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エゴイストとピアニスト
夜、安藤さんの店 その4
しおりを挟む「贈り物?」
と僕が聞き返すと
「今度のコンサートの件な」
とオヤジは僕の顔も見ずに言った。
「やっぱりそうなんかなぁ」
「なんや? 自覚なかったんか?」
オヤジは怪訝な顔で僕の顔を覗き込んだ。
「いや、ダニーがくれたチャンスやとは思っていたけど……」
「ダニーはああ見えても世界の巨匠やぞぉ。その世界の巨匠が自分のコンサートに指名したピアニストなんかは否が応でもなく世界から注目されんのはお前でも分かるやろ?」
とオヤジは少し呆れ気味に言った。
――そうやった。ダニーは世界の巨匠やったわ――
僕は状況をちゃんと把握していなかったようだ。
僕はプロのオーケストラと共演できるチャンスをくれたぐらいにしか考えていなかったが、ダニーに指名された時点からもっと深い色々な事が全てが始まっていることを、今初めて気づかされた。
オヤジは大袈裟に世界と言ったが、少なくとも今回のコンサートでの指名の件は日本国内では間違いなく注目されるだろう。
僕の想像より大きな機会をダニーは僕に与えてくれていた。本当に感謝すべきプレゼントである事にやっと僕の理解が追い付いた。ちょっと浅はかに浮かれ過ぎていたのが悔やまれる。
そんな僕に浴びせた
「ある意味これがお前のピアニストとしてのデビューやな」
というオヤジのひとことは微妙にプレッシャーを感じさせた。
それを察したかのようにオヤジは
「緊張してきたやろ? それを心地よい緊張感と言うんやで」
と楽しそうに笑った。
「心地よい緊張感?」
聞きなれない言葉に僕は首を傾げた。
「そうや。人はな、生きとったら多少なりとも緊張する事やプレッシャーを感じる事があるやろ。そういう時は敢えてその緊張した状況を前向きにとらえる訳や。もっともお前はあまり緊張するタイプには見えんけどな」
とオヤジは笑いながら言った。
「そうやなぁ……コンクールではあまりないなぁ……この前のは違う意味で緊張したけど……誰かが余計なプレッシャーを与えるから」
「ははは……あれこそ、心地よい緊張感やったやろう?」
とオヤジはそう言って楽しそうに笑った。
「まあ、結果オーライやなぁ」
と応えながら僕はあの時の忌々しい感情を思い出しつつその時の情景も思い出していた。
冴子の演奏を聞いて焦りまくっていた僕。思い出したくもない。
しかし舞台に上がった時はこのコンサートホールの客席のどこかで、笑いをかみ殺していただろうオヤジの姿を想像してムカついていた。おかげでさっきまで感じていた緊張感と焦りはどこかに忘れてしまっていた。そういう意味では、オヤジの言う通り心地よい(腹の立つ)緊張感と言うものを感じていたのかもしれない。
なんだか思い出したらまたムカついてきた。
「父さんは緊張した事ないの?」
「あんで」
とオヤジは即答した。
「あるんや……そういう時はどうすんの?」
「緊張して『失敗したらどないしょ』とか考えて焦っている時は、そういう自分を斜め上辺りから見て『焦っとるでこいつ。おもろ』とか思うなぁ」
「え? そうなん?」
「そうや。自分の意志に関係なくドキドキしているんやで。多分脈拍も上がってるんやろうなぁと思うわ。自分ではどうしようもない状況になっている自分を観察するのは面白いでぇ」
とオヤジは他人事のように言った。そんな考え方を僕はした事がない。初めて聞いた。
「そうかぁ……父さんでもコンサートはあがるんや」
「いや。コンサートではあがった事ないなぁ」
とまたもや即座に否定された。
「うそ? コンクールでも?」
「ああ。ホンマに無い」
「じゃあ、どこであがるんや?」
「う~ん。そうやなぁ……」
と言うとオヤジは考え込んだ。どうやらオヤジは自分で思っているほど緊張感を感じていないようだ。
「ユノのオヤジに結婚の挨拶行った時はどうやってん?」
と安藤さんが助け舟を出してくれた。
「それかぁ……あのオヤジなぁ……焦るというよりは変な汗掻いたわ。離婚する時も変な汗かいたけど……」
とオヤジは笑った。
「結局、父さんはそれほどあがる事はなかったんやなぁ」
「まぁ、そうかもしれんなぁ……でもなぁコンサートやコンクールでは上がる事はなかったけど、それなりに緊張した事は何度かあったで。それが何やったかは忘れたけど……」
やはりオヤジは緊張感とは程遠い人間のようだ。それと同時にやはり僕はこのオヤジの息子だ。
コンクールやコンサートでは、僕は楽しみではあるが緊張する事はあまりない。
その時、店の扉のカウベルが鳴ってダニーが入ってきた。
今日は一人だった。
「今日は嫁はんは一緒やないんかい?」
とオヤジはダニーの顔を見るなり聞いた。
「後で来るかもしれません」
とダニーは笑いながら応えた。
そして僕の隣に座ると
「来週ですね」
と笑顔でひとこと言った。
「はい」
と僕は短く応えた。
ダニーは満足そうに頷くと
「私にも一平と同じものを下さい」
と言ってグレンフィディックのロックを注文した。
――ああ、この人も緊張感を楽しめる人だ――
と直感的に僕は理解した。
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