11 / 38
第三章
第三章 潺、皓月堂に集う《一》
しおりを挟む
朝の支度に活気づく町内を抜け、大丸屋裏の細い路地に入る。
しばらく進むと、朱塗りの壁が見えてきた。
「陽の下で見ると、やはり派手だな」
魔除けになる、と皓月は気に入っているようだ。六年が経った今も、変わっていない。
「少しばかり、色が褪せたか」
壁に、すぃと指を滑らせる。漆喰も所々痛んでいる。掛かる看板も年季が入って、文字がようやく読み取れるかどうかだ。
客の少ない店だから、銭の入りを考えると修繕も後回しになるのだろう。
(この御役目を終えたら、直してやるか)
などと考えていると、店の中から声が聞こえてきた。
「もう大丈夫だから、朝餉は私が作ります。皓月さんは休んでいて」
「いやいや、お鴇ちゃん。もう少し、休んでいなよ。でなきゃ、俺が善次郎様に叱られちまう」
善次郎は咄嗟に店の戸を開けた。二人の声がする、台所に向かう。
「こんなにお世話になったのに。お礼の一つもできなきゃ、私が兄ちゃんに叱られるもの」
「今より調子が戻ったら、お願いするよ。だから、休んでおいでな」
「元気になったの! だから、お願い。動いていないと、体が鈍っちゃう」
お鴇が皓月の手から前掛けを奪おうと、詰め寄っている。
二人のやり取りを遠巻きに眺めていた善次郎は、笑みを漏らした。
「善次郎様、お帰りなせぇまし」
善次郎に気付いた皓月が、困り顔で振り返る。善次郎の姿に気付いたお鴇が、はっとした顔で、前掛けから手を離した。
「お鴇は随分な働き者だな。気持ちは有難く受け取るが、もう少し、休みなさい。まだ目が潤んでおる」
お鴇に歩み寄り、頬に手を添える。羸瘦の浮かぶ瞳を覗き込むと、お鴇の頬が、じんわり熱を持った。
(昨夜は指の先まで冷えていたが、熱は充分、戻ったようだ)
安堵する善次郎の顔を、お鴇が何も言わず見詰め返す。頬が熱を増すのに気が付いて、善次郎は慌てて手を引いた。
「これは、すまぬ。不躾であったな。儂や皓月に遠慮は要らぬ。しっかり休んで元気を取り戻しなさい。でなければ、其方の兄上に申し訳が立たぬ。無理は、してくれるな」
俯いたお鴇が、こくりと小さく頷いた。
「善次郎様が、そう言ってくださるなら……。休んで、います」
胸に当てた小さな手が、きゅっと袂を握った。
(強情なのか、律儀なのか。いずれにしても、休んでいられる質でも、なさそうだな)
ふぃと隣の皓月を振り返る。同じように思っているらしく、眉を下げて笑う。
「では、お鴇。昨晩、其方が持ってきた道具の話をしてくれるか。走り回ってまで、皓月を探していたのだ。火急の要件なのだろう。朝餉は、その後にせぬか」
ぱっと表情を明るくして、お鴇が顔を上げた。
「先に、聞いてもらえるんですか? 善次郎様、お腹が空きませんか?」
「気にするな。朝も、まだ早い。儂も外から戻ったばかり故、茶でも飲んで落ち着きたい」
「じゃぁ私、お茶を淹れてきますね」
嬉しそうな顔で、お鴇が台所に入っていった。
「働き者で、気立ての良い娘だ」
ぽそりと零す。善次郎の呟きを、しっかり聞き取った皓月が、にやりと笑う。一目見て、皓月の思惑を察した善次郎は、顔を背けて居間に歩き出した。
「他意は一切ないぞ。思った通りを言ったまでだ。それより、あれから道具に何か、変わりはあったか」
「特に何もございやせん。静かなもんです。お鴇から離しておけば、ですがね」
皓月の表情が一変して、真剣さを帯びた。
「やはり、話を聞くのが、先だな」
顎に手を当て、善次郎は思案する。
「しかし、本当によろしいので? 大事な御役目もございます。今朝も早速、福徳稲荷に参られたのでしょう」
「このまま放り出す訳には、ゆくまい。皓月に任せると言っても、此度の御役目には、お主の力も肝要だ。ならば、お鴇の件も二人で片を付けるのが、最も早い」
顔を緩めて、皓月が笑みを零した。
「善次郎様は、相変わらずで。そういうところは、宇八郎に、そっくりですよ」
皓月が、はっと顔を上げる。困り顔で、善次郎に頭を下げた。
「すみません。余計な話を致しやした」
平素は、宇八郎の名を滅多に口にしない皓月だ。善次郎への気遣いであり、自身の心に打った楔でも、あるのだろう。
(儂より皓月のほうが、痛癢が大きいのかも、しれぬ)
昨晩の死霊は、善次郎が思う以上に皓月の心を蝕んでいるのかもしれない。
「お主に似ていると言われるのは、素直に嬉しい。兄上は儂の誇りであり、道標だ。だが、此度は一度、この想いを捨てるべきであろうな」
皓月に向けた警告であり、自身に課した戒めのつもりだった。
「わかっておりやす。俺の成すべきことも、善次郎様のお気持ちも。ちゃんとわかって、おりやすので」
いつもより声が重い。細めた目に、影が帯びて見える。
皓月の心の奥底に澱む別の何かを、善次郎は感じ始めていた。
しばらく進むと、朱塗りの壁が見えてきた。
「陽の下で見ると、やはり派手だな」
魔除けになる、と皓月は気に入っているようだ。六年が経った今も、変わっていない。
「少しばかり、色が褪せたか」
壁に、すぃと指を滑らせる。漆喰も所々痛んでいる。掛かる看板も年季が入って、文字がようやく読み取れるかどうかだ。
客の少ない店だから、銭の入りを考えると修繕も後回しになるのだろう。
(この御役目を終えたら、直してやるか)
などと考えていると、店の中から声が聞こえてきた。
「もう大丈夫だから、朝餉は私が作ります。皓月さんは休んでいて」
「いやいや、お鴇ちゃん。もう少し、休んでいなよ。でなきゃ、俺が善次郎様に叱られちまう」
善次郎は咄嗟に店の戸を開けた。二人の声がする、台所に向かう。
「こんなにお世話になったのに。お礼の一つもできなきゃ、私が兄ちゃんに叱られるもの」
「今より調子が戻ったら、お願いするよ。だから、休んでおいでな」
「元気になったの! だから、お願い。動いていないと、体が鈍っちゃう」
お鴇が皓月の手から前掛けを奪おうと、詰め寄っている。
二人のやり取りを遠巻きに眺めていた善次郎は、笑みを漏らした。
「善次郎様、お帰りなせぇまし」
善次郎に気付いた皓月が、困り顔で振り返る。善次郎の姿に気付いたお鴇が、はっとした顔で、前掛けから手を離した。
「お鴇は随分な働き者だな。気持ちは有難く受け取るが、もう少し、休みなさい。まだ目が潤んでおる」
お鴇に歩み寄り、頬に手を添える。羸瘦の浮かぶ瞳を覗き込むと、お鴇の頬が、じんわり熱を持った。
(昨夜は指の先まで冷えていたが、熱は充分、戻ったようだ)
安堵する善次郎の顔を、お鴇が何も言わず見詰め返す。頬が熱を増すのに気が付いて、善次郎は慌てて手を引いた。
「これは、すまぬ。不躾であったな。儂や皓月に遠慮は要らぬ。しっかり休んで元気を取り戻しなさい。でなければ、其方の兄上に申し訳が立たぬ。無理は、してくれるな」
俯いたお鴇が、こくりと小さく頷いた。
「善次郎様が、そう言ってくださるなら……。休んで、います」
胸に当てた小さな手が、きゅっと袂を握った。
(強情なのか、律儀なのか。いずれにしても、休んでいられる質でも、なさそうだな)
ふぃと隣の皓月を振り返る。同じように思っているらしく、眉を下げて笑う。
「では、お鴇。昨晩、其方が持ってきた道具の話をしてくれるか。走り回ってまで、皓月を探していたのだ。火急の要件なのだろう。朝餉は、その後にせぬか」
ぱっと表情を明るくして、お鴇が顔を上げた。
「先に、聞いてもらえるんですか? 善次郎様、お腹が空きませんか?」
「気にするな。朝も、まだ早い。儂も外から戻ったばかり故、茶でも飲んで落ち着きたい」
「じゃぁ私、お茶を淹れてきますね」
嬉しそうな顔で、お鴇が台所に入っていった。
「働き者で、気立ての良い娘だ」
ぽそりと零す。善次郎の呟きを、しっかり聞き取った皓月が、にやりと笑う。一目見て、皓月の思惑を察した善次郎は、顔を背けて居間に歩き出した。
「他意は一切ないぞ。思った通りを言ったまでだ。それより、あれから道具に何か、変わりはあったか」
「特に何もございやせん。静かなもんです。お鴇から離しておけば、ですがね」
皓月の表情が一変して、真剣さを帯びた。
「やはり、話を聞くのが、先だな」
顎に手を当て、善次郎は思案する。
「しかし、本当によろしいので? 大事な御役目もございます。今朝も早速、福徳稲荷に参られたのでしょう」
「このまま放り出す訳には、ゆくまい。皓月に任せると言っても、此度の御役目には、お主の力も肝要だ。ならば、お鴇の件も二人で片を付けるのが、最も早い」
顔を緩めて、皓月が笑みを零した。
「善次郎様は、相変わらずで。そういうところは、宇八郎に、そっくりですよ」
皓月が、はっと顔を上げる。困り顔で、善次郎に頭を下げた。
「すみません。余計な話を致しやした」
平素は、宇八郎の名を滅多に口にしない皓月だ。善次郎への気遣いであり、自身の心に打った楔でも、あるのだろう。
(儂より皓月のほうが、痛癢が大きいのかも、しれぬ)
昨晩の死霊は、善次郎が思う以上に皓月の心を蝕んでいるのかもしれない。
「お主に似ていると言われるのは、素直に嬉しい。兄上は儂の誇りであり、道標だ。だが、此度は一度、この想いを捨てるべきであろうな」
皓月に向けた警告であり、自身に課した戒めのつもりだった。
「わかっておりやす。俺の成すべきことも、善次郎様のお気持ちも。ちゃんとわかって、おりやすので」
いつもより声が重い。細めた目に、影が帯びて見える。
皓月の心の奥底に澱む別の何かを、善次郎は感じ始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ト・カ・リ・ナ〜時を止めるアイテムを手にしたら気になる彼女と距離が近くなった件〜
遊馬友仁
青春
高校二年生の坂井夏生(さかいなつき)は、十七歳の誕生日に、亡くなった祖父からの贈り物だという不思議な木製のオカリナを譲り受ける。試しに自室で息を吹き込むと、周囲のヒトやモノがすべて動きを止めてしまった!
木製細工の能力に不安を感じながらも、夏生は、その能力の使い途を思いつく……。
「そうだ!教室の前の席に座っている、いつも、マスクを外さない小嶋夏海(こじまなつみ)の素顔を見てやろう」
そうして、自身のアイデアを実行に映した夏生であったがーーーーーー。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』
藍舟めいな
歴史・時代
捨てられた道具に命を吹き込め。算盤娘と天才職人が贈る、痛快再生譚!
大坂の商才 × 長崎の技術 × 庄内の祈り。
神田お玉が池の古道具屋『藍凪屋(あいなぎや)』、本日開店。
文化十四年、江戸。 泥にまみれ、捨てられたガラクタを、異国の技で「勝色(かちいろ)」へと蘇らせる天才職人・徳三。 その価値を冷徹に見抜き、江戸の「粋」へとプロデュースする算盤娘・おめい。
吹き溜まりの裏長屋から、二人の「余所者」が江戸の価値観をひっくり返す! 捨てられた道具に新しい命を吹き込み、絶たれた「縁」を再び結ぶ、再生の物語。
「うちが売ってるんは物やなくて、職人の執念と、それを持つ人の『格』なんですわ」
どん底から江戸の頂点を目指す、痛快・職人再生サクセスストーリー!
※カクヨムで先読み可能です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる