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夏休みの部活
勝てないもの
しおりを挟む僕は宏美をマンションの入り口にある花壇のへりに座らせてその前に立った。
階段の横にあるその花壇はツツジが植えられていた。
「それで今日はあんまり元気がなかったんや」
「うん。それに冴ちゃんも今日学校に行く時からなんか雰囲気違ったん。まさか亮ちゃんにピアノの伴奏をさせるとは思わなかったんやけど……あの演奏聞いてて、どうしようも無くなってしまったん……ゴメン……しょうもない事言うて……嫌いになった?」
「アホ、なるかいな。こんなことぐらいで」
「ホンマに?」
宏美は上目遣いで僕を見上げた。
「ああ、ホンマや」
それを聞くと宏美は安心したように笑った。
「実はやきもち焼きやったんやなぁって、いま分かったん。私はやっぱり亮ちゃんの事が大好きなんやなぁって」
「うん」
宏美が僕にやきもちを焼くなんて全く予想だにしていなかった。
「絶対に裏切らへん?」
「うん。裏切らへん」
これは自信を持って即答できる。
「ホンマに?」
「ああ、ホンマや」
「じゃあ、キスして」
「え? ここで?」
――何を言い出すんや? こいつは――
「うん」
僕の目をまっすぐに見つめて宏美は頷いた。
宏美がこんなにも自分の意思を積極的に言える女性とは思っていなかったが、去年の夏に仁美さんにきっぱりと『あげません』と言ったあの情景を僕は思い出した。
そうだった。腹を括った宏美は強い。
しかしだ、ここは僕の家の前だ。部屋の中ではない。宏美の家も近所だし誰が通るか分からない。
こんなところでキスをするなんて、いくら盛りの付いたサルでも躊躇するだろう?……しかしここで言い訳がましくこの場をごまかして逃げたとしたら宏美は僕の事を蔑むかもしれない、意気地なしと見限るかもしれない。
それこそ『女心が分からない鈍い奴』と後世まで語り継がれるかもしれない。
僕も腹を括った……と言うかこんなことぐらいでしか腹を括れない男だったのかと、ちょっと自分自身に落胆した。
僕は少しかがんでと宏美の唇に軽くキスをした。柔らかい感触が僕の唇に伝わってきた。
すぐに離したがまたすぐに唇を重ねた。
さっきまでの躊躇はどこへ行った?。このままずっと時間が止まればいいのにとさえ思った。
しかし、僕は名残惜しかったが唇をそっと離した。
「……ありがとう」
宏美は恥ずかしそうにそう言ったが、さっきまでとは打って変わって安心しきったような穏やかな表情を見せていた。
「ううん。何か心配かけたなぁ」
僕はまだ納得も理解も出来ていなかったが、宏美が嬉しそうな表情を見せてくれたのでホッとしていた。
宏美は僕の手を握ると
「ううん、よかった……しょうもない事言うてごめんね」
と謝った。
「いや……なんか俺だけが気が付いてなかったんやなぁって」
「うん。亮ちゃんはこういうの鈍いもんね」
また言われた……
「認めたくはないが、そうらしい」
「いいの。そんな亮ちゃんが私は好きなん」
「そう? ありがとう」
「ううん」
と宏美は微笑みながら首を軽く振った。
「……でも、俺も一つだけ気が付いていた事があってん」
「なに?」
「今日の冴子のヴァイオリンの音……あれは決別の音やったな」
「え? そうなん?」
宏美は驚いたように顔を上げた。
「うん。宏美に言われてやっと理解できたわ……今日の冴子のヴァイオリンの音色の意味が……実はずっと何となく違和感を感じていたんや」
僕は宏美や渚さんが言う程鈍感ではないと思いたかった。確かに鈍いのは認めるが、そこまで言われることは無いと思いたかった。
「そうなんや……そこまで感じていたのに、冴ちゃんの気持ちには気が付かなかったんよね……」
と宏美はボソッと言った。
「うん」
「ホンマに鈍感やね……冴子が可愛そう……」
「え?」
「本当に酷い男やわ」
「はぁ?」
宏美は夜空を見上げると
「まあ、許してあげるわ。冴ちゃんとならね」
と言った。
「ええ??」
「でも、演奏だけにしてね」
宏美は僕を見て笑った。
「ああ、あ・当たり前や」
僕の返事は裏返りかけていた。
「それでも、私は焼きもちを焼くと思うから。覚悟しといてね」
そう言うと宏美は立ち上がって、僕にそっと抱きついた。
「ぎゅっとして」
宏美は僕の耳元でそう呟いた。
僕は一瞬躊躇したが、なにを今更という感じで思いっきり宏美を抱きしめた。
「痛い……」
「あ、ゴメン」
僕は慌てて力を抜いた。
「ううん。でも嬉しかった。ありがとう」
宏美はそういうと僕の顔をじっと見て笑った。
僕はこの笑顔には絶対に逆らえないんだったという事を思い出した。
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