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第四章
第四章 怨霊の、正体見たり《九》
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昼と夜の間、薄暮は逢魔時ともいい、不思議なものに出会いやすい。そういうものは、人の心の隙に入り込む。
或いは、心に隙ができやすい刻、なのかもしれない。陽の光も月の灯もない間は、見えるはずのものが見えにくくなる。
(儂が飲まれて、どうする。いや、邪は、誰の心にも、あるものだ。制する心こそが、肝要だ)
皓月堂の奥の庭に二人が立った時には、薄闇の空に鋭い三日月が、浮かんでいた。
「長七に、助けられましたね」
振り返った皓月、いや、木村卯之助は、その手に真剣を携えていた。
「出雲守様に真実を打ち明けられた程度で心を乱していては、心剣など扱えますまい」
「お主は総て、知っておったのか」
卯之助は答えなかった。代わりに、手にした刀を抜いた。
「心剣を開くには、実践あるのみ。どちらかが死ぬ顛末を招いても、やむを得ませぬ。善次郎様が心剣を開かねば、どのみち怨霊は討てませぬ」
卯之助が青眼に構える。
「俺を殺す気で、刀を抜きなさい。覚悟は、よろしいか」
全身に澱みなく流れる静かな殺気に、圧倒される。
善次郎が師範代であった卯之助に剣を習っていたのは、稽古場に通い始めたばかりの童の時分の、僅かな時だ。それからすぐ、卯之助は、稽古場から姿を消した。
(あれから十年以上は経つに、全く衰えておらぬ)
卯之助から放たれる殺気が、肌に刺さる。全身が総毛立った。
(木村卯之助の魄力。本気の、眼だ)
卯之助は、善次郎を斬る気で、刀を構えている。
息を飲んで、善次郎も刀を抜いた。切っ先が、弱い月明かりを受けて鈍く光る。
互いに青眼に構えた二人が、向かい合う。
卯之助も善次郎も、微動だにしない。
張り詰めた庭の、風が止まる。
(斬り込む隙がない)
静かに立つ卯之助の、どこに斬り込んでも、止められる。善次郎は動けなかった。
たらり、と首筋に汗が流れた。
柄を握る手が震え、切っ先が揺れた。刹那、卯之助が動いた。
体の大きさを感じさせない速さで卯之助が、善次郎の右に回り込んだ。飛び退け、薙ぎ払う刀を、寸前で避ける。
着地した左足を軸に地面を蹴り、一足で真正面に飛び込む。
上段に構えた卯之助の真ん前で、膝を深く曲げ、体を下げる。読んでいたとばかりに、卯之助の刀が振り下ろされた。左に避ける善次郎を追って、刀が横薙ぎに軌道を変えた。
「しまった……!」
体が傾いたまま、咄嗟に後ろに飛び退いた。が、卯之助の刀が速かった。切っ先が善次郎の頬を掠める。
寸で逃げ遂せたが、頬には、だらりと血が流れた。乱れた息を整えつつ、構える。
善次郎を待たず、卯之助が飛び込んだ。正面に迫る刀を避ける。善次郎は、大きく左に回り、横薙ぎを放つ。
卯之助が、大仰に反対側に飛び退いた。
(なんだ、今の動きは)
些かの違和を覚えながら、善次郎は構え直す。卯之助は体を傾けると、胸の前で刀を平に構えた。
(何かが、違う。形を変えたか。いや、違う)
善次郎はわざと大回りに、卯之助の右に回り込んだ。卯之助が体ごと、善次郎の動きを追う。
(やはり、ここが穴だ)
卯之助の右から後方へ回り込む。振り向きかけた右胴に詰める。間髪入れずに横に薙いだ。
逃げそびれた卯之助の、動きが止まる。
善次郎の刀は、卯之助の右胴に吸い付いて、ぴたりと、止まっていた。
「わざと刀を止めましたか。御見事」
刀が、かたかたと揺れる。柄を握る手と腕に力が入り過ぎて、せわしなく震える。
薙ぎ払うつもりで放った刀を寸で止めたせいで、腕が痺れていた。
「お主を斬って、何の益がある。斯様な始末で、心剣が開けるものか。煽りが、下手だったな、皓月」
口端に笑みが浮かんだ。まるで皓月の癖を真似したような顔になったと、自分でも思った。
ゆっくりと刀を引く。卯之助の体から力が抜け、構えた腕を、静かに下ろした。
「ご自身の刀を、御覧なさい」
善次郎の眼が握った刀剣に向く。刀身が白い光を淡く放っていた。
(刀が手に吸い付くようだ。まるで、腕の延長のように感じる)
長七の鏝裁きとは違うが、似たものを感じる。何より、この感じには、覚えがあった。
(林の中で狛犬の妖を斬った、あの時。刹那であったが、今と同じ感があった)
気を集中し、刀に力を籠める。淡い光は白さを増して輝いた。確かな手応えが、善次郎の中に湧き上がった。
善次郎の姿を見ていた卯之助が、ふっと笑みを零した。
「理屈以前に、善次郎様は、既に心剣を開いていらしたのです。足りなかったのは、覚悟。それを引き出すために、俺も久方振りに本気で刀を取りました」
卯之助が刀を納める。善次郎は、どかどかと大股で卯之助に歩み寄った。胸があたるほどに間合いを詰め、顔を見詰める。
「今のを、本気と申すか。ならば、答えろ。その右目は、いつから見えぬ。何故、今まで黙っていた」
詰め寄り、睨み据える。びくりと肩を揺らした皓月が、諦めた顔で息を吐いた。
「全く見えぬわけでは、ございません。光は感じますが、像がぼやけて二重に見える。ですが、手抜きなど一切、しておりません。本気でございました」
卯之助の右目を見つめる。よく見れば、黒目が大きく開いていた。
言葉もなく、善次郎は卯之助から、身を離した。ゆっくりと、刀を納める。
奥庭に、風が戻った。
すっかり殺気を消した二人は、無言のまま、縁側に腰を下ろした。
気が付けば辺りは薄暗く、細い三日月が心許ない光で、庭を照らしている。
卯之助は、夜空に掠れる月を見上げた。
「もう、十年以上前の話です。稽古場で宇八郎と仕合った時、奴の木刀の先が俺の右目を突いた。それから、この右目は、まともに見えません」
あまりに穏やかに話す卯之助に、善次郎は息巻いた。
「何故、剣を捨てた。隻眼の剣士など、これまでに数多おったではないか」
「同じように、宇八郎にも叱咤されました。剣の道に残る術は、あったのでしょう。あの時、俺が失ったのは右目じゃぁ、なかった。剣の道を歩み続ける気概です。田安家指南役、西脇新陰流の看板も、木村佐左衛門の名も、俺には重すぎました」
善治郎は言葉を失い、口を閉じた。
比類なき剣士と謳われ、木村佐左衛門の名を継ぐと、誰もが疑わなかった。本人すら、そう思っていたはずだ。当時の卯之助の胸中を思うと、何も言えなかった。
卯之助が、右目に手を当てる。
「剣を交えれば、起こりうる事故だ。俺の胸の内には、あの時、確かに色んな思いがありました。だが、宇八郎を恨んでなど、いなかった。むしろ宇八郎が気に病んでおりましてね。だから、潺ができたのですよ」
その顔に悲愴はなく、むしろ懐かしんでいる表情だ。
「この潺が、宇八郎の作った間諜であると、善次郎様はもう、お気づきでしょうな」
善次郎は、無言で頷く。
「生きる道を失った俺のために、宇八郎は潺を作った。ですが、恐らく、それだけじゃぁない。今にして思えば、善次郎様のためだと思います」
「どういう、ことだ」
宇八郎が生きていれば、善次郎が明楽家の四代目を継ぎは、しなかった。善次郎を慮る必用など、なかったはずだ。
「善次郎様と違い、宇八郎は、心剣を開けませんでした。獅子に襲われた時、心剣を使えていれば、死にはしなかったかも知れません」
善次郎は息を飲んだ。あの優秀な兄が、心剣を開けなかったなど、信じられない。
「その代わりと言っていいものか、わかりませぬが。宇八郎には特異な力が備わっておりましてね。少し先の未来を察知する術を、持っていたのです」
暗い空を見上げて話していた卯之助が、善次郎を振り向いた。
「自分が道半ばで死ぬ顛末に気付いたからこそ、善次郎様のために潺を残した。あの歳で妻を娶らず、子を儲けなかったのも、そのためやもしれません」
「儂に、家督を譲るために、か」
卯之助が、頷く。
「総ては、明楽家を守るために。宇八郎が選んだ道です」
善次郎は黙って、卯之助を見つめる。
「それに宇八郎は、潺を間諜として滅多に使わなかった。仕事がない時分など、皓月堂に入り浸っては俺たちと飲み明かし、話に耽った。その時、決まって出る言葉が、善次郎を頼む、でした」
その姿は、容易に頭に浮かんだ。
兄がどんな気持ちで、それを言ったのか。卯之助の顔が、宇八郎と重なる。どこか悲しげに笑む顔を見ていられずに、善次郎は目を逸らした。
「遠国御用に出た、あの日も。わざわざ俺に念を押しに来た。くれぐれも善次郎の力になってくれ、とね。あれが、宇八郎と最期に交わした、語らいです」
「だからお主は、儂の申し入れを、即答で受け入れたのか」
「そうかも知れませんが。少し、違います」
卯之助の目が、細まる。
「意思を継ぐなんて、大仰なもんでもねぇ。只、善次郎様の、明楽家の行く末を見守りたかった。俺と宇八郎は、まるで兄弟みてぇに毎日一緒に過ごしていましたからね。宇八郎亡き後、善次郎様は、俺の生きる意味でした。だから、もっと頼りにしてほしくってね」
その顔は、木村卯之助ではなく、平生の皓月に戻っていた。
「以前より、充分、頼りにしておる。これからも、それは変わらぬ。お主は、儂が自ら力添えを頼んだ、皓月だ」
じっと、皓月を見詰める。
見開いた目が、穏やかに笑みを灯す。皓月が、いつものように、口端を上げて、笑った。
「俺が諭す前ぇに、長七がしっかり喝を入れてくれやしたからね。俺なんかの剣でも、多少の助けに、なりやしたでしょう」
いつもの笑みが、どこか弱々しい。
「いや、大いに意味があった。長七の喝も有難かったが。皓月と剣を交えて、ようやく感得が湧いた。右目に障礙があっても、お主の剣は一流だ。また手合わせを願いたい。次は昼間に、な」
敢えて薄暮に真剣勝負を促したのは、皓月の右目が、より見えにくい刻を狙ったためだろう。そうでもなければ、皓月の剣は今でも善次郎を遥かに凌ぐ。刀を交えて、改めて身に染みた。
皓月が、自嘲気味に笑む。
「今となっちゃぁ、剣でお役に立てるか、わかりやせん。今も、善次郎様に斬られて死んでも構わねぇと、本気で思って挑みやしたから」
きっ、と、皓月を強く睨む。
「それくらい、わかっておったわ。だから儂は、絶待に斬らぬと、決めておった」
皓月の笑みが、自嘲を消した。微笑みが、和らぐ。
「善次郎様は昔から、お優しい。いつか命取りになるのではと、ずっと憂慮しておりやした。ですが、今は違う。善次郎様の優しさは、強さの根源だ。懸念はもう、ありやせん」
皓月が、また薄い月を見上げる。
「嘉太夫様が封をした力を、善次郎様は自力で抉じ開けた。宇八郎が体得できなかった心剣も、身に付けなすった。明楽家一の秀出した力を操る術を得たのですから」
「何? 父上が、儂の力に封をしたのか?」
耳を疑う善次郎に、皓月が頷く。
「源壽院様の逝去後、怨霊になるのを見越して、嘉太夫様は策を講じられた。宇八郎の二の舞を避けるために。ところが、善次郎様の力を開く前に、嘉太夫様は亡くなられた。これが仇となり、善次郎様は今まで苦労されたんですよ」
「そうで、あったか」
ようやく納得できた。だから今まで、力を持て余すばかりで、操る術が見付からなかったのだ。父の大事な教えを忘れていたのも、そのためだ。
「しかし、切掛がわからぬな。儂が父の教えを思い出したのも、力の扱いに馴染んだのも、此度の御役目を拝してからだ」
顎に手をあて思案する善次郎に、皓月が目を落とす。
「一つ、思い当るとすれば、宇八郎の死霊でしょう」
善次郎が顔を上げる。皓月が目を合わせた。
「嘉太夫様が、どういった仕法で善次郎様の力を封じたかまでは、俺には、わかりやせん。ですが、善次郎様が力を操れるようになったのは、宇八郎の死霊の力が弱まってからです。関りがないとも、思えやせん」
つまり、善次郎が嘉太夫の封を解ききれば、宇八郎の死霊が消えるかもしれない。或いは宇八郎の死霊が消えれば、善次郎の力が完全に開花する見込みがある、という見込みだ。
善次郎と同じ答えが、皓月の頭にも、ある。
互いに、わかっているからこそ、何も言えなくなった。
「源壽院の怨霊が消えれば、兄上は現での役目を終える。皓月の言う通り、覚悟は必用だ。何より、死霊として彷徨い苦しむくらいなら、儂が黄泉へ送るが道理であろうな」
善次郎の声に、迷いはなかった。
「その時は、潺が必ずお供いたしやす。宇八郎の御霊を安寧に送りてぇのは、円空も環も、俺も同じですので」
皓月の声は、凛としていた。以前までの躊躇いも、消えていた。
互いの覚悟を、肌で感じ取る。
薄明の三日月に代わり空を照らす数多の星を、二人は黙ったまま、眺めていた。
或いは、心に隙ができやすい刻、なのかもしれない。陽の光も月の灯もない間は、見えるはずのものが見えにくくなる。
(儂が飲まれて、どうする。いや、邪は、誰の心にも、あるものだ。制する心こそが、肝要だ)
皓月堂の奥の庭に二人が立った時には、薄闇の空に鋭い三日月が、浮かんでいた。
「長七に、助けられましたね」
振り返った皓月、いや、木村卯之助は、その手に真剣を携えていた。
「出雲守様に真実を打ち明けられた程度で心を乱していては、心剣など扱えますまい」
「お主は総て、知っておったのか」
卯之助は答えなかった。代わりに、手にした刀を抜いた。
「心剣を開くには、実践あるのみ。どちらかが死ぬ顛末を招いても、やむを得ませぬ。善次郎様が心剣を開かねば、どのみち怨霊は討てませぬ」
卯之助が青眼に構える。
「俺を殺す気で、刀を抜きなさい。覚悟は、よろしいか」
全身に澱みなく流れる静かな殺気に、圧倒される。
善次郎が師範代であった卯之助に剣を習っていたのは、稽古場に通い始めたばかりの童の時分の、僅かな時だ。それからすぐ、卯之助は、稽古場から姿を消した。
(あれから十年以上は経つに、全く衰えておらぬ)
卯之助から放たれる殺気が、肌に刺さる。全身が総毛立った。
(木村卯之助の魄力。本気の、眼だ)
卯之助は、善次郎を斬る気で、刀を構えている。
息を飲んで、善次郎も刀を抜いた。切っ先が、弱い月明かりを受けて鈍く光る。
互いに青眼に構えた二人が、向かい合う。
卯之助も善次郎も、微動だにしない。
張り詰めた庭の、風が止まる。
(斬り込む隙がない)
静かに立つ卯之助の、どこに斬り込んでも、止められる。善次郎は動けなかった。
たらり、と首筋に汗が流れた。
柄を握る手が震え、切っ先が揺れた。刹那、卯之助が動いた。
体の大きさを感じさせない速さで卯之助が、善次郎の右に回り込んだ。飛び退け、薙ぎ払う刀を、寸前で避ける。
着地した左足を軸に地面を蹴り、一足で真正面に飛び込む。
上段に構えた卯之助の真ん前で、膝を深く曲げ、体を下げる。読んでいたとばかりに、卯之助の刀が振り下ろされた。左に避ける善次郎を追って、刀が横薙ぎに軌道を変えた。
「しまった……!」
体が傾いたまま、咄嗟に後ろに飛び退いた。が、卯之助の刀が速かった。切っ先が善次郎の頬を掠める。
寸で逃げ遂せたが、頬には、だらりと血が流れた。乱れた息を整えつつ、構える。
善次郎を待たず、卯之助が飛び込んだ。正面に迫る刀を避ける。善次郎は、大きく左に回り、横薙ぎを放つ。
卯之助が、大仰に反対側に飛び退いた。
(なんだ、今の動きは)
些かの違和を覚えながら、善次郎は構え直す。卯之助は体を傾けると、胸の前で刀を平に構えた。
(何かが、違う。形を変えたか。いや、違う)
善次郎はわざと大回りに、卯之助の右に回り込んだ。卯之助が体ごと、善次郎の動きを追う。
(やはり、ここが穴だ)
卯之助の右から後方へ回り込む。振り向きかけた右胴に詰める。間髪入れずに横に薙いだ。
逃げそびれた卯之助の、動きが止まる。
善次郎の刀は、卯之助の右胴に吸い付いて、ぴたりと、止まっていた。
「わざと刀を止めましたか。御見事」
刀が、かたかたと揺れる。柄を握る手と腕に力が入り過ぎて、せわしなく震える。
薙ぎ払うつもりで放った刀を寸で止めたせいで、腕が痺れていた。
「お主を斬って、何の益がある。斯様な始末で、心剣が開けるものか。煽りが、下手だったな、皓月」
口端に笑みが浮かんだ。まるで皓月の癖を真似したような顔になったと、自分でも思った。
ゆっくりと刀を引く。卯之助の体から力が抜け、構えた腕を、静かに下ろした。
「ご自身の刀を、御覧なさい」
善次郎の眼が握った刀剣に向く。刀身が白い光を淡く放っていた。
(刀が手に吸い付くようだ。まるで、腕の延長のように感じる)
長七の鏝裁きとは違うが、似たものを感じる。何より、この感じには、覚えがあった。
(林の中で狛犬の妖を斬った、あの時。刹那であったが、今と同じ感があった)
気を集中し、刀に力を籠める。淡い光は白さを増して輝いた。確かな手応えが、善次郎の中に湧き上がった。
善次郎の姿を見ていた卯之助が、ふっと笑みを零した。
「理屈以前に、善次郎様は、既に心剣を開いていらしたのです。足りなかったのは、覚悟。それを引き出すために、俺も久方振りに本気で刀を取りました」
卯之助が刀を納める。善次郎は、どかどかと大股で卯之助に歩み寄った。胸があたるほどに間合いを詰め、顔を見詰める。
「今のを、本気と申すか。ならば、答えろ。その右目は、いつから見えぬ。何故、今まで黙っていた」
詰め寄り、睨み据える。びくりと肩を揺らした皓月が、諦めた顔で息を吐いた。
「全く見えぬわけでは、ございません。光は感じますが、像がぼやけて二重に見える。ですが、手抜きなど一切、しておりません。本気でございました」
卯之助の右目を見つめる。よく見れば、黒目が大きく開いていた。
言葉もなく、善次郎は卯之助から、身を離した。ゆっくりと、刀を納める。
奥庭に、風が戻った。
すっかり殺気を消した二人は、無言のまま、縁側に腰を下ろした。
気が付けば辺りは薄暗く、細い三日月が心許ない光で、庭を照らしている。
卯之助は、夜空に掠れる月を見上げた。
「もう、十年以上前の話です。稽古場で宇八郎と仕合った時、奴の木刀の先が俺の右目を突いた。それから、この右目は、まともに見えません」
あまりに穏やかに話す卯之助に、善次郎は息巻いた。
「何故、剣を捨てた。隻眼の剣士など、これまでに数多おったではないか」
「同じように、宇八郎にも叱咤されました。剣の道に残る術は、あったのでしょう。あの時、俺が失ったのは右目じゃぁ、なかった。剣の道を歩み続ける気概です。田安家指南役、西脇新陰流の看板も、木村佐左衛門の名も、俺には重すぎました」
善治郎は言葉を失い、口を閉じた。
比類なき剣士と謳われ、木村佐左衛門の名を継ぐと、誰もが疑わなかった。本人すら、そう思っていたはずだ。当時の卯之助の胸中を思うと、何も言えなかった。
卯之助が、右目に手を当てる。
「剣を交えれば、起こりうる事故だ。俺の胸の内には、あの時、確かに色んな思いがありました。だが、宇八郎を恨んでなど、いなかった。むしろ宇八郎が気に病んでおりましてね。だから、潺ができたのですよ」
その顔に悲愴はなく、むしろ懐かしんでいる表情だ。
「この潺が、宇八郎の作った間諜であると、善次郎様はもう、お気づきでしょうな」
善次郎は、無言で頷く。
「生きる道を失った俺のために、宇八郎は潺を作った。ですが、恐らく、それだけじゃぁない。今にして思えば、善次郎様のためだと思います」
「どういう、ことだ」
宇八郎が生きていれば、善次郎が明楽家の四代目を継ぎは、しなかった。善次郎を慮る必用など、なかったはずだ。
「善次郎様と違い、宇八郎は、心剣を開けませんでした。獅子に襲われた時、心剣を使えていれば、死にはしなかったかも知れません」
善次郎は息を飲んだ。あの優秀な兄が、心剣を開けなかったなど、信じられない。
「その代わりと言っていいものか、わかりませぬが。宇八郎には特異な力が備わっておりましてね。少し先の未来を察知する術を、持っていたのです」
暗い空を見上げて話していた卯之助が、善次郎を振り向いた。
「自分が道半ばで死ぬ顛末に気付いたからこそ、善次郎様のために潺を残した。あの歳で妻を娶らず、子を儲けなかったのも、そのためやもしれません」
「儂に、家督を譲るために、か」
卯之助が、頷く。
「総ては、明楽家を守るために。宇八郎が選んだ道です」
善次郎は黙って、卯之助を見つめる。
「それに宇八郎は、潺を間諜として滅多に使わなかった。仕事がない時分など、皓月堂に入り浸っては俺たちと飲み明かし、話に耽った。その時、決まって出る言葉が、善次郎を頼む、でした」
その姿は、容易に頭に浮かんだ。
兄がどんな気持ちで、それを言ったのか。卯之助の顔が、宇八郎と重なる。どこか悲しげに笑む顔を見ていられずに、善次郎は目を逸らした。
「遠国御用に出た、あの日も。わざわざ俺に念を押しに来た。くれぐれも善次郎の力になってくれ、とね。あれが、宇八郎と最期に交わした、語らいです」
「だからお主は、儂の申し入れを、即答で受け入れたのか」
「そうかも知れませんが。少し、違います」
卯之助の目が、細まる。
「意思を継ぐなんて、大仰なもんでもねぇ。只、善次郎様の、明楽家の行く末を見守りたかった。俺と宇八郎は、まるで兄弟みてぇに毎日一緒に過ごしていましたからね。宇八郎亡き後、善次郎様は、俺の生きる意味でした。だから、もっと頼りにしてほしくってね」
その顔は、木村卯之助ではなく、平生の皓月に戻っていた。
「以前より、充分、頼りにしておる。これからも、それは変わらぬ。お主は、儂が自ら力添えを頼んだ、皓月だ」
じっと、皓月を見詰める。
見開いた目が、穏やかに笑みを灯す。皓月が、いつものように、口端を上げて、笑った。
「俺が諭す前ぇに、長七がしっかり喝を入れてくれやしたからね。俺なんかの剣でも、多少の助けに、なりやしたでしょう」
いつもの笑みが、どこか弱々しい。
「いや、大いに意味があった。長七の喝も有難かったが。皓月と剣を交えて、ようやく感得が湧いた。右目に障礙があっても、お主の剣は一流だ。また手合わせを願いたい。次は昼間に、な」
敢えて薄暮に真剣勝負を促したのは、皓月の右目が、より見えにくい刻を狙ったためだろう。そうでもなければ、皓月の剣は今でも善次郎を遥かに凌ぐ。刀を交えて、改めて身に染みた。
皓月が、自嘲気味に笑む。
「今となっちゃぁ、剣でお役に立てるか、わかりやせん。今も、善次郎様に斬られて死んでも構わねぇと、本気で思って挑みやしたから」
きっ、と、皓月を強く睨む。
「それくらい、わかっておったわ。だから儂は、絶待に斬らぬと、決めておった」
皓月の笑みが、自嘲を消した。微笑みが、和らぐ。
「善次郎様は昔から、お優しい。いつか命取りになるのではと、ずっと憂慮しておりやした。ですが、今は違う。善次郎様の優しさは、強さの根源だ。懸念はもう、ありやせん」
皓月が、また薄い月を見上げる。
「嘉太夫様が封をした力を、善次郎様は自力で抉じ開けた。宇八郎が体得できなかった心剣も、身に付けなすった。明楽家一の秀出した力を操る術を得たのですから」
「何? 父上が、儂の力に封をしたのか?」
耳を疑う善次郎に、皓月が頷く。
「源壽院様の逝去後、怨霊になるのを見越して、嘉太夫様は策を講じられた。宇八郎の二の舞を避けるために。ところが、善次郎様の力を開く前に、嘉太夫様は亡くなられた。これが仇となり、善次郎様は今まで苦労されたんですよ」
「そうで、あったか」
ようやく納得できた。だから今まで、力を持て余すばかりで、操る術が見付からなかったのだ。父の大事な教えを忘れていたのも、そのためだ。
「しかし、切掛がわからぬな。儂が父の教えを思い出したのも、力の扱いに馴染んだのも、此度の御役目を拝してからだ」
顎に手をあて思案する善次郎に、皓月が目を落とす。
「一つ、思い当るとすれば、宇八郎の死霊でしょう」
善次郎が顔を上げる。皓月が目を合わせた。
「嘉太夫様が、どういった仕法で善次郎様の力を封じたかまでは、俺には、わかりやせん。ですが、善次郎様が力を操れるようになったのは、宇八郎の死霊の力が弱まってからです。関りがないとも、思えやせん」
つまり、善次郎が嘉太夫の封を解ききれば、宇八郎の死霊が消えるかもしれない。或いは宇八郎の死霊が消えれば、善次郎の力が完全に開花する見込みがある、という見込みだ。
善次郎と同じ答えが、皓月の頭にも、ある。
互いに、わかっているからこそ、何も言えなくなった。
「源壽院の怨霊が消えれば、兄上は現での役目を終える。皓月の言う通り、覚悟は必用だ。何より、死霊として彷徨い苦しむくらいなら、儂が黄泉へ送るが道理であろうな」
善次郎の声に、迷いはなかった。
「その時は、潺が必ずお供いたしやす。宇八郎の御霊を安寧に送りてぇのは、円空も環も、俺も同じですので」
皓月の声は、凛としていた。以前までの躊躇いも、消えていた。
互いの覚悟を、肌で感じ取る。
薄明の三日月に代わり空を照らす数多の星を、二人は黙ったまま、眺めていた。
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そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
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