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先生
月光第一楽章
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「でも、亮平の音はコンクール向きではないよね。多分コンクールの審査員の評価は分かれると思うわ。その上、まだあんたの音には迷いがある。それを克服しないとそもそも土俵に立てへんと思うな」
渚さんはそこで一息入れるように考え込んだ。
「克服しても……評価は分かれるなぁ……」
と独り言のように呟いた。
そして
「それが問題なんよねえ……片や自分の音を追求し、片やコンクールと受験のための音を弾き分けるなんて芸当をしなくちゃならないのよね」
と容赦なく僕の置かれた現状を呟いてくれた。
僕の存在を忘れたように……独り言が続く。
「でも亮平ならできるかなぁ……」
と勝手に自己完結して頷くと
「そもそも、コンクールとか興味あんの?」
とさっきまでの無表情な独り言状態と打って変わって、明るい顔で聞いてきた。僕がここにいる事を忘れてはいなかったようだ。
「ないよ!」
僕は間髪入れずに返事をしたが少しドキッとしていた。そんな質問がここで飛んでくるとは思ってもいなかったし、自分の返事があまりにも即答過ぎて笑いそうにもなった。
「ああ、やっぱりね。見事な即答やわ」
渚さんにもそれは分かっていたようだ。そう言うと天井を見上げてため息をついた。
「やっぱり分かりますぅ?」
「うん。あんな弾き方をしとったらねえ……そう思うわよ」
と渚さんはそう言うと軽く笑った。
「だって、自分の表現したい音だけを追いかけているんやもん。少しは審査員のみなさんの顔色も見ろ! って言いたくなるような弾き方やわ。私は好きな音やけど」
「へへ、そうかも。弾いていて自分が出したい音が出た時の快感はたまらんから……」
渚さんの表現が面白くて僕は少し気が楽になって笑いながら応えた。やっと昔の渚さんとの距離がつかめてきた。
「そうだよねえ……その気持ちは分かるなぁ……で、そのたまらんと思う音で弾ける曲はあんの?」
渚さんは唐突に聞いてきた。それは僕にまたピアノを弾くように言ってるも同然の質問だった。
「……う~うん」
僕は少し迷ったが、今ならまだ自信をもって弾けそうな曲が一曲だけ思いついた。
それはベートーヴェンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調『月光』の第一楽章だった。
そう、安藤さんの店でオヤジの前で弾いた曲だ。その時は第三楽章まで弾いたが、その余韻がまだ身体に残っている今であれば第一楽章なら弾けそうな気がした。
あの厚みのあるピアニシモを最後まで維持して弾けるかどうか分からなかったが、今ならまだ弾けそうな気がした。
僕は軽く深呼吸してから鍵盤にそっと指を置いた。
この曲は出だしですべてが決まると僕は思っている。最初の三連符をちゃんと弾けるかどうかにかかっている。
右手は静かにゆっくりとそれでいてだれない速さで、はっきりと響く小指を意識しながらピアニシモで。そして左手は出しゃばり過ぎない控えめな音をくどくない余韻を響かせながら添える様な感じで指を落とす。繊細なバランスとタイミングそして力加減が要求される曲だ。ダンパーはふみ過ぎないように気を付けた。
僕は出だしの二十小節あたりまで首を少し傾けて、鍵盤に片耳を少し近づけるように少しだけ猫背気味に弾き始めた。
この方が音と指の力加減が良く分かる気がする。このピアノの癖は分かっているつもりだが、久しぶりなので少し感触を確かめながら弾いていた。
しかし出だしの入りは満足のいくものだった。
右手と左手のバランスが良い。まだこのピアノの感触を覚えていた。
音の響きも欲しい厚みも確保している。若干右手が緊張しているのが分かるが、気にならない程度の緊張だ。
左手の音も出しゃばらずにそれでいてちゃんとズンと響いている。
音の調和がとれている時は、音よりも光が優先される。
閉じた瞳の奥では音の粒がまとまって、粒から円に変わっていった。
音の波が綺麗に寄せたり引いたりしている。
渚さんはそこで一息入れるように考え込んだ。
「克服しても……評価は分かれるなぁ……」
と独り言のように呟いた。
そして
「それが問題なんよねえ……片や自分の音を追求し、片やコンクールと受験のための音を弾き分けるなんて芸当をしなくちゃならないのよね」
と容赦なく僕の置かれた現状を呟いてくれた。
僕の存在を忘れたように……独り言が続く。
「でも亮平ならできるかなぁ……」
と勝手に自己完結して頷くと
「そもそも、コンクールとか興味あんの?」
とさっきまでの無表情な独り言状態と打って変わって、明るい顔で聞いてきた。僕がここにいる事を忘れてはいなかったようだ。
「ないよ!」
僕は間髪入れずに返事をしたが少しドキッとしていた。そんな質問がここで飛んでくるとは思ってもいなかったし、自分の返事があまりにも即答過ぎて笑いそうにもなった。
「ああ、やっぱりね。見事な即答やわ」
渚さんにもそれは分かっていたようだ。そう言うと天井を見上げてため息をついた。
「やっぱり分かりますぅ?」
「うん。あんな弾き方をしとったらねえ……そう思うわよ」
と渚さんはそう言うと軽く笑った。
「だって、自分の表現したい音だけを追いかけているんやもん。少しは審査員のみなさんの顔色も見ろ! って言いたくなるような弾き方やわ。私は好きな音やけど」
「へへ、そうかも。弾いていて自分が出したい音が出た時の快感はたまらんから……」
渚さんの表現が面白くて僕は少し気が楽になって笑いながら応えた。やっと昔の渚さんとの距離がつかめてきた。
「そうだよねえ……その気持ちは分かるなぁ……で、そのたまらんと思う音で弾ける曲はあんの?」
渚さんは唐突に聞いてきた。それは僕にまたピアノを弾くように言ってるも同然の質問だった。
「……う~うん」
僕は少し迷ったが、今ならまだ自信をもって弾けそうな曲が一曲だけ思いついた。
それはベートーヴェンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調『月光』の第一楽章だった。
そう、安藤さんの店でオヤジの前で弾いた曲だ。その時は第三楽章まで弾いたが、その余韻がまだ身体に残っている今であれば第一楽章なら弾けそうな気がした。
あの厚みのあるピアニシモを最後まで維持して弾けるかどうか分からなかったが、今ならまだ弾けそうな気がした。
僕は軽く深呼吸してから鍵盤にそっと指を置いた。
この曲は出だしですべてが決まると僕は思っている。最初の三連符をちゃんと弾けるかどうかにかかっている。
右手は静かにゆっくりとそれでいてだれない速さで、はっきりと響く小指を意識しながらピアニシモで。そして左手は出しゃばり過ぎない控えめな音をくどくない余韻を響かせながら添える様な感じで指を落とす。繊細なバランスとタイミングそして力加減が要求される曲だ。ダンパーはふみ過ぎないように気を付けた。
僕は出だしの二十小節あたりまで首を少し傾けて、鍵盤に片耳を少し近づけるように少しだけ猫背気味に弾き始めた。
この方が音と指の力加減が良く分かる気がする。このピアノの癖は分かっているつもりだが、久しぶりなので少し感触を確かめながら弾いていた。
しかし出だしの入りは満足のいくものだった。
右手と左手のバランスが良い。まだこのピアノの感触を覚えていた。
音の響きも欲しい厚みも確保している。若干右手が緊張しているのが分かるが、気にならない程度の緊張だ。
左手の音も出しゃばらずにそれでいてちゃんとズンと響いている。
音の調和がとれている時は、音よりも光が優先される。
閉じた瞳の奥では音の粒がまとまって、粒から円に変わっていった。
音の波が綺麗に寄せたり引いたりしている。
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