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さよならコンサート
彩音さんの意図
しおりを挟む僕は彩音さんから手渡された楽譜を一通り読んでからピアノの譜面台に置いた。
久しぶりに見る譜面だったが、これもまだ覚えていた。散々冴子と宏美に弾かされた曲なのでよく覚えている。
この曲は色々といわくがある曲だ。
作曲者のフリッツ・クライスラーはこの曲を最初、演奏旅行先の図書館でイタリアの作曲家ガエターノ・プニャーニの未発表曲を発見したとして発表している。
で、後年自身の作である事を認めた『作曲者詐称事件』のうちの一曲である事が判明する。
要するに後で『実はあの曲は私が作曲した曲でした』と自ら告白して物議を醸しだした曲という事だ。そしてそんな曲がいくつもあるとんでもないオッサンだ。
なので正確には『プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ』と呼ばれるが、この曲がまた良い曲だったりする。
冒頭六小節二十四拍、その全てが四分音符で書かれた『ミ』と『シ』だけが続くという大胆な構成。
アクセント記号が最初の方に示されているだけでいつまであとは何も書かれていない。奏者としてはここが悩みどころだったりする。
そのまま最後までアクセントをつけて弾いて、聞かせられる音にするのは至難の業だ。誰もそんな事はしない。もちろん僕もそんな弾き方をした事が無い。かといって何もしなければお経のように聞こえてしまう。
まさに初っ端から演奏者の腕と感性を試されるような曲だ。
ここをちゃんと歌えずに単調に弾いてしまうとこの曲は最初の六小節でもう終わってしまうが、彩音さんにとってこの曲はそれほど難しい曲ではないだろう。
それよりも彩音さんがどんな演奏してくれるのかという事の方に興味が注がれていた。
この曲の最初の出だしはヴァイオリンの独壇場であることは言を俟(ま)たない。
彩音さんはヴァイオリンの調弦を軽く終えると僕を見た。
僕は黙って頷いた。
彩音さんのヴァイオリンのスクロールが軽く上がった。
それが下がると同時にヴァイオリンから一気に彩音さんの意思が、想いが押し寄せるように伝わってきた。
僕もそれに合わせてピアノに指を落した。
何と悪魔的に魅惑的な音をこの先輩は奏でるのだろう。一瞬で聞いている人を圧倒せしめる音色。やはり彩音さんのヴァイオリンは人の心を魅了する得体のしれない力がある。人はこういう人を天才と呼ぶのだろうな。
さっきまでの僕のわだかまりは、この音を聞いて一瞬で消えた。そんな事よりもこの音にどう向き合うのかを考える方が重要だったし、もう僕の頭の中は彩音さんのヴァイオリンの音色しかなかった。
僕は冴子や宏美と一緒にやる時のようにヴァイオリンとアクセントを共有するようなピアノではなく、彩音さんの音に引きずられないように淡々と厳かに弾いた。
ヴァイオリンに合わせてアクセントをつけても良かったのだが、この演奏にはあまりにも安易すぎる気がした。彩音さんのヴァイオリンには独特の気品がある。安易なピアノはそれを壊しかねないような気がした。
そう、ここはピアノの主張を押さえて『やれるもんならやってみろ! 聞いてやる』みたいな敢えて感情を押し殺したような音を出す方が良い。彩音さんのヴァイオリンの旋律にはこれが一番合っている気がする。
その為には正確に鍵盤の音を出し切らなくてはならない。
第一、僕自身がピアノの余計な主張を挟みたくなかった。やはり僕は彩音さんの音が好きなんだ。
彩音さんはそんな僕の気持ちを知ってから知らずか、ちゃんと自分の旋律を持っていた。
もっとも彩音さんは、たとえここで僕が余計な主張をしても抑え込むような圧倒的な力を持った音の粒を出していた。
僕は勝つとか負けるとか合わせるとかそんな次元ではなく、この音の粒をどうやって共有するかだけを考えていた。自分の感性を信じて任せるしかなかった。そう、僕は自分が思い描く音の粒を最後まで出し切りたかった。
それと同時にヴァイオリンの音の粒からは、彩音さんの抑えきれない憤りや苛立ちの色もまだ感じた。
その瞬間
――あ、彩音さんはが欲しかったのは『伴奏』ではなく『共演』やんか!――
と悟った。
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