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第Ⅱ章 ミニイベント:月の言霊
9.焼け残った血約
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頭が痛い。体が重い。
下卑た笑みが近づいてくる。嫌だ、もう触れられたくない。
なのに、逃げられなくて、明るいほうに手を伸ばす。
そんな夢を、何度もみている。
夢のループから逃げられない。
苦しい。どうすれば、出られるんだろう。
暗闇の中を、懸命に手を伸ばす。伸びてきた手を、必死に掴んだ。
その手はひどく温かかった。
「ユリウス……」
自分の呟きで、目が覚めた。
見慣れた天井に、いつものベッド。
寮の部屋のようだ。外は明るいから、昼間なんだろう。
「目が、覚めた?」
声の方に目を向ける。
ユリウスがベッドに座って、ノエルの手を握っていた。
(どうしたんだろう。いつもよりラフな格好だ)
ローブを纏っていない姿は、あまり見慣れない。
ユリウスは読んでいた本を置くと、ノエルに顔を向けた。
「体調は、どう?」
ユリウスの言葉が、いつもより素っ気なく聞こえる。
「体調は……、頭がぼんやりして、少し痛いです。体が重くて、力が入らなそうです」
「そう。その程度で済んで、良かったよ」
やっぱり声が冷たい。
(怒っているのかな。なんでだろう。私、何か……、あ)
魔獣の森での出来事が、怒涛の勢いで蘇る。
(怒って当然だ。怒られるようなことをしたし、きっと心配も迷惑も掛けた)
「あの、ユリウス……」
「三日も眠っていたんだよ。昨日ようやく、君の瘴気の浄化が終わった。浄化に丸二日も掛かる瘴気なんて、常人なら死んでる」
何も言えなかった。
確かに辛かったけど、それほどの量だなんて思わなかった。
(カルマは、一体何がしたかったんだろう。魔石を刺激して、私をどうしたかったんだろう)
明確な目的はわからない。只の興味本位だったのかもしれない。
あの時の感覚を思い出して、体が震えた。
「魔獣の森の方から君の気配を感じた時は驚いたよ。探しに行ったら魔力そのものが消えて、気が気じゃなかった」
「私の魔力が、消えた?」
「君の血を吸った魔族が、空間魔法で隔離したんだろう。他の学生も瘴気でやられていたから、保護した。その後、動けるアイザックとノアの三人で君を探した」
(だからあの時、アイザックが。アイザックが先に私を見付けてくれたのか)
自分がアイザックにしてしまったことを思い出して、目を伏せる。
「ロキは、ウィリアムやレイリーも、大丈夫でしょうか?」
「消耗はしていたけど、回復したよ。森を覆っていた瘴気が突然、消えたらしいね。障りは少なくて済んだ。今の君よりずっと元気だ。全員、寮で謹慎中だよ。僕もね」
結果を考えれば、当然の処分だ。それだけの禁忌を、ノエルたちは犯した。
結局、顧問のユリウスにまで迷惑を掛けた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
あまりにも申し訳なくて、他に言葉がない。
今回は完全にノエルの計画の杜撰さが招いた事態だ。
ゲームのシナリオのイメージで、簡単に考えすぎていた。
(魔獣の森の危険さは、この国に住んでいる人間なら、誰でも理解している。ゲームじゃないんだ。リセットできない、やり直しもきかない。ここは、現実なんだ)
改めて、思い知らされた。
ユリウスから手を離す。
すり抜けかけた手を、ユリウスが強く掴み戻した。
「それで? 左の親指の血約は、どう言訳するつもり?」
ユリウスの鋭い目が、ノエルを見詰める。
「いいかい、ノエル。精霊国の森に魔族が潜んでいただけでも問題なんだ。その上で、君は国王直下の聖魔術師だ。その君が魔族と血の契約を交わした。この状況が、どう受け止められ、どういう事態を招くか。考え及ばない君では、ないだろう?」
ユリウスの言葉の意味は、ノエルにも理解できる。
入れるはずのない魔族が進入禁止区域に潜伏していた。
ノエルたちは正式な許可を得ずに森に侵入している。ノエルが引き入れ匿ったと考えられても、おかしくない。
魔族が要る森に意図して王族やそれに連なる貴族を手引き入れたと思われても仕方がない状況だ。
さらに血約は、内容によっては精霊国への裏切り行為、下手をすれば反逆罪に問われる危険性すらある。
ユリウスは、それを危惧しているのだ。
「内容によっては、精霊国にも私自身にも、損害にもなり得る行動だったと、思います」
「何故、血約を交わした?」
ユリウスの質問はあくまで事務的だ。
彼が顧問として、同じ聖魔術師として事実確認をしているのだと、わかる。
「皆を、生きたまま森から返すために、私も、死なないために、です」
「契約の具体的な内容は? 密約では、ないだろうね」
血約には、契約と密約がある。密約を交わした場合、口外は死に直結する。
ノエルはユリウスに向かい、頷いた。
「始めに名前を聞かれて、応えないでいたら、皆を殺すと脅されました。なので仕方なく、私から血の契約を提案しました」
ユリウスの顔が引き攣る。
「契約の内容は、私含め全員を生きたまま森から帰すことと、私の名を使った魔術を私に行使しないこと。向こうが出してきた条件が、名前を教えること、だったので」
もう一つの条件を伝えるのを躊躇った。
聞いたらどんな反応をされるか、怖い。
「それから? 契約は対等でなければ成立しない。君が二つ唱えたのなら、相手も二つ、提示しただろう」
ユリウスの声は静かで冷ややかだ。怖いと思うし、悲しいと思う。
自分が悪いのに、何を甘えているのだろう。
「気が済むまで血を吸わせること、でした」
ユリウスの纏う気が怒気を孕んだ。
「……そうか」
ノエルの手首を掴む力が、徐々に強くなる。
声は静かだが確実に怒りを含んでいた。
「君が血約を交わしたから、森に流れていた瘴気が消えた。ロキは昏倒するほど瘴気に中てられた状態だった。命の危険を感じた状況での君の判断は、間違ってはいなかったよ」
ノエルを握るユリウスの手の力が、どんどん強くなる。
「でも、正解ではない」
ユリウスの指が食い込んで、肌が血の気を無くし白くなっている。
痛いが、離してほしくない。
今、この手が離れたら、二度と戻っては来ない気がする。その方が、ずっと怖かった。
「血約は、あくまで契約だ。本人の同意の元に交わされる。一方的な魔法攻撃とは違う。君の中和術でも、消し去ることはできない。君の体に刻まれ、残る。それがどういう意味か、わかる?」
ユリウスの言いたいことが、分からなかった。
契約は守られ、失効したはずだ。もう終わったことだ。
「君が交わした血約は、相手にとってはマーキングだ。奴は、気が済むまで何度でも血を吸いにやってくる。相手の魔族が飽きるまで、この血約は、おそらく消えない」
「……え?」
「君は相手に、一度きり、と回数制限を提示したか? していないだろ。だから、まだ契約の印が残っている」
ユリウスが乱暴にノエルの腕を持ちあげた。親指の腹を目の前に突き付けられる。
そこには、見たことがない黒い紋様が刻まれていた。
「うそ……なんで……」
カルマとのやり取りを思い出す。
ノエルは、あの場限りのつもりだった。
だがもしカルマが一度きりでなく、今後も気が済むまで、という意味で提示していたら。
ノエルは、それに同意したことになる。
『逃がさないぜ、ノエル』
耳元で囁かれた言葉が蘇る。
(あれは、そういう意味だったんだ)
途端に怖くなって、体が震え出した。
ユリウスが腕を降ろして、ノエルを見下ろす。
「魔族の瘴気は本能に作用する。君はあの時、自分がどんな状態になっていたか、わかっている? あんな行為を繰り返し、されるってことなんだよ」
右腕と胸と肩口の噛み跡から血が流れて、頬と唇からも出血していた。服も引き裂かれていたと思う。
何より、快楽に飲まれて、自分が自分でなくなっていた。
だから、アイザックにあんな真似をしてしまったのだ。
(あの場をどうやって切り抜けるか、そればっかり考えていた。回数なんて……、あの状況じゃ、一度きりだって思って当然……いや、違う。そうじゃない)
もし自分が作家としてそれを書くなら、カルマのように発想する。
一度きりの契約など、カルマには利が少なすぎる。
(だからあんなに、あっさり契約に応じたのか。向こうの方が上手だった。魔族とは、そういう生き物、か)
言葉の扱いには、多少なりとも自信があった。それが、ただの奢りだったと思い知らされた。
狡猾で独善的で、ずる賢い。魔族には、言葉ですら勝てなかった。
敗北感と恐怖が、腹の底から湧き上がってくる。
突然、腕を引っ張り上げられた。
体が起き上がって、ユリウスの顔が目前に迫る。
今まで見たこともないくらい真剣で強い眼が、ノエルを捉えていた。
「君は時に、自己犠牲を厭わない。僕はそれを、美徳とは思わない。自分が死ねば解決するとでも思っている? 自分を贄にしなければ生き残れないほど、弱くはないはずだ。君は、死にたいの?」
ノエルは、何度も首を振った。
「違う、そんな、つもりじゃなくて」
この世界が破滅しないために、
マリアのために、
ノエルは本当ならもう死んでいるはずの人間だから。
(……あ、そうか。私は初めから、この世界からノエルを除外して考えていたのかもしれない)
いないはずの人間が邪魔しないように、いないはずの人間だから構わない。
この考え方は、歪曲すれば死んでもいいと思っているのと同じかもしれない。
ノエルという人間を大事にしようと考えたことはないかもしれないと、初めて気が付いた。
急に、怖くなった。
さっきまでカルマに感じていた恐怖とは、違う。
(モブのノエル=ワーグナーは、この現実の世界で生きているんだ。なんて当たり前な事実だろう)
現実はシナリオ通りになんか進まない。
事実、ここまでだって、シナリオにない展開ばかりだった。
「ごめんなさい、ユリウス。私は、他にやり方を知らない。でも、死にたくない。怖くても、もっと生きたい」
『だから貴女も、いっぱい楽しんでね。たとえ、書いたシナリオ通りに行かなくても、人生は普通、先がわからないものだから』
ノエルが残してくれた手紙の一文を思い出す。
(なら、私は、どうすればいいんだろう。どうするのが、正しかったんだろう)
俯いた頭の上で、ユリウスが息を吐いた。
握った腕が離れる。
心細くて顔を上げたら、温かい体温が体に密着した。
体を強く引き寄せられて抱きしめられた。
「泣くほど死にたくないなら、もっと僕を頼ればいい。怖いなら、僕と一緒に生きればいい。これじゃ、何のために婚約を申し出たか、わからない」
ユリウスに指摘されて、自分が泣いているのだと気が付いた。
「君が器用貧乏な不器用だってこと、忘れていたよ」
本当に困った顔で、ノエルの額に額をあてる。
頭を抱いて、ノエルの顔を胸に抱き寄せた。
「本気で心配したんだ。血塗れの君を見付けた時、自分がどうにかなりそうだった。あんな思いは、もう二度と御免だ」
ユリウスの手が頬に触れる。
さっきと違って、優しくて温かい。
撫でられていると、気持ちが良くて安心する。
「あの時、魔石が活性化していた。瘴気だけでなく、魔力も流されたね」
ノエルは頷いた。
カルマが、そんなような話をしていた。
「今の君が魔石に飲まれて魔獣化することはない。けど、瘴気や魔族の魔力を強く受ければ、体が魔族の習性に近づく」
ユリウスがノエルの左目を拭った。
「それは何か、デメリットがありますか」
「左目が赤みを帯びてきてる。半魔の、僕みたいな状態だよ。更に影響を受ければ魔石が瘴気を発するようになる。そうなれば、この国では生きられない」
つまり、魔国に追放になるということなんだろう。
瘴気は人心を惑わす。魔族の象徴のようなものだ。
「今の君は、いつまた魔族に狙われるかわからない。何度も血を吸われるのは、他の人間とは違う意味で危険だ。だからね」
体が反転して、視界に天井が飛び込む。
ユリウスに押し倒されていた。
「いっそ僕だけのノエルに、してしまおうと思うんだよ」
言葉の意味が理解できなかった。
下卑た笑みが近づいてくる。嫌だ、もう触れられたくない。
なのに、逃げられなくて、明るいほうに手を伸ばす。
そんな夢を、何度もみている。
夢のループから逃げられない。
苦しい。どうすれば、出られるんだろう。
暗闇の中を、懸命に手を伸ばす。伸びてきた手を、必死に掴んだ。
その手はひどく温かかった。
「ユリウス……」
自分の呟きで、目が覚めた。
見慣れた天井に、いつものベッド。
寮の部屋のようだ。外は明るいから、昼間なんだろう。
「目が、覚めた?」
声の方に目を向ける。
ユリウスがベッドに座って、ノエルの手を握っていた。
(どうしたんだろう。いつもよりラフな格好だ)
ローブを纏っていない姿は、あまり見慣れない。
ユリウスは読んでいた本を置くと、ノエルに顔を向けた。
「体調は、どう?」
ユリウスの言葉が、いつもより素っ気なく聞こえる。
「体調は……、頭がぼんやりして、少し痛いです。体が重くて、力が入らなそうです」
「そう。その程度で済んで、良かったよ」
やっぱり声が冷たい。
(怒っているのかな。なんでだろう。私、何か……、あ)
魔獣の森での出来事が、怒涛の勢いで蘇る。
(怒って当然だ。怒られるようなことをしたし、きっと心配も迷惑も掛けた)
「あの、ユリウス……」
「三日も眠っていたんだよ。昨日ようやく、君の瘴気の浄化が終わった。浄化に丸二日も掛かる瘴気なんて、常人なら死んでる」
何も言えなかった。
確かに辛かったけど、それほどの量だなんて思わなかった。
(カルマは、一体何がしたかったんだろう。魔石を刺激して、私をどうしたかったんだろう)
明確な目的はわからない。只の興味本位だったのかもしれない。
あの時の感覚を思い出して、体が震えた。
「魔獣の森の方から君の気配を感じた時は驚いたよ。探しに行ったら魔力そのものが消えて、気が気じゃなかった」
「私の魔力が、消えた?」
「君の血を吸った魔族が、空間魔法で隔離したんだろう。他の学生も瘴気でやられていたから、保護した。その後、動けるアイザックとノアの三人で君を探した」
(だからあの時、アイザックが。アイザックが先に私を見付けてくれたのか)
自分がアイザックにしてしまったことを思い出して、目を伏せる。
「ロキは、ウィリアムやレイリーも、大丈夫でしょうか?」
「消耗はしていたけど、回復したよ。森を覆っていた瘴気が突然、消えたらしいね。障りは少なくて済んだ。今の君よりずっと元気だ。全員、寮で謹慎中だよ。僕もね」
結果を考えれば、当然の処分だ。それだけの禁忌を、ノエルたちは犯した。
結局、顧問のユリウスにまで迷惑を掛けた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
あまりにも申し訳なくて、他に言葉がない。
今回は完全にノエルの計画の杜撰さが招いた事態だ。
ゲームのシナリオのイメージで、簡単に考えすぎていた。
(魔獣の森の危険さは、この国に住んでいる人間なら、誰でも理解している。ゲームじゃないんだ。リセットできない、やり直しもきかない。ここは、現実なんだ)
改めて、思い知らされた。
ユリウスから手を離す。
すり抜けかけた手を、ユリウスが強く掴み戻した。
「それで? 左の親指の血約は、どう言訳するつもり?」
ユリウスの鋭い目が、ノエルを見詰める。
「いいかい、ノエル。精霊国の森に魔族が潜んでいただけでも問題なんだ。その上で、君は国王直下の聖魔術師だ。その君が魔族と血の契約を交わした。この状況が、どう受け止められ、どういう事態を招くか。考え及ばない君では、ないだろう?」
ユリウスの言葉の意味は、ノエルにも理解できる。
入れるはずのない魔族が進入禁止区域に潜伏していた。
ノエルたちは正式な許可を得ずに森に侵入している。ノエルが引き入れ匿ったと考えられても、おかしくない。
魔族が要る森に意図して王族やそれに連なる貴族を手引き入れたと思われても仕方がない状況だ。
さらに血約は、内容によっては精霊国への裏切り行為、下手をすれば反逆罪に問われる危険性すらある。
ユリウスは、それを危惧しているのだ。
「内容によっては、精霊国にも私自身にも、損害にもなり得る行動だったと、思います」
「何故、血約を交わした?」
ユリウスの質問はあくまで事務的だ。
彼が顧問として、同じ聖魔術師として事実確認をしているのだと、わかる。
「皆を、生きたまま森から返すために、私も、死なないために、です」
「契約の具体的な内容は? 密約では、ないだろうね」
血約には、契約と密約がある。密約を交わした場合、口外は死に直結する。
ノエルはユリウスに向かい、頷いた。
「始めに名前を聞かれて、応えないでいたら、皆を殺すと脅されました。なので仕方なく、私から血の契約を提案しました」
ユリウスの顔が引き攣る。
「契約の内容は、私含め全員を生きたまま森から帰すことと、私の名を使った魔術を私に行使しないこと。向こうが出してきた条件が、名前を教えること、だったので」
もう一つの条件を伝えるのを躊躇った。
聞いたらどんな反応をされるか、怖い。
「それから? 契約は対等でなければ成立しない。君が二つ唱えたのなら、相手も二つ、提示しただろう」
ユリウスの声は静かで冷ややかだ。怖いと思うし、悲しいと思う。
自分が悪いのに、何を甘えているのだろう。
「気が済むまで血を吸わせること、でした」
ユリウスの纏う気が怒気を孕んだ。
「……そうか」
ノエルの手首を掴む力が、徐々に強くなる。
声は静かだが確実に怒りを含んでいた。
「君が血約を交わしたから、森に流れていた瘴気が消えた。ロキは昏倒するほど瘴気に中てられた状態だった。命の危険を感じた状況での君の判断は、間違ってはいなかったよ」
ノエルを握るユリウスの手の力が、どんどん強くなる。
「でも、正解ではない」
ユリウスの指が食い込んで、肌が血の気を無くし白くなっている。
痛いが、離してほしくない。
今、この手が離れたら、二度と戻っては来ない気がする。その方が、ずっと怖かった。
「血約は、あくまで契約だ。本人の同意の元に交わされる。一方的な魔法攻撃とは違う。君の中和術でも、消し去ることはできない。君の体に刻まれ、残る。それがどういう意味か、わかる?」
ユリウスの言いたいことが、分からなかった。
契約は守られ、失効したはずだ。もう終わったことだ。
「君が交わした血約は、相手にとってはマーキングだ。奴は、気が済むまで何度でも血を吸いにやってくる。相手の魔族が飽きるまで、この血約は、おそらく消えない」
「……え?」
「君は相手に、一度きり、と回数制限を提示したか? していないだろ。だから、まだ契約の印が残っている」
ユリウスが乱暴にノエルの腕を持ちあげた。親指の腹を目の前に突き付けられる。
そこには、見たことがない黒い紋様が刻まれていた。
「うそ……なんで……」
カルマとのやり取りを思い出す。
ノエルは、あの場限りのつもりだった。
だがもしカルマが一度きりでなく、今後も気が済むまで、という意味で提示していたら。
ノエルは、それに同意したことになる。
『逃がさないぜ、ノエル』
耳元で囁かれた言葉が蘇る。
(あれは、そういう意味だったんだ)
途端に怖くなって、体が震え出した。
ユリウスが腕を降ろして、ノエルを見下ろす。
「魔族の瘴気は本能に作用する。君はあの時、自分がどんな状態になっていたか、わかっている? あんな行為を繰り返し、されるってことなんだよ」
右腕と胸と肩口の噛み跡から血が流れて、頬と唇からも出血していた。服も引き裂かれていたと思う。
何より、快楽に飲まれて、自分が自分でなくなっていた。
だから、アイザックにあんな真似をしてしまったのだ。
(あの場をどうやって切り抜けるか、そればっかり考えていた。回数なんて……、あの状況じゃ、一度きりだって思って当然……いや、違う。そうじゃない)
もし自分が作家としてそれを書くなら、カルマのように発想する。
一度きりの契約など、カルマには利が少なすぎる。
(だからあんなに、あっさり契約に応じたのか。向こうの方が上手だった。魔族とは、そういう生き物、か)
言葉の扱いには、多少なりとも自信があった。それが、ただの奢りだったと思い知らされた。
狡猾で独善的で、ずる賢い。魔族には、言葉ですら勝てなかった。
敗北感と恐怖が、腹の底から湧き上がってくる。
突然、腕を引っ張り上げられた。
体が起き上がって、ユリウスの顔が目前に迫る。
今まで見たこともないくらい真剣で強い眼が、ノエルを捉えていた。
「君は時に、自己犠牲を厭わない。僕はそれを、美徳とは思わない。自分が死ねば解決するとでも思っている? 自分を贄にしなければ生き残れないほど、弱くはないはずだ。君は、死にたいの?」
ノエルは、何度も首を振った。
「違う、そんな、つもりじゃなくて」
この世界が破滅しないために、
マリアのために、
ノエルは本当ならもう死んでいるはずの人間だから。
(……あ、そうか。私は初めから、この世界からノエルを除外して考えていたのかもしれない)
いないはずの人間が邪魔しないように、いないはずの人間だから構わない。
この考え方は、歪曲すれば死んでもいいと思っているのと同じかもしれない。
ノエルという人間を大事にしようと考えたことはないかもしれないと、初めて気が付いた。
急に、怖くなった。
さっきまでカルマに感じていた恐怖とは、違う。
(モブのノエル=ワーグナーは、この現実の世界で生きているんだ。なんて当たり前な事実だろう)
現実はシナリオ通りになんか進まない。
事実、ここまでだって、シナリオにない展開ばかりだった。
「ごめんなさい、ユリウス。私は、他にやり方を知らない。でも、死にたくない。怖くても、もっと生きたい」
『だから貴女も、いっぱい楽しんでね。たとえ、書いたシナリオ通りに行かなくても、人生は普通、先がわからないものだから』
ノエルが残してくれた手紙の一文を思い出す。
(なら、私は、どうすればいいんだろう。どうするのが、正しかったんだろう)
俯いた頭の上で、ユリウスが息を吐いた。
握った腕が離れる。
心細くて顔を上げたら、温かい体温が体に密着した。
体を強く引き寄せられて抱きしめられた。
「泣くほど死にたくないなら、もっと僕を頼ればいい。怖いなら、僕と一緒に生きればいい。これじゃ、何のために婚約を申し出たか、わからない」
ユリウスに指摘されて、自分が泣いているのだと気が付いた。
「君が器用貧乏な不器用だってこと、忘れていたよ」
本当に困った顔で、ノエルの額に額をあてる。
頭を抱いて、ノエルの顔を胸に抱き寄せた。
「本気で心配したんだ。血塗れの君を見付けた時、自分がどうにかなりそうだった。あんな思いは、もう二度と御免だ」
ユリウスの手が頬に触れる。
さっきと違って、優しくて温かい。
撫でられていると、気持ちが良くて安心する。
「あの時、魔石が活性化していた。瘴気だけでなく、魔力も流されたね」
ノエルは頷いた。
カルマが、そんなような話をしていた。
「今の君が魔石に飲まれて魔獣化することはない。けど、瘴気や魔族の魔力を強く受ければ、体が魔族の習性に近づく」
ユリウスがノエルの左目を拭った。
「それは何か、デメリットがありますか」
「左目が赤みを帯びてきてる。半魔の、僕みたいな状態だよ。更に影響を受ければ魔石が瘴気を発するようになる。そうなれば、この国では生きられない」
つまり、魔国に追放になるということなんだろう。
瘴気は人心を惑わす。魔族の象徴のようなものだ。
「今の君は、いつまた魔族に狙われるかわからない。何度も血を吸われるのは、他の人間とは違う意味で危険だ。だからね」
体が反転して、視界に天井が飛び込む。
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「いっそ僕だけのノエルに、してしまおうと思うんだよ」
言葉の意味が理解できなかった。
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王都で役立たずと追放された中年の錬金術師リオネル。
たどり着いたのは、魔物に怯える小さな辺境の村だった。
薬草で傷を癒し、料理で笑顔を生み、動物たちと畑を耕す日々。
仲間と絆を育むうちに、村は次第に「奇跡の地」と呼ばれていく――。
剣も魔法も最強じゃない。けれど、誰かを癒す力が世界を変えていく。
ゆるやかな時間の中で少しずつ花開く、スロー成長の異世界物語。
記憶喪失となった転生少女は神から貰った『料理道』で異世界ライフを満喫したい
犬社護
ファンタジー
11歳・小学5年生の唯は交通事故に遭い、気がついたら何処かの部屋にいて、目の前には黒留袖を着た女性-鈴がいた。ここが死後の世界と知りショックを受けるものの、現世に未練があることを訴えると、鈴から異世界へ転生することを薦められる。理由を知った唯は転生を承諾するも、手続き中に『記憶の覚醒が11歳の誕生日、その後すぐにとある事件に巻き込まれ、数日中に死亡する』という事実が発覚する。
異世界の神も気の毒に思い、死なないルートを探すも、事件後の覚醒となってしまい、その影響で記憶喪失、取得スキルと魔法の喪失、ステータス能力値がほぼゼロ、覚醒場所は樹海の中という最底辺からのスタート。これに同情した鈴と神は、唯に統括型スキル【料理道[極み]】と善行ポイントを与え、異世界へと送り出す。
持ち前の明るく前向きな性格の唯は、このスキルでフェンリルを救ったことをキッカケに、様々な人々と出会っていくが、皆は彼女の料理だけでなく、調理時のスキルの使い方に驚くばかり。この料理道で皆を振り回していくものの、次第に愛される存在になっていく。
これは、ちょっぴり恋に鈍感で天然な唯と、もふもふ従魔や仲間たちとの異世界のんびり物語。
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