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第五章 悪役令嬢もいたかもしれない

23 王子ジークヴァルト

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 その日も、イレーネは自分の部屋で、難解な魔法書や呪術書の読解をしていた。分厚い魔法書を読みながら、紅茶を片手にあくびをかみ殺し、懸命に呪文と発動の仕組みを理解しようとした。大学院レベルの魔法書を読むのは、暖められた冬の午後の静かな一室では、眠気が誘われる作業ではあった。だがビンデバルド宗家の長女として、たゆまぬ努力を求められているイレーネは、何とか舌をかみそうな長い呪文を暗記しようと、必死であった。

(魔法の呪文って、何でこんなに長ったらしくて、似たような発音が多いんだろう。もうちょっと簡潔に覚えやすくまとめられないものか……それが、院に勤める魔道士の役割よね。それにしても、この辺の呪文は、生活の中では使わないから、つまらないわ。だけど、また、魔大戦のような事があったら、使い放題になりそうね。魔族の動き次第では、次は私にも活躍出来る事が……)



 魔大戦には、三人の皇女が出撃しているが、イレーネにはそんなターンはなかった。何事も、皇家に反発しがちなザムエルは、皇太子リマの出撃には猛反対したのである。それを押し切ったのは、アハメド二世の一存なのだが。リマの出撃に反対した以上、まさか自分の娘達を出撃させる訳にもいかず、イレーネ達はその能力を使う機会に恵まれなかったのである。

 そのことについて、イレーネは憤懣やるかたない思いをしていた。帝国学院の大学部まで、ずっとライバル同士だったヴィーが、アスランとともに魔王を倒すような活躍の場面に恵まれたのに、自分は父親に阻止されてしまったのである。

 自分にも出来る事はあるはずだったのに……そう思いながら、魔法書に飽きたイレーネは、呪術書の方を開いて、魔法書で覚えた呪文と関係のありそうな箇所を選んで読み始めた。



「ん? ……風の毒??」

 前に、大学の古代呪術の講義で、ちらっと聞いた事のある単語だ。イレーネは、早速、その箇所をよく読んで見た。



 風の毒とは、自分の持っている毒の効果を、遠く離れた場所にいるターゲットに当てて、直接、毒を与えたのと同じ効果を発揮させる呪術であるらしい。自分の手持ちの毒と、魔法のアイテムをそろえて、呪文を唱えて、魔法を発動させ……と、はっきり細かく手順が書かれている。

 それを読んでいるうちに、イレーネの口元に不敵な笑みが浮かんだ。

 一般人なら到底読みこなせない内容だろうが、貴族の出で、大学部もヴィーと張る優秀な成績で卒業したイレーネには、やって出来ない呪術ではない。

(そうね、まずはヴィー……そしてもし効くようなら、イヴの方にもちょっとした悪戯をしてやろうじゃないの)

 折しも、数日後に、ジグマリンゲン家の新年パーティが遅れてある。貴族同士のつきあいで、ジグマリンゲン家はビンデバルド宗家を呼ばない訳にもいかないのだ。ザムエルと、母ユーディットが呼ばれていたが、彼らは長女のイレーネに名代を押しつけていた。

 三人の皇女も新年パーティには呼ばれているという。そこに、ヴィーが欠席になるか、青い顔で現れるのを想像すると、なんだか楽しくなってくる。

 最近、ヒマを持て余していたイレーネは、いかにも悪役令嬢らしい笑顔になり、呪術の書を閉じると、椅子から立ち上がった。



 十分後、イレーネは、籠を抱えて一人、真冬の庭園で植物を物色していた。ビンデバルド宗家の庭は、皇后の実家の異名に恥じぬほど広大で、四季のありとあらゆる草花や木々を楽しめるようになっており、さながらちょっとした植物園のようであった。イレーネはその庭を歩き回りながら、自分でも知っている毒を持つ植物を探している。ちょうどいい植物を見かけると、手袋をつけた手に持ったはさみでそっと切り取っては籠に入れ、楽しい空想にふけった笑みを浮かべた。

 イレーネは、自分で手ずからヴィーを倒すための毒草を集めているのである。

 もちろん、ビンデバルド宗家には様々な種類の毒が収集されているが、それらはすべて、ザムエルの手で、鍵つきの倉庫の中に大切に保管されており、そこにはイレーネでさえ勝手に立ち入ることは出来なかったのだ。それで、イレーネは、自分で毒を作る事を思いつき、その上でイヴやヴィー達を呪詛で攻撃しようとしていた。



 そういう企みの事は、なるべく知られない方がいい。侍女や使用人に、庭からとはいえ毒を集めてこいと言うのは、外部に漏れる危険があるので、イレーネは一人でこっそり庭の中を歩き回っては、毒草を集めて一人でほくそ笑んでいたのである。小人閑居してなんとやらとはこのことだ。



(あら、こんなところに夾竹桃がある。これは本当に危険なやつよね……慎重にとらなくちゃ)

 イレーネは顔を引き締めて、夾竹桃の前で鋏を構え、どの葉と枝を切り取るか、真剣に考え込んだ。



 そのときだった。

 ふわり、といい匂いがした。植物の匂いではない--それはムスクのよい匂い。

 振り返るより早く、イレーネの鋏を持った右手が軽くつかまれた。イレーネの右の手首をきゅ、と。

 びっくりして後ろを向いたイレーネの前には、流れるような銀髪と紫色の瞳の、風精人ウィンディの青年がいた。甘やかな視線をイレーネに向ける彼は、十年ほど前から同じ屋敷に暮らすのジークヴァルト・ディートリッヒ・アル・ガーミディその人であった。



「ジ、……ジークヴァルトさま!? 一体……」

「動かない方がいい。イレーネ。その木は夾竹桃ですよ。どんなに美しく見えても猛毒を持つ植物……あなたが触れてはいけません」

「……!」

 ジークヴァルトは、どうやら、イレーネが毒に触れて怪我をすると思い、右手を後ろからつかんだと言う事らしい。

 イレーネは真っ赤になって動揺した。イレーネはまさにその猛毒が欲しくて、この夾竹桃を自ら触ろうとしたのだが、その動機ときたら、ライバルのヴィー姫を蹴落とすための呪術に必要な材料だからである。そんな話をジークヴァルトの前でするわけにもいかず、ただ赤くなって目をそらしてしまうのだった。

 ジークヴァルトはそのイレーネの仕草をどう受け取ったのか、そっと笑みを含むと、イレーネの籠を見て言った。

「花を摘みに来たのですか、イレーネ?」

「え、はい……そうですわ」

 他にごまかす方法もなく、適当にそう答えるが、イレーネはジークヴァルトの前で動悸が速くなるのを止める事が出来ないでいた。ジークヴァルトの甘いマスクとささやくような声音の事もある。だが、何よりも、イレーネは自分が何の目的で毒草を集めているのかジークヴァルトに知られるのが怖かった。相手は、アル・ガーミディ皇家の血を引き、何事も自分より格上の存在で、年上の青年である。そんな相手に女同士の悲しいいがみ合いの事を知られるのは辛かった。

 ……無論、誰にでも、知られたい話ではないのだけれど。



「そんな仕事はメイドにさせればよろしい。こんな寒い庭にたった一人で……イレーネ、手がすっかり冷たくなっているじゃないですか」

 ジークヴァルトはやはり優しげな声でそう言って、絹の手袋に包まれているイレーネの右手を両手で握りしめた。イレーネは胸が高鳴るのが止められなかったが、それは、寒い庭に一人で自分が何をしていたか、追求されたように感じたからであった。

(い、言えないっ、ヴィーに呪術をかけるために、毒草を一人であさっていただなんて……ばれたらどうしよう! 恥ずかしくて、きっと息が止まってしまうわ!!)

 真っ赤になって目をそらして、動揺を押さえつけようとしながら、イレーネは次第に、庭の冷たい空気に反して頬が熱くなってくるのを感じた。やはり、呪術でこっそりイヤガラセなどと考える事ではない。ばれたらどれだけ恥ずかしい思いをするか、わかったものじゃないのだ。まだばれてはいないけど。



「メイド、どこかに……誰かいないか!?」

 ジークヴァルトは冬の庭で声を張り上げた。程なく、通りがかったバルバラが、二人の方に近づいてきて、控えめな仕草で礼をした。

「イレーネの籠をもて。これから彼女の部屋に戻るから、ついてこい」

 ジークヴァルトは、イレーネの籠の中に毒草が入っている事には気がついているらしい。イレーネはそのことに気がついた。知ってて、言わないでいてくれるのだ。20歳の娘が、籠いっぱいに毒草を収集して、何をしているのかと思った事だろう。

 だが、別にくちばしを挟んで問いたださなくても、彼女の行動を抑制する事は出来る。こうして、メイドに毒草の籠を持たせるだけで、イレーネは羞恥に包まれているのだ。

 何にせよ、顔のよい男というのは、得するものである。



「じ、ジークヴァルトさまは……どうしてここに?」

 イレーネはやっと息を整えて、ジークヴァルトの後をついて歩きながらそう言った。

「イレーネが、庭に一人でいるのが見えたので。メイドもつれずに、そんな軽装で、外に出るものではありませんよ」

 イレーネは冬物のドレスの上にコートを着ていたが、ジークヴァルトから見ると、寒そうな格好に見えたらしい。口実かもしれないが、自分が心配されていることを感じて、イレーネは文句も言えなくなった。

 ヴィーに呪術で猛毒攻撃を仕掛ければ、当然、ヴィー側から呪詛返しで様々な反撃が加えられる。それは、予想の範疇ではあったが、軽率だったような気もする。イレーネ自身、呪詛返しや様々な魔法は知っているが……相手はアル・ガーミディ皇家なのだ。

(私だって大切にされている体なんだ。あんまり、身勝手な行動はしないようにしよう……ジークヴァルトさまに心配かけてしまう)

 そんなふうに、イレーネは考えを改めた。



 バルバラの方は、イレーネ付きの侍女であるから、手の空いた時はイレーネの事を気にして、そっと目立たない位置に控えている事は珍しくはない。イレーネの事を見えないところから見守っていたのだろう。



 自室に戻ると、暖かい空気が、イレーネ達の体が冷え切っている事を教えてくれた。

 イレーネはコートを脱ぎ捨てて別のメイドに片付けるように頼み、バルバラに、熱い茶を用意するように頼んだ。バルバラは、イレーネの机の上に毒草の籠をおいて、すぐにテキパキと動き始めた。

「私はココアね。ジークヴァルトさまは何か飲み物は?」

「私はコーヒーをもらおう」



 部屋の中央にある来客用のテーブルに、ジークヴァルトは座った。ザムエルも座っていた席だ。

 その斜め前に、コートを脱いだイレーネも座って一息をついた。

「最近、お見かけしませんでしたけど、お城の方にでも用事でしたの?」

 世間話のようにイレーネはそう水を向けた。

 ジークヴァルトは、どうとでも取れる曖昧な笑みを浮かべて頷くだけである。イレーネは、父であるザムエルと一緒に、皇帝派との政争に忙しいのだろうと勝手に判断をつけた。そうだとすれば、自分が本当の事を教えてもらえることは希である。



 ジークヴァルトは、皇家の血を引いている。

 ザムエルは、アハメド1世の父、イクバル5世を本当に尊敬している。実際に名君であったという話もあるが、何よりも、ビンデバルド宗家から出た女性を皇后とした最後の皇帝であるからだ。そのイクバル5世の姉、シャリーファがジークヴァルトの曾祖母である。シャリーファの息子、そのまた息子と、どちらもビンデバルド宗家の女性と結婚し、絆を強めてきた。

 そのため、ジークヴァルトの父までは、ぎりぎり皇位継承権を持っており、アル・ガーミディ皇家の独特の名前も持っていた。

 アル・ガーミディ皇家の「アハメド」や、「イヴティサーム」は、地獣人フルフィの名前だという訳ではない。これは、れっきとした、神々の世界に通じる名前なのである。

 ……かつて、カイ・ラーの海に沈んだ巨大な大陸があったという。

 その名はミヌー。

 そのミヌー大陸こそが、セターレフ星の人類の発祥地ということは名高い。

 その人類の発祥地、ミヌー大陸には、人間とともに神々が住んでいた。その神々こそが、ミトラ十二神である。

 ミトラ十二神と、ミヌーの女性が交わって、生まれたのがアル・ガーミディ皇家。そのため、皇家はミトラ神話に出てくる神々や精霊の名前をその名にいただくことになるのである。そして、これらの名前は法則性があり、風精人ウィンディの貴族とはいえ、うかつに使用していい名前ではなかった。



 ジークヴァルトの父は、その、アル・ガーミディの名前を実際に、アハメド1世に認められて名付けられたという事である。だが、ジークヴァルトの代になると、完全に、アル・ガーミディの血は薄れ、ビンデバルド宗家の人間とみられるようになった。そのため、ジークヴァルトは本来なら、アル・ガーミディ皇家の一員として認められたという、ミヌーの名前を持つ事は出来なかった。はずだった。

 そのことを悲しんだジークヴァルトの父ザーヒルは、皇家に断らずに極秘でジークヴァルトにミヌーの名前を与えた。それが、ジャスィーム・ディルガームである。

 ビンデバルド宗家の血が濃く、皇家の血も引いていた父ザーヒルは、ザムエル同様に、自分たちが権力の座に返り咲く事を夢見ていたのだ。その夢はかなわず暗殺されることになったが。



 事の発端は、ミヌーの名前を持つ、バヒーラ・マルジャーナ……ヴィー姫の両親、風精人ウィンディのキュヒラー侯爵の暗殺である。皇帝派の勢いをそぐために、実際に、ビンデバルド宗家とザーヒルが仕掛けた暗殺事件だったのだが、当然ながら、皇家は即座に反撃した。キュヒラー侯爵の死亡が確認されてわずか一ヶ月後に、ザーヒルとそのビンデバルドの妻は不審死を遂げる。証拠は何も残っていなかったが、状況からいって、皇帝の怒りを買ったため、両親は惨殺されたという事にしか思えなかった。

 それが約十年前……ジークヴァルトが十五歳の時の出来事である。その後、彼は、ビンデバルド宗家の屋敷に引き取られ、ザムエルの期待と愛情を受け、貴公子として育てられたのであった。

 ジークヴァルトが十五歳の時、イレーネと同期のヴィー達は10歳である。



「イレーネは最近、何をしていたのです?」

「私は……お兄様からいただいた本を読んでいましたわ」

 ジークヴァルトからの質問に、イレーネは内心どぎまぎしながらそう答えた。

 イレーネが最近読んでいる、魔法書や、呪術書の類は、帝国学院の大学院から帰ってこない、長兄エックハルトからもらった本なのである。

「エックハルトは、大学院に詰めたきり?」

 エックハルトはジークヴァルトより二歳ほど年下だ。だが、本来なら、ビンデバルド宗家の嫡男で、しっかりと、妹たちを監督し、ザムエルの支えにならなければならないはずである。だが、大学院に進んでからは、ほとんど研究室にこもりきりになり、滅多に宗家にも帰ってこない状態であった。

「そうです。……たまに帰ってくると、お兄様の書斎の高価な魔法書を、私にくれますわ。どうやら、本当に、機械工学? とやらの虜になってらっしゃるみたい」

「メカニズムは大事ですよ、イレーネ。今までの魔法に偏った文明が、より明るく理性的になるよい方法です」

 兄についてうんざりしたような表情を見せるイレーネを、ジークヴァルトは笑ってたしなめた。

 魔法の大家でもあるビンデバルドに生まれた以上、エックハルトにも優れた魔法の才能はある。だが、それはうっちゃって、メカや工学といった、イレーネにはよくわからない力に魅せられて、大学院から帰ってこないのだ。一体、何の研究をしているのか、イレーネには謎だが、ジークヴァルトから見ると面白い事だらけである事は、知っている。

(やっぱり、男は男同士ということかしらね……エックハルトお兄様は、お父様達には評判は悪いけど、ジークヴァルトさまからは好かれているみたい)

 何はともあれ、院生の読む高額な魔法書がぽんぽん手に入るのはありがたいことなので、イレーネはそれ以上、エックハルトの悪口を言うのはやめておいた。



「失礼します」

 そのとき、お茶の用意をしたバルバラが、盆にカップとマカロンなどをそろえて持ってきた。

「あら、遅かったわね。ジークヴァルトさまに、お茶をお出ししたら、下がっていいわよ」

 イレーネは遠慮なくそう言った。

 バルバラはまず、イレーネに近づいていって、そばのテーブルにココアのカップとマカロンを並べた皿を置いた。その際に、軽く会釈をしていった。

「そういえば、大学の頃に教わった魔法とお兄様の本に似たような記述が。ちょっと面白いんですけど……」

 イレーネはジークヴァルトを退屈させまいと、流ちょうに魔法の小話を始める。

 ジークヴァルトはにこやかな笑顔でそれを聞いている。

 バルバラはイレーネのそばからジークヴァルトの方に接近していき、何気ない静かな所作で、コーヒーのカップを、ジークヴァルトのテーブルに置こうとした。

 そのとき。



 ジークヴァルトがバルバラの胸に手刀をたたき込んだ。

 ……ように見えた。



「!?」

 驚いて、咄嗟の事にイレーネは声も出ない。

 ジークヴァルトが実際に撃ち放ったのは手刀ではない。手を依り代にした風の魔法のナイフである。簡単に言うと自由自在に操れる真空かまいたちの刃だ。

 ジークヴァルトの手が離れた時、バルバラの胸元は明らかになった。

 二つの胸パッドが床に落ちる。



 切り裂かれたメイドの制服と、簡素なブラジャーの下から現れたのは、真っ平らな胸であった。

 そこには、女性を示すものは何もなかった。



「おっ……」

 男!?

 そう叫びかけて、イレーネは口をつぐむ。



「なぜ、男がメイドの姿をして、イレーネの部屋にいる? 貴様、賊か?」

 ジークヴァルトは今までの優しく甘い笑顔を捨てて、誰をも圧倒する迫力でバルバラに迫った。バルバラは無言でジークヴァルトから飛び退こうとしたが、ジークヴァルトはあっさりとバルバラの右腕をつかんでひねりあげ、何も言わずに強い眼光をバルバラに当てた。



 側仕えの他のメイド達が騒然とし始めた。

「お黙りなさい!」

 てんで勝手に悲鳴をあげたり興奮した声を立てるメイド達を一喝し、イレーネは彼女達の方に歩いて行った。

「今、ここで見た事を話したらただじゃおかないわよ。禁止よ。皆、部屋の外に出て。用事があったらこちらから呼ぶわ!!」

 自分の身の回りの世話をしていたメイドが実は男!

 そんな噂が広まっただけでも、イレーネには大ダメージであり、イレーネのダメージということはビンデバルド宗家の醜聞ということになってしまう。イレーネの剣幕に、メイド達は皆、顔面蒼白になり、次々と彼女の部屋を出て行った。イレーネは、自分の部屋の内鍵をかけると、さらに、それが解除出来ないように、錠前の魔法と呼ばれる鍵が開かない魔法を二重にかけておいた。



 それからテーブルの方に戻ると、ジークヴァルトはまだ、バルバラの腕をひねりあげ、低い声で何やら命令しているようだった。

 イレーネは、ジークヴァルトの後ろから、バルバラに話しかけた。

「バルバラ、あなた、元男爵のヴェンデルに身元を保証されていたわね。そちらに連絡を取るけど、かまわないわね?」

「……!」

 イレーネの言った事は至極当然のことである。イレーネは、ヴェンデルが、バルバラの正体を知っているかどうかだけが気になった訳だが。



「質問に答えろ、賊。貴様の正体と目的はなんだ?」

 ジークヴァルトも鋭くそのことを繰り返す。



「…………」

 追い詰められたバルバラは、観念したように、一瞬、目を閉じると、口の中で何事かを呟いた。

 途端に、金褐色のまとめ髪がほどけて、滝のように背中に滑り落ちた。鋭いライムグリーンの色合いの目も変色し、元の暗い青の目に戻る。金褐色の髪は燃えるような赤毛に、目は碧眼に……。

 それだけで、背の高いメイドだった人間の正体がはっきりした。



「あなた、ヴェンデル!?」



 髪と目の色のカラーリングが変わっただけで、人の印象はこんなに違うものか。イレーネは、驚き、呆れて、そのまま物も言えなくなった。ただしげしげと、バルバラであったヴェンデルの姿を頭の先から足の先まで見直すばかりである。相当無遠慮な目つきであることは、自分でもわかったが、止める事が出来ない。



「ヴェンデル……元男爵のヴェンデル本人か?」

 ジークヴァルトは、彼の名前だけは知っていたらしい。そう尋ねると、ヴェンデルは素直に無言で頷いた。今更、隠しようがないからなのだろう。



「間違いないわ。ヴェンデル・フォン・ビンデバルド本人よ。子どもの頃に、エックハルトお兄様に初等錬金術を教えに週に一回、屋敷を訪れていたの」

 イレーネはジークヴァルトにそう教えた。初等錬金術を教えていた頃、というのは、まだエックハルトが帝国学院の幼等部の頃だ。ジークヴァルトはまだ宗家の屋敷に来ていない。



「なるほど、間違いないんだな。それで、そのヴェンデルがなぜ、イレーネの部屋に忍び込んでいる?」

 ジークヴァルトは腕をひねる力をやや緩めてそう詰問した。

 ヴェンデルは、ややためらったようだったが、ジークヴァルトの存在の事は知っているのだろう。諦めたように、話し始めた。



「宗家に命じられた、アスラン暗殺のためだ……」



「??」

 イレーネは目を白黒させた。

 アスラン暗殺のために、何で30代の男がメイド服を着て、自分の部屋でお茶くみをしているのだ。全くもって訳がわからない。



「お前は気が狂っているのか?」

 ジークヴァルトまでがそう言った。



「俺は正気だ」

 メイドのワンピース姿のまま憮然としてヴェンデルはそう答えた。



「それなら、何故?」

 イレーネは再び尋ねた。

「アスランの弱点が、女性だからです。お嬢様」

 丁寧な言葉遣いになってヴェンデルはそう答えた。



「弱点」

 ジークヴァルトはおうむ返しにした。だが、それを聞いただけで、彼は納得出来る部分もあるようだった。ジークヴァルトも、アル・ガーミディの血を引き、帝城を出入りする事も多い。そのため、アスランとは直接の知り合いでもある。それで、彼が非常に女にもてる事は知っていた。それで、女を使って……。



「奴は本当に、女にモテます。そして、女達に愛想がいい。だから、アスランを仕留めるためには女で油断させるのが最善の策でしょう」

 ヴェンデルは至極真面目にそう言った。

「それでどうしてヴェンデルが、女の格好になってるのよ!?」

 イレーネは、思わず声を張り上げて、それから慌てて口を押さえて咳払いをした。大声を上げた事によって、恐らく廊下に固まっているだろう、メイド達を動揺させてはいけないと思ったのだ。



「……人の手を借りれば、それだけ成功率が落ちます。まして、女性は、アスランより弱いのが当たり前」

「そ、それはそうだろうけど……」

「俺の手で確実にアスランを仕留めるためにはこの方法が最善と判断しましたが、完全に女性になりきるには、ツメが甘いと思ったので、ここでメイドの所作を観察していました」

 一回、諦めがつくと、ヴェンデルは滑らかに自分の状況を説明した。

 あまりのことに、イレーネは二の句がつげなかった。確かに、アスランは魔王を倒した英雄。そこらの女性に隙を見せてくれる訳ではないだろう。仮に隙があったとして、女性の腕力体力で、アスランを倒せる訳がない。確実性に欠けるので、ヴェンデル自ら女装をしてアスランを仕留めようという訳か。



「……なるほど、そういうわけか!」

 そのとき、呆気にとられているイレーネの脇で、ジークヴァルトが大爆笑をした。滅多にない事だった。品のよい貴公子である彼は、笑うにしてもどこか作り物めいた、腹に一物あるような笑い方しかしないのだが、このときばかりは本当におかしそうだった。

 おかしそうだったし、ジークヴァルトは、女装のヴェンデルに値踏みするような視線を向けて、実に面白そうに彼に目配せをした。

「自信はあるのか、ヴェンデルとやら。宗家の命令と言う事で、引き受けたのだろうが、絶対に、アスランを仕留める事が出来るか?」



「……五分五分です」

 正直な事に、ヴェンデルはそう答えた。こういう場面では、必ずなしとげるとか絶対に出来る、以外の言葉は出ないはずなのだが、ヴェンデルはそう言った。それが余計に、ジークヴァルトの気に入ったようだった。



「どこに不安要素がある?」

「俺の腕では、暴力沙汰になった場合、アスランは仕留められません。あくまで罠を張って毒を飲ませる事で、計画は完成します。しかし、既に一回、女に持たせた皿をアスランは回避しました。警備が硬い。そこを女装を利用しても、かいくぐるのは至難の業です」

 わかりきったことではあったが、ジークヴァルトは、顔を撫でて考え込んだ。ジグマリンゲン家だってバカではないのだ。まして、今は、皇女イヴと、アスランの縁談が浮かんでいる。皇家は、ジグマリンゲン家の武力と忠誠を吸収したいに違いなく、アスランだって皇帝の後ろ盾とガードは欲しいだろう。

 そこを、どうやら錬金術師らしい、ヴェンデル一人で計画を練って実行しようというのかというと、そこは少し心許ない気がした。



「ねえ、それって、ハニートラップっていうのよね?」

 そのとき、イレーネが、こめかみに指を当てながら、本で読んだ知識を披露した。

「イレーネ、そんな俗な言葉を使っては……」

 ジークヴァルトがたしなめると、イレーネは不思議そうな顔をする。

「あら、だって、そういうのでしょ。男の人を籠絡して、作戦を実行するんだわ。私、小説の中だけでなく、歴史の本で読んだ事あってよ」

 イレーネの方も、女装して、さらにメイド修行してまで、宗家のために作戦を実行しようとしているヴェンデルに、動かされた事はあったらしかった。ビンデバルド宗家の長女は、胸元を隠しながらも毅然として立っているヴェンデルの方に向き直り、何事か考え込んでいる。



「イレーネ? 何か、思いついた事があるのか?」

 ジークヴァルトは優しさを装った声音でそう言った。
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