北野坂パレット

うにおいくら

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エゴイストとピアニスト

恵子の頼み

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 指揮台にダニーが立つと音合わせの喧騒がピタリと止んだ。世界の巨匠が指揮台の上に立っている。
「さて、この曲は皆さんはもう何度も演奏していると聞いています。まずは最後までやってみましょう」
とダニーはゆっくりとした口調で語り掛け、オーケストラの演奏者の顔を確認するようにゆっくりと見回した。

 前もってこの曲を演奏(や)る事は楽団員には伝えてあったようだが、僕だけでなくオーケストラの楽団員もダニーの指揮でこの曲を演奏するのは初めてだったようだ。
楽団員の緊張感が一気に高まっていくのが伝わってきた。

――まずは音で語れ……という事か――

プロの楽団員である。譜読み段階でもそれなりに演奏ができて当たり前だ。指揮者も楽団もお互いのやり方というものがある。そのすり合わせを今ここでやるようだ。そんな場面で僕もピアノを弾くのかと思うと少しだけ緊張する。

 ダニーはそんな張り詰めた空気を気にすることもなく、両腕を構えてから軽くうつむき加減に首をかしげた。横目で指揮台の横のピアノの前に座っている僕と視線が繋がる。

 緊張の糸が更に張り詰めていく。そんな空気の中、僕は鍵盤をじっと見つめる。訪れる一瞬の間。
自分のタイミングが来るのを待つ。ああ、これがオーケストラの間だ。しびれそうだ。

 緊張感が頂点に達した瞬間、僕の指が鍵盤に静かにそして躊躇なく沈んでいった。
練習所のホールに波紋の様にピアノの音だけが静かに広がっていく。優しい鐘の音が聞こえた。

 そう、ロシア正教会の鐘の音が遠くから響いてくる。
鐘の音は徐々に大きくなって力強さを増す。教会の大聖堂が目の前に大きく立ちふさがり、その奥には白と青のバロック式鐘楼が天高くそびえる。
僕の眼前には『至聖三者聖セルギイ大修道院』が迫ってくる。

 僕が打ち鳴らす鐘の音が最高潮に達した時、鐘の音はオーケストラの一つの要素となり溶け込んでいった。


 そんな僕の思考を遮るように恵子が話を続けてきた。
「その楽譜って今度ダニー先生と演奏(や)る曲ですか?」
恵子は目ざとく僕が手にした楽譜がそれであることに気が付いた。

「そうやけど、よう分かったな」
僕は強引に現実に引き戻された焦りを悟られないように応えた。

「こう見えて勘は良いんですよ」
と恵子は笑った。

「そうですかぁ」
と僕は苦笑いしながら聞き流した。

「その楽譜ってオーケストラから支給されるんですか?」
と聞いてきた。
目ざとく譜面に印刷されていた楽団の文字に気が付いたようだった。

「そうみたい。俺はダニーから直接貰ったけど、普通は自分で取りに行くみたいやなぁ」
と僕は楽譜をぱらぱらとめくりながら応えた。楽譜にはダニーからの指示が書き込まれている。

「へぇ、そうなんですねえ……支給されるって、なんか恰好良いですね」
と恵子は感心したように頷いた。

――部活で演奏する楽譜も支給されとるだろうが――
とツッコんでやりたかったが止めた。

「ところで先輩、お願いがあるんですが……」
と今度は改まって、僕の顔色を窺うように上目遣いで言った。
――今までの会話は前振りか?――

「なに?」
 今までの会話が何のための前振りかどうかはさておき、どんなお願いが出てくるのか僕は全く思い浮かばなかったが、『お金を貸してほしい』とか言われないことだけを願った。

「一度、先輩と一緒に演奏したいです」
水岩恵子は僕の目をまっすぐに見て言った。

「え?」
僕はその申し出に軽く驚きながらも聞き返した。

――借金の申し込みでは無かった――

「忙しいとは思います。でもお願いします」
さっきまでの恵子の笑顔は消えて真剣なまなざしだった。有無を言わせない迫力を感じた。

「お前と二人でか?」
何故か声が裏返りそうになるのを抑えて僕はまた聞き返した。

「いえ。まゆまゆとあっちゃんと夕子と小百合も一緒です」
と恵子は二年生のメンバーの名前をすらすらと上げた。

「なんや? 沢山おるなぁ」

「はい。この五人と一緒にカノンをやってもらいたいんです」
と恵子はきっぱりと言った。

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