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ヴァレンタインにとっては、オヤジがピアノを辞めたことは相当ショックだったのだろう。それは彼に対する裏切りとでも思ったかもしれない。そんな感情が彼の表情からも、強く僕に伝わってきた。
今この時、三十年近く前の話を『さも今さっきあった事実』かのように話をしている世界の巨匠が僕の目の前にいる。
その巨匠の感情の熱量を僕はもろに受けて唖然としていた。
それに気が付いたようにヴァレンタインは我に返ったかのような表情で
「亮平……済まない、熱く語り過ぎました」
と、なんとか笑顔を作りながら視線を僕に向けた。
でもその視線の先には僕ではなく、オヤジの姿を見ていたような気がした。
「君のショパンは一平の音を彷彿させる素晴らしいものでした。君のピアノには色がある。素晴らしい景色だ。鮮やかな色で情景が目に浮かぶ。だからこそ君がこれからどんな物語を語るのか興味が尽きないのです」
ヴァレンタインはそこで言葉を切ると、一呼吸おいて
「君は僕を置いて行ったりしないよね?」
と僕の目を凝視して言った。
あまりのその迫力に目を背けそうになったが『ここで負けたらオヤジに怒られるかも』とか訳の分からん事を思いながら
「いえ。僕は止めませんよ。フランスに行きます」
と言い切ってしまった。
ヴァレンタインの表情がみるみる緩んだかと思うと、僕はあっという間にヴァレンタインにハグされていた。
「ありがとう」
ヴァレンタインはそう言って僕をきつくハグした。
流石に息苦しかったが、ヴァレンタインがオヤジのピアノをどれほど愛していてくれたのかが伝わってきた。
オヤジがピアノを辞めた理由を知っている僕であるが、少しオヤジの事を恨めしく思ってしまった。いつかオヤジがピアノを辞めた理由をダニーに言う時が来るのだろうか?
そんな時は絶対に来ないような気がした。
「先生、そろそろお時間です」
と女性の声がした。
ヴァレンタインは名残惜しそうにハグしていた腕を開き僕から離れると
「もうそんな時間ですか……わかりました」
と言って声がした方に振り返った。
そこに立っていたのは真由美ちゃんだった。
「へ? なんでこんなところに?」
思わず僕は聞いた。
「あれ? 言ってなかったっけ? 私バイトでヴァレンタインのマネージャアシスタントすることになったって」
と真由美ちゃんは事も無げに言った。
「聞いとらん。聞いとらん」
と僕は激しく首を振った。そんな話は今初めて聞いた。
それと同時に
――アシスタントマネージャーという前に真由美ちゃんは大学生だろう? 学生バイトか? 授業はないのか? 大学生ってそんなにも自由に時間が使えるのか?――
などと一気に聞きたいことが思い浮かんだ。
「ヴァレンタインの奥さんが忙しいので、この学校に来る時は私が付きそう事になったのよ」
と僕の動揺をまるで理解しないかのように、真由美ちゃんはいたって普通に答えてくれた。
僕が真由美ちゃんに疑問をぶつけるよりも先にヴァレンタインが
「そうだ! 大事な事を言い忘れるところでした!」
思い出したように叫ぶと僕の両肩に『バン!!』と勢いよく手を置いた。
「今度私はオーケストラを指揮します。亮平、あなたも出るのです!」
「え? ヴァイオリンでも弾くのですか?」
「何を言う。ピアノを弾くのです」
とヴァレンタインは首を激しく横に振った。
「オーケストラって……それってどこの?」
「みなと神戸フィルハーモニー交響楽団です」
とヴァレンタインはこの街の古くからあるオーケストラ楽団の名前を言った。
「え?」
「マエストロはそこの名誉音楽監督に就任されました」
と今度はヴァレンタインではなく真由美ちゃんが答えてくれた。
――フランスに帰るんじゃなかったのか?――
世界の巨匠をそこにねじ込んだのは誰なのか?……そんなことは聞かなくても分かった。
僕の心の動揺とは関係なく
「あなたはそこでピアノを弾くのです。私の指揮です。良いですね」
とヴァレンタインは念を押す様に僕の目を見つめて言った。
思わず僕は
「は、はい。喜んで」
と応えてしまった。
なんだかはめられたような気がしてならない。色んな意味で……。
この前、オヤジ達と一緒に食事をした時の事を思い出した。
その時に真由美ちゃんが言った『でも、そんな暇あるのかなぁ?』とはこのことを言っていたのかもしれないと思い当たった。
既にこの時から僕ははめられていたのかもしれない……。
『俺の人生を何だと思っているんだ!』とこの世の中の約一名に叫びたい気持ちになったが、同時に『何とも思っとるかいな』とひとことで返されそうな気がした。
そして忌々しいがこの話を聞いた瞬間に僕はワクワクしてしまった。この企みの面白さには僕は勝てそうにない事も分かっていた。
――オーケストラでピアノが弾ける――
僕には未体験ゾーンだった。それで十分だった。
僕は巨匠の目を睨むように見返して
『よろしくお願いします』
と応えた。
今この時、三十年近く前の話を『さも今さっきあった事実』かのように話をしている世界の巨匠が僕の目の前にいる。
その巨匠の感情の熱量を僕はもろに受けて唖然としていた。
それに気が付いたようにヴァレンタインは我に返ったかのような表情で
「亮平……済まない、熱く語り過ぎました」
と、なんとか笑顔を作りながら視線を僕に向けた。
でもその視線の先には僕ではなく、オヤジの姿を見ていたような気がした。
「君のショパンは一平の音を彷彿させる素晴らしいものでした。君のピアノには色がある。素晴らしい景色だ。鮮やかな色で情景が目に浮かぶ。だからこそ君がこれからどんな物語を語るのか興味が尽きないのです」
ヴァレンタインはそこで言葉を切ると、一呼吸おいて
「君は僕を置いて行ったりしないよね?」
と僕の目を凝視して言った。
あまりのその迫力に目を背けそうになったが『ここで負けたらオヤジに怒られるかも』とか訳の分からん事を思いながら
「いえ。僕は止めませんよ。フランスに行きます」
と言い切ってしまった。
ヴァレンタインの表情がみるみる緩んだかと思うと、僕はあっという間にヴァレンタインにハグされていた。
「ありがとう」
ヴァレンタインはそう言って僕をきつくハグした。
流石に息苦しかったが、ヴァレンタインがオヤジのピアノをどれほど愛していてくれたのかが伝わってきた。
オヤジがピアノを辞めた理由を知っている僕であるが、少しオヤジの事を恨めしく思ってしまった。いつかオヤジがピアノを辞めた理由をダニーに言う時が来るのだろうか?
そんな時は絶対に来ないような気がした。
「先生、そろそろお時間です」
と女性の声がした。
ヴァレンタインは名残惜しそうにハグしていた腕を開き僕から離れると
「もうそんな時間ですか……わかりました」
と言って声がした方に振り返った。
そこに立っていたのは真由美ちゃんだった。
「へ? なんでこんなところに?」
思わず僕は聞いた。
「あれ? 言ってなかったっけ? 私バイトでヴァレンタインのマネージャアシスタントすることになったって」
と真由美ちゃんは事も無げに言った。
「聞いとらん。聞いとらん」
と僕は激しく首を振った。そんな話は今初めて聞いた。
それと同時に
――アシスタントマネージャーという前に真由美ちゃんは大学生だろう? 学生バイトか? 授業はないのか? 大学生ってそんなにも自由に時間が使えるのか?――
などと一気に聞きたいことが思い浮かんだ。
「ヴァレンタインの奥さんが忙しいので、この学校に来る時は私が付きそう事になったのよ」
と僕の動揺をまるで理解しないかのように、真由美ちゃんはいたって普通に答えてくれた。
僕が真由美ちゃんに疑問をぶつけるよりも先にヴァレンタインが
「そうだ! 大事な事を言い忘れるところでした!」
思い出したように叫ぶと僕の両肩に『バン!!』と勢いよく手を置いた。
「今度私はオーケストラを指揮します。亮平、あなたも出るのです!」
「え? ヴァイオリンでも弾くのですか?」
「何を言う。ピアノを弾くのです」
とヴァレンタインは首を激しく横に振った。
「オーケストラって……それってどこの?」
「みなと神戸フィルハーモニー交響楽団です」
とヴァレンタインはこの街の古くからあるオーケストラ楽団の名前を言った。
「え?」
「マエストロはそこの名誉音楽監督に就任されました」
と今度はヴァレンタインではなく真由美ちゃんが答えてくれた。
――フランスに帰るんじゃなかったのか?――
世界の巨匠をそこにねじ込んだのは誰なのか?……そんなことは聞かなくても分かった。
僕の心の動揺とは関係なく
「あなたはそこでピアノを弾くのです。私の指揮です。良いですね」
とヴァレンタインは念を押す様に僕の目を見つめて言った。
思わず僕は
「は、はい。喜んで」
と応えてしまった。
なんだかはめられたような気がしてならない。色んな意味で……。
この前、オヤジ達と一緒に食事をした時の事を思い出した。
その時に真由美ちゃんが言った『でも、そんな暇あるのかなぁ?』とはこのことを言っていたのかもしれないと思い当たった。
既にこの時から僕ははめられていたのかもしれない……。
『俺の人生を何だと思っているんだ!』とこの世の中の約一名に叫びたい気持ちになったが、同時に『何とも思っとるかいな』とひとことで返されそうな気がした。
そして忌々しいがこの話を聞いた瞬間に僕はワクワクしてしまった。この企みの面白さには僕は勝てそうにない事も分かっていた。
――オーケストラでピアノが弾ける――
僕には未体験ゾーンだった。それで十分だった。
僕は巨匠の目を睨むように見返して
『よろしくお願いします』
と応えた。
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