか全く分からなかった。
「そんなん言わんと……お願いします。渚先生」
と頼み込んだが
「そういう事は自分で考えんのよ」
と言って取り合ってくれなかった。
「さて、練習始めるわよ」
そう言うと渚さんは楽譜台に置いてあったブラームスのハンガリー舞曲 第1番の楽譜をさっさと片付けて課題曲の楽譜を置いた。
冴子はそう言って僕に握り拳を突き出した。
僕はその拳を見てそして冴子の顔に視線を移した。そこには今まで見た事もない冴子の笑顔があった。
冴子には似つかわしくない爽やかで屈託のない笑顔だった。なのに僕は何故かその笑顔を見ると更に寂しい気持ちになった。一人置いて行かれたような気持になった。
僕は冴子と軽く拳を合わせた。
「亮ちゃん。ありがとう」
今日の冴子は『ありがとう』の投げ売り状態だ。
ゆっくりと冴子は拳を戻した。
そしてじっと僕の瞳を見て
「次はコンクール会場やね」
と呟くように言った。
「え?」
冴子は僕の返事も聞かずに
「先生、それじゃあ、私はそろそろ帰ります。ピアノは今まで通りちゃんと来ますから」
と言って椅子から立ち上がると、お辞儀をしてそのまま部屋から出て行った。
先生は見送るためか、冴子の後を追うように部屋から出て行った。
僕は一人ピアノの前に取り残されてしまった。文字通り一人で置いて行かれた。
部屋の中は静かだった。僕も一緒に帰りたくなった。そんな事を思いながら僕は今さっき弾いた『ハンガリー舞曲』の楽譜を見るとはなく眺めていた。余韻がまだこの部屋には残っていた。
「本当にいい演奏やったわ。久しぶりに二人の連弾を聞いたけど、良かったよ」
僕は声が聞こえた部屋の奥の扉を見た。
そこにはピアノ越しに渚さんの姿があった。
「聞いとったん?」
「うん。最初から聞いとった」
そう言うと渚さんはピアノのへりを指先で撫でながら歩み寄ってきた。
「冴子のピアノは変わったでしょ?」
「うん」
「亮平がこの教室に帰ってきてから、あの子本当に練習していたもんねえ……」
と冴子が出て行った扉に目をやりながら渚さんは言った。
「そうなんやぁ……」
――だったら何故彼女はヴァイオリンに転向したんだ?――
「それで踏ん切りをつけたのかもね」
と渚さんが僕の想いに応えるように言った。
「あの子はあんたに、取り残されるのが嫌でずっと必死で追いかけていたみたいね」
「え? そうなんですか?」
思わぬひとことに僕は驚いた。
「あ、やっぱり気が付いていなかったんや」
そう言って渚さんは呆れたように笑った。そして隣のピアノの椅子に腰かけた。
「ごめんなさい……全く気が付いてなかった……」
冴子は単なる負けず嫌いの女の子だとは思っていた。だから単純に誰にも負けたくないのだろうと勝手に思っていた。
「別に謝らなくてもええんやけど……で、年明けぐらいかな……急に必死にピアノを弾き出して先生も『どうしたんやろ?』って心配するぐらい。……私があんたのピアノを聞いた時に冴子も宏美も一緒に居たよね?」
「うん。おった」
「あの後ね。冴子がやって来て『渚さん。私は亮平のピアノに勝てますか?』って聞いてきたのよ」
「え? そんな事が……」
初めて耳にする話だった。
「そう。『どうやったら勝てますか?』ではなく『勝てますか?』だったのね。『あれ?この子こんな聞き方をするタイプだっけ?』とその時は思ったわ。もっと自信に満ち溢れているタイプの人間だと思っていたからね。勝ち負けのジャッジを人に預けるような聞き方は絶対しない子だと思っていたからちょっと驚いたわ」
「だから、『音楽は勝ち負けではないのよ』って答えたんだけど、それがダメだったかもね」
「なんで?」
「分かるでしょ? その答え方って私が冴子の質問に答えられないから……いや答えにくいから……その場を誤魔化したというか……つまり私が『冴子は勝てない』というのを言えなくて言葉を濁したって思われたみたいね」
「そんなぁ……」
「それでも一度は、あんたの後を追いかけようとしたんじゃないのかな?」
「え? そうなん?」
「多分ね……でも今日の音を聞いて分かったわ」
「何がですか?」
渚さんはちょっと考えて
「あんたは見事にフラれたね」
と僕を見て笑った。
「え?」
「そう。フラれた……ピアノではね……いや、違うか……あ!……なるほどねぇ……そうかぁ、ピアノではね……」
と渚さんは何かに気が付いたように何度も頷いた。
「え?」
僕は渚さんの言っている事の意味が全く分かっていなかった。
「本当に亮平は驚くほど勘が鈍いところがあるわね。でもこれは分からないかぁ……冴子らしいわ」
と呆れたような顔で僕をまじまじと見た。
「あんな繊細で叙情的な旋律を奏でておきながら、女心は全く分からないのかぁ……天は二物を与えずとはよく言ったもんだ」
と渚さんは一人で納得していた。
「なんなん? その女心って? 冴子にそんなもんあるん?」
「う~ん。亮平……宏美ちゃんと上手く行っているのぉ? そんな感性で? 私は心配になってきたよぉ」
と渚さんは僕の顔を近づけて来て心配そうに見つめた。
「大丈夫です……多分……」
僕はそう応えながら、さっき別れ際に感じた宏美の寂しげな雰囲気を思い出していた。
――何か大切な事を俺は見落としている?――
僕は少し不安になってきていた。
「ま、冴子はヴァイオリンにいってしまったし、暫くは亮ちゃんとは絡む事は無いかもねえ……」
「はぁ……」
と答えてから僕は今日の音楽室での出来事を思い出した。
「そう言えば、今日部活で冴子に『ツィゴイネルワイゼン』の伴奏を頼まれて弾いたんやけど……」
と渚さんに言った。
「『ツィゴイネルワイゼン』? サラサーティの?」
「うん。そう」
「はは~ん。そういう事かぁ」
「え?どういう事なん?」
「いや。それは自分で考えなさい。ふ~ん。なるほどねぇ……やっぱりねぇ……」
と渚さんは意味深な笑いを僕に向けた。さっきからの渚さんの言葉は謎かけみたいで、僕には彼女が何を理解できたのか全く分からなかった。
「そんなん言わんと……お願いします。渚先生」
と頼み込んだが
「そういう事は自分で考えんのよ」
と言って取り合ってくれなかった。
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そう言うと渚さんは楽譜台に置いてあったブラームスのハンガリー舞曲 第1番の楽譜をさっさと片付けて課題曲の楽譜を置いた。
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※この物語はフィクションです。
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