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第四章
第四章 怨霊の、正体見たり《十》
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皆が起き出す前に、善次郎は静かに皓月堂を出た。
白み始めた空には、まだ夜の紺青が残っている。淡い月牙が、薄らと顔を出していた。
福徳稲荷に向かい歩きながら、善次郎は頭の中を整理した。
(三社権現で源壽院を斬れなかったのは、儂の心剣が未熟だったためだ。だが)
荒魂の解合った獅子の核となっていた、福徳稲荷の獅子の御霊。あれを斬れなかった訳が、善次郎の中で、ずっと引っ掛かっていた。
(もう一度、縫殿助殿に会って、確かめねば)
ふと目を上げて、異変に気が付いた。
「ここは、どこだ」
二日前と同じ道を歩いていたつもりが、いつの間にか、細い路地に入っていた。連なる町家を眺めるうちに、思い付いた。
「そうか、うき世小路か」
細い路地の両側に料理屋が立ち並ぶ。短い通りを抜け、右に折れれば、福徳稲荷は目前だが。皓月堂のある通旅籠町から歩くと、かえって遠回りになる。
(考えに耽って間違った、のでは、なさそうだ)
足下を漂う朝靄が、善次郎を誘うが如く、福徳稲荷社に向かって静かに流れる。導かれるままに小路を抜ける。淡靄に包まれた黒木鳥居が、厳かに立っていた。
鳥居の前に立ち、礼をする。
境内に足を踏み入れた刹那、総ての音が消えた。
(初めに参った時と、同じだ。生き物の気が、全くない)
現から切り離された隙間に入り込んだような不気味さは、変わっていない。
「うき世小路は、福徳稲荷の参道でございます。本来なら、あの小路を通るのが、正しい道行き、なのですよ」
振り返ると、微笑を湛えた縫殿助が立っていた。
(気這いを感じなんだ。縫殿助殿も死霊故、違和はないが)
善次郎は振り返り、縫殿助に向き合った。
「そうであったか。初めに来た時は、違う道を通ってきた。失礼した」
小さく頭を下げる。縫殿助が、笑みを零した。
「とんでもござりませぬ。むしろ、あの時は、驚きました。小路の導きなく、黒木鳥居を潜れるお人は、そう多くありませぬ。ですので、私も警戒しておりました」
「だから、あのような言廻しをしたのか。獅子を壊したのが、儂の兄であると気付いていながら」
縫殿助が、目を見開いた。
善次郎は、その目を、じっと睨み据える。
開きかけた縫殿助の口元が緩み、笑みを戻した。
「兄上様であるとは、気が付きませんでした。ですが、同じ気を纏ったお武家様であるとは、思っておりました」
善次郎は一歩、縫殿助に歩み寄った。
「縫殿助殿の知る事実を、聞かせてほしい。ごまかすのでも伏せるのでもなく、其方の知る事実の総てを、聞かせてくれまいか」
あの時の縫殿助の言葉に嘘がなかったのは、善次郎も承知している。
「頼む、この通りだ」
善次郎は、深々と頭を下げた。
噛み殺すような小さな笑い声が、頭の上から降ってきた。
「貴方様は本当に、素直なお人なのですね。神官でありながら、自分がどれだけ卑しく浅はかであったか、身に沁みる思いです」
謙譲な言葉とは裏腹な笑みに、嘲りが混じって聞こえる。
善次郎は、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、ここから離れられぬ死霊です。知る事実には限りが、ございます。善次郎様の願望に添えるか、わかりませぬ」
微笑を崩さない縫殿助が、善次郎を眺めていた。
「それで、構わぬ。忝い」
縫殿助の目の先が、壊された獅子に向いた。善次郎も獅子に眼を向ける。以前と変わらず、開いた阿形の口が裂け、顔が大きく罅割れている。
「獅子の御霊が奪われたのは……。怨霊がまだ、生霊だった頃で、ございました」
善次郎は、息を飲んだ。
「源壽院が生霊になっていた噂は、事実であったか……」
「あの怨霊の名など、存じ上げませぬが。生霊の時分に、夜な夜な彷徨う姿は、見掛けておりました。使える従者を、探しておったのでしょう。生霊は、この社の獅子の御霊を攫って行きました」
「何故、抗わなんだ。其方であれば、護る術もあったであろう」
縫殿助は眉を下げ、首を振った。
「あの怨霊の抱える恨みは、あまりに深い。生霊の時ですら、禍々しい怨念が、魂に絡みついておりました。怨霊や死霊を現に留まらせる源は、念の強さと深さです。あの恨みの念は、底知れませぬ」
怖気を隠さない縫殿助の声に、善次郎は宇八郎を思った。
(兄上もまた、強い想いを持って現に残られた。だから、六年もの長きに亘り、源壽院の深い恨みを、抑え込めたのだ)
それが自分のためであると、今なら、わかる。歯痒く苦い思いが、善次郎の胸に蠢いた。
「兄上様の死霊が、この獅子像を壊されたのは、生霊が怨霊と化し、しばらく過ぎた後で、ございます」
「近歳か。詳しくは、いつ頃だ。何故、兄上は、この獅子像を壊した」
縫殿助は天を見上げ、考え込んだ。
「いつの頃であったかは、判然としませぬ。近歳といえば、そうなりましょう。私も、随分と長く現に留まっております故、生霊が獅子を攫った頃ですら、近歳に感じますもので。申し訳ございませぬ」
善次郎は、もどかしく唇を噛んだ。善次郎を眺めて、縫殿助が続ける。
「兄上様が、獅子像を壊した訳は、多少わかります。像を壊せば、獅子の御霊が力を失くすと思われたのでしょう。ところが獅子は、戻るべき依代を失くし、荒魂となった。悲しみ狂う獅子を巧みに操り、怨霊は更に力を増しました」
悲しげに俯く縫殿助の顔を、じっと見詰める。
「この獅子像を、元の姿に戻せれば、御霊は戻ってくるか?」
縫殿助が、顔を上げた。
「依代が元に戻れば、御霊は戻りましょう。しかし、怨霊に囚われ荒魂となった今では、どうなるか、わかりませぬ」
「荒魂と化しては、おらなんだ。先日、三社権現で怨霊と獅子と、対峙した。他の社の獅子は荒魂となり解合っておったが。あの獅子だけは、残っておった。福徳稲荷の獅子が、解合った荒魂の核であった。核は、獅子の御霊、そのものだ」
刀ごと引き込まれそうになった時に感じた気這いを思い返す。
荒魂とは、違う。只の御霊でも、ない。乗邑のような怨霊とも、違う。
(あの獅子の御霊から感じた気這いは、縫殿助殿の死霊と、あまりに近い)
再び縫殿助に会い、気這いを感じ取り、善次郎は自信を深めた。
(あの時、感じた気這いは、気のせいでも間違いでも、なかった)
縫殿助が、忙然と善次郎を眺めた。
「なんと……。獅子の御霊は、まだ無事でありましたか……」
驚愕した顔で、縫殿助が声を震わせる。
縫殿助から目を逸らし、俯く。善次郎は意を決し、顔を上げた。
「知り合いに、鏝絵職人がおる。その職人の鏝絵は、神までもが好むと評判だ。儂も、この眼で鑑賞し、見事だと感じた。あの男なら、この獅子像を修復できるだろう。獅子の御霊を戻せるやもしれぬ」
目を見開いた縫殿助だったが、またすぐに俯いた。
「しかし獅子の御霊は、あの怨霊の手の中。救い出せねば、戻っては来られますまい」
善次郎は拳を握り、腹に力を籠めた。
「儂が怨霊を討ち、獅子の御霊を救い出す。そのために、縫殿助殿の力を、貸してくれ」
縫殿助が、ゆっくりと顔を上げた。驚愕の瞳に、鈍い光が、見え隠れする。
「怨霊は、いつどこに現れるか知れぬ。故に、儂が囮となり誘き出す。首尾よく誘き出す法と都合の良い場所を探しておる。知恵を、授けてほしい」
縫殿助が善次郎から顔を逸らし、黙した。
固唾を飲んで、善次郎は返事を待つ。
しばらく黙っていた縫殿助が、小さく息を吐いた。
「……深川八幡か、亀戸天神あたりが、剴切でしょう」
ぽつり、と縫殿助が、呟いた。
「善次郎様の御身を考えれば、三社権現のような神力の強い社が望ましいでしょうが。一度は痛癢を負った怨霊が、同じ過ちを繰り返すとは、思えませぬ。であれば、歴史は浅くとも、神力の強い社。深川八幡や亀戸天神なら、獅子の御霊を奪いに出てくるやも、しれませぬ」
真剣な表情で思案する縫殿助に、善次郎が頷いた。
「なるほど、そうか。では、場所は、いずれかの社としよう。して、誘き出す法に、良い案はあるか?」
硬く目を瞑り、縫殿助がまた、押し黙る。
善次郎は、縫殿助の言葉を、じっと待った。
縫殿助の口元が、躊躇いながら、薄く開く。
「……私が、獅子の御霊に語り掛けて、みましょう。応えるか、わかりませぬが。善次郎様の仰る通り、御霊が元のまま残っておるのなら、望みはあるやも、知れませぬ」
表情を明るくして、善次郎は声を高めた。
「そうしてくれるか。有難い。では、明後日の……そうだな。人気のない時分が良い。日暮れより後と、伝えてくれ」
縫殿助は沈痛な面持ちで、頷いた。
「私の声が届くか、わかりませぬが。でき得る限りの力を持って、御心願にお応え致しましょう」
「無理を頼んで、すまぬ。縫殿助殿でなければ、できぬ相談だ。恩に着る」
善次郎が深々と頭を下げる。頭の上で、縫殿助が笑みを零したのが、わかった。
「して、どちらの社が良いと、考える?」
頭を上げた善次郎は、声を低めた。ゆっくりと慎重に、問う。
「八幡社に比べれば、亀戸天神が、より良いかと存じます」
善次郎は、目を細めた。悟られぬように、すぐに表情を変える。
「わかった。明後日、亀戸天神にて、待つ」
縫殿助が、善次郎に微笑を向ける。
一つ、頭を下げて、善次郎が鳥居に向かい、踵を返す。ふと、立ちどまり、縫殿助を振り返った。
「総てが終わった、その時に、縫殿助殿を再度、訪ねよう。先ほど話した鏝絵職人と、共に来る」
縫殿助は、嬉しそうに笑んだ。
「善次郎様のお戻りを、心待ちに、致しております。どうか現で、お会いできますよう。ご武運を、お祈り致します」
手を合わせ、縫殿助が礼をする。
善次郎は今度こそ、黒木鳥居に向かい、歩み出した。鳥居の前に立つ狛犬を、目の端が捉えた。
狛犬は、初見と同じように、泣いていた。善次郎は思いを断ち切り、敢えて振り返らなかった。
一歩を踏み出し、黒木鳥居を潜り出る。
外から振り返ると、古い椚の鳥居は、朱塗りに戻っていた。覗き見た境内には、縫殿助も狛犬の姿も、なくなっていた。
福徳稲荷神社の本殿を、じっと見詰め、深く礼をする。
社に背を向け歩き出した善次郎は、うき世小路とは反対側の道に折れた。雲母橋を横目に、大通りへ向かう。
(縫殿助殿の話に、大方、嘘は、ないだろう。……しかし)
獅子の御霊と縫殿助の死霊の気這いは、まるで同じと表して、過言でない。
それに、縫殿助が自ら挙げた、二つの社。深川八幡ではなく、亀戸天満宮を勧めたのも、善次郎の中の疑念を膨らませた。
深川八幡――正式には富岡八幡宮に祀られる八幡大神は、武家の守護神であり、源氏の氏神とされる。徳川宗家も代々、手厚く保護している。
(大給松平家宗家である源壽院なら、まず狙うまいな。縫殿助殿は、怨霊の名を知らぬと言うたが、本当だろうか)
知らぬ振りをして、縫殿助の益になる事柄が、あるとも思えない。
亀戸天満宮も富岡八幡宮も神力が強いが、今までに狙われた社に比べ、武蔵国においての歴史は浅い。縫殿助の提言は、確かに、理に叶っている。
そうは思うが、胸に痞える漠然とした違和が、拭えない。善次郎の頭の片隅に、嫌な仮説が浮かぶ。
(あまり考えたくは、ないが。どちらにせよ、これで支度は整った)
「明後日、亀戸天神。源壽院の怨霊と獅子の荒魂は、必ず来る」
縫殿助の真の思惑が、どこにあったとしても、これだけは違えない。そう信じたくて、あえて声に出した。
善次郎は顔を上げ、皓月堂へと歩き出す。歩を一つ踏み出すたび、この先に待ち受ける試練に立ち向かう思いの強さが、増していった。
気が付けば、空は明るく、夜の余韻は、いつの間にか朝陽に染め変えられていた。
空に浮かんでいた月牙は、白い朝に、すっかり隠されていた。
白み始めた空には、まだ夜の紺青が残っている。淡い月牙が、薄らと顔を出していた。
福徳稲荷に向かい歩きながら、善次郎は頭の中を整理した。
(三社権現で源壽院を斬れなかったのは、儂の心剣が未熟だったためだ。だが)
荒魂の解合った獅子の核となっていた、福徳稲荷の獅子の御霊。あれを斬れなかった訳が、善次郎の中で、ずっと引っ掛かっていた。
(もう一度、縫殿助殿に会って、確かめねば)
ふと目を上げて、異変に気が付いた。
「ここは、どこだ」
二日前と同じ道を歩いていたつもりが、いつの間にか、細い路地に入っていた。連なる町家を眺めるうちに、思い付いた。
「そうか、うき世小路か」
細い路地の両側に料理屋が立ち並ぶ。短い通りを抜け、右に折れれば、福徳稲荷は目前だが。皓月堂のある通旅籠町から歩くと、かえって遠回りになる。
(考えに耽って間違った、のでは、なさそうだ)
足下を漂う朝靄が、善次郎を誘うが如く、福徳稲荷社に向かって静かに流れる。導かれるままに小路を抜ける。淡靄に包まれた黒木鳥居が、厳かに立っていた。
鳥居の前に立ち、礼をする。
境内に足を踏み入れた刹那、総ての音が消えた。
(初めに参った時と、同じだ。生き物の気が、全くない)
現から切り離された隙間に入り込んだような不気味さは、変わっていない。
「うき世小路は、福徳稲荷の参道でございます。本来なら、あの小路を通るのが、正しい道行き、なのですよ」
振り返ると、微笑を湛えた縫殿助が立っていた。
(気這いを感じなんだ。縫殿助殿も死霊故、違和はないが)
善次郎は振り返り、縫殿助に向き合った。
「そうであったか。初めに来た時は、違う道を通ってきた。失礼した」
小さく頭を下げる。縫殿助が、笑みを零した。
「とんでもござりませぬ。むしろ、あの時は、驚きました。小路の導きなく、黒木鳥居を潜れるお人は、そう多くありませぬ。ですので、私も警戒しておりました」
「だから、あのような言廻しをしたのか。獅子を壊したのが、儂の兄であると気付いていながら」
縫殿助が、目を見開いた。
善次郎は、その目を、じっと睨み据える。
開きかけた縫殿助の口元が緩み、笑みを戻した。
「兄上様であるとは、気が付きませんでした。ですが、同じ気を纏ったお武家様であるとは、思っておりました」
善次郎は一歩、縫殿助に歩み寄った。
「縫殿助殿の知る事実を、聞かせてほしい。ごまかすのでも伏せるのでもなく、其方の知る事実の総てを、聞かせてくれまいか」
あの時の縫殿助の言葉に嘘がなかったのは、善次郎も承知している。
「頼む、この通りだ」
善次郎は、深々と頭を下げた。
噛み殺すような小さな笑い声が、頭の上から降ってきた。
「貴方様は本当に、素直なお人なのですね。神官でありながら、自分がどれだけ卑しく浅はかであったか、身に沁みる思いです」
謙譲な言葉とは裏腹な笑みに、嘲りが混じって聞こえる。
善次郎は、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、ここから離れられぬ死霊です。知る事実には限りが、ございます。善次郎様の願望に添えるか、わかりませぬ」
微笑を崩さない縫殿助が、善次郎を眺めていた。
「それで、構わぬ。忝い」
縫殿助の目の先が、壊された獅子に向いた。善次郎も獅子に眼を向ける。以前と変わらず、開いた阿形の口が裂け、顔が大きく罅割れている。
「獅子の御霊が奪われたのは……。怨霊がまだ、生霊だった頃で、ございました」
善次郎は、息を飲んだ。
「源壽院が生霊になっていた噂は、事実であったか……」
「あの怨霊の名など、存じ上げませぬが。生霊の時分に、夜な夜な彷徨う姿は、見掛けておりました。使える従者を、探しておったのでしょう。生霊は、この社の獅子の御霊を攫って行きました」
「何故、抗わなんだ。其方であれば、護る術もあったであろう」
縫殿助は眉を下げ、首を振った。
「あの怨霊の抱える恨みは、あまりに深い。生霊の時ですら、禍々しい怨念が、魂に絡みついておりました。怨霊や死霊を現に留まらせる源は、念の強さと深さです。あの恨みの念は、底知れませぬ」
怖気を隠さない縫殿助の声に、善次郎は宇八郎を思った。
(兄上もまた、強い想いを持って現に残られた。だから、六年もの長きに亘り、源壽院の深い恨みを、抑え込めたのだ)
それが自分のためであると、今なら、わかる。歯痒く苦い思いが、善次郎の胸に蠢いた。
「兄上様の死霊が、この獅子像を壊されたのは、生霊が怨霊と化し、しばらく過ぎた後で、ございます」
「近歳か。詳しくは、いつ頃だ。何故、兄上は、この獅子像を壊した」
縫殿助は天を見上げ、考え込んだ。
「いつの頃であったかは、判然としませぬ。近歳といえば、そうなりましょう。私も、随分と長く現に留まっております故、生霊が獅子を攫った頃ですら、近歳に感じますもので。申し訳ございませぬ」
善次郎は、もどかしく唇を噛んだ。善次郎を眺めて、縫殿助が続ける。
「兄上様が、獅子像を壊した訳は、多少わかります。像を壊せば、獅子の御霊が力を失くすと思われたのでしょう。ところが獅子は、戻るべき依代を失くし、荒魂となった。悲しみ狂う獅子を巧みに操り、怨霊は更に力を増しました」
悲しげに俯く縫殿助の顔を、じっと見詰める。
「この獅子像を、元の姿に戻せれば、御霊は戻ってくるか?」
縫殿助が、顔を上げた。
「依代が元に戻れば、御霊は戻りましょう。しかし、怨霊に囚われ荒魂となった今では、どうなるか、わかりませぬ」
「荒魂と化しては、おらなんだ。先日、三社権現で怨霊と獅子と、対峙した。他の社の獅子は荒魂となり解合っておったが。あの獅子だけは、残っておった。福徳稲荷の獅子が、解合った荒魂の核であった。核は、獅子の御霊、そのものだ」
刀ごと引き込まれそうになった時に感じた気這いを思い返す。
荒魂とは、違う。只の御霊でも、ない。乗邑のような怨霊とも、違う。
(あの獅子の御霊から感じた気這いは、縫殿助殿の死霊と、あまりに近い)
再び縫殿助に会い、気這いを感じ取り、善次郎は自信を深めた。
(あの時、感じた気這いは、気のせいでも間違いでも、なかった)
縫殿助が、忙然と善次郎を眺めた。
「なんと……。獅子の御霊は、まだ無事でありましたか……」
驚愕した顔で、縫殿助が声を震わせる。
縫殿助から目を逸らし、俯く。善次郎は意を決し、顔を上げた。
「知り合いに、鏝絵職人がおる。その職人の鏝絵は、神までもが好むと評判だ。儂も、この眼で鑑賞し、見事だと感じた。あの男なら、この獅子像を修復できるだろう。獅子の御霊を戻せるやもしれぬ」
目を見開いた縫殿助だったが、またすぐに俯いた。
「しかし獅子の御霊は、あの怨霊の手の中。救い出せねば、戻っては来られますまい」
善次郎は拳を握り、腹に力を籠めた。
「儂が怨霊を討ち、獅子の御霊を救い出す。そのために、縫殿助殿の力を、貸してくれ」
縫殿助が、ゆっくりと顔を上げた。驚愕の瞳に、鈍い光が、見え隠れする。
「怨霊は、いつどこに現れるか知れぬ。故に、儂が囮となり誘き出す。首尾よく誘き出す法と都合の良い場所を探しておる。知恵を、授けてほしい」
縫殿助が善次郎から顔を逸らし、黙した。
固唾を飲んで、善次郎は返事を待つ。
しばらく黙っていた縫殿助が、小さく息を吐いた。
「……深川八幡か、亀戸天神あたりが、剴切でしょう」
ぽつり、と縫殿助が、呟いた。
「善次郎様の御身を考えれば、三社権現のような神力の強い社が望ましいでしょうが。一度は痛癢を負った怨霊が、同じ過ちを繰り返すとは、思えませぬ。であれば、歴史は浅くとも、神力の強い社。深川八幡や亀戸天神なら、獅子の御霊を奪いに出てくるやも、しれませぬ」
真剣な表情で思案する縫殿助に、善次郎が頷いた。
「なるほど、そうか。では、場所は、いずれかの社としよう。して、誘き出す法に、良い案はあるか?」
硬く目を瞑り、縫殿助がまた、押し黙る。
善次郎は、縫殿助の言葉を、じっと待った。
縫殿助の口元が、躊躇いながら、薄く開く。
「……私が、獅子の御霊に語り掛けて、みましょう。応えるか、わかりませぬが。善次郎様の仰る通り、御霊が元のまま残っておるのなら、望みはあるやも、知れませぬ」
表情を明るくして、善次郎は声を高めた。
「そうしてくれるか。有難い。では、明後日の……そうだな。人気のない時分が良い。日暮れより後と、伝えてくれ」
縫殿助は沈痛な面持ちで、頷いた。
「私の声が届くか、わかりませぬが。でき得る限りの力を持って、御心願にお応え致しましょう」
「無理を頼んで、すまぬ。縫殿助殿でなければ、できぬ相談だ。恩に着る」
善次郎が深々と頭を下げる。頭の上で、縫殿助が笑みを零したのが、わかった。
「して、どちらの社が良いと、考える?」
頭を上げた善次郎は、声を低めた。ゆっくりと慎重に、問う。
「八幡社に比べれば、亀戸天神が、より良いかと存じます」
善次郎は、目を細めた。悟られぬように、すぐに表情を変える。
「わかった。明後日、亀戸天神にて、待つ」
縫殿助が、善次郎に微笑を向ける。
一つ、頭を下げて、善次郎が鳥居に向かい、踵を返す。ふと、立ちどまり、縫殿助を振り返った。
「総てが終わった、その時に、縫殿助殿を再度、訪ねよう。先ほど話した鏝絵職人と、共に来る」
縫殿助は、嬉しそうに笑んだ。
「善次郎様のお戻りを、心待ちに、致しております。どうか現で、お会いできますよう。ご武運を、お祈り致します」
手を合わせ、縫殿助が礼をする。
善次郎は今度こそ、黒木鳥居に向かい、歩み出した。鳥居の前に立つ狛犬を、目の端が捉えた。
狛犬は、初見と同じように、泣いていた。善次郎は思いを断ち切り、敢えて振り返らなかった。
一歩を踏み出し、黒木鳥居を潜り出る。
外から振り返ると、古い椚の鳥居は、朱塗りに戻っていた。覗き見た境内には、縫殿助も狛犬の姿も、なくなっていた。
福徳稲荷神社の本殿を、じっと見詰め、深く礼をする。
社に背を向け歩き出した善次郎は、うき世小路とは反対側の道に折れた。雲母橋を横目に、大通りへ向かう。
(縫殿助殿の話に、大方、嘘は、ないだろう。……しかし)
獅子の御霊と縫殿助の死霊の気這いは、まるで同じと表して、過言でない。
それに、縫殿助が自ら挙げた、二つの社。深川八幡ではなく、亀戸天満宮を勧めたのも、善次郎の中の疑念を膨らませた。
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(大給松平家宗家である源壽院なら、まず狙うまいな。縫殿助殿は、怨霊の名を知らぬと言うたが、本当だろうか)
知らぬ振りをして、縫殿助の益になる事柄が、あるとも思えない。
亀戸天満宮も富岡八幡宮も神力が強いが、今までに狙われた社に比べ、武蔵国においての歴史は浅い。縫殿助の提言は、確かに、理に叶っている。
そうは思うが、胸に痞える漠然とした違和が、拭えない。善次郎の頭の片隅に、嫌な仮説が浮かぶ。
(あまり考えたくは、ないが。どちらにせよ、これで支度は整った)
「明後日、亀戸天神。源壽院の怨霊と獅子の荒魂は、必ず来る」
縫殿助の真の思惑が、どこにあったとしても、これだけは違えない。そう信じたくて、あえて声に出した。
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なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
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