私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ

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第9話 隣国という舞台 ー国の気配と風景ー

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隣国の王都は、王国のそれとはまるで空気が違っていた。気温は穏やかに暖かく、農作物が育ちやすい。資源も豊富で、土地そのものに余裕がある。

だが、違いはそれだけではない。
街並みを形作る建築物の思想そのものが、王国とは決定的に異なっていた。

王国の建物は、まず「見せる」ことを前提に造られている。

正面からの威圧感。
左右対称の美しさ。
高く掲げられた紋章と、無駄に広い階段。

誰が上で、誰が下か。その序列を、建物そのものが語っていた。

一方、隣国の建物は違う。

正面だけが立派、という造りは少ない。
入口は複数あり、用途によって使い分けられている。通路は広く、行き止まりが少ない。

人が滞らないように。物が止まらないように。

それが、設計段階から徹底されていた。王城ですら、その思想は変わらない。

王国の王城が「象徴」であるなら、
隣国の王城は「機能」だった。

天井は高いが、音が反響しすぎない。
柱の位置は視界を遮らないよう計算され、
装飾は最小限で、埃が溜まりにくい。

廊下には無駄な段差がなく、書類や荷を運ぶ者が走れるだけの幅が確保されている。

「……建物が、働いていますね」

エリシアは、思わずそう口にした。

建物が人に命令するのではない。
人の動きを、妨げない。

その思想は、この国が「誰を主役にしているか」を雄弁に語っていた。

――この国では、黙って働く者ほど、無視されない。

建物が、そう教えている。

そして、音が違う。

石畳を踏む馬車の音。
港から運ばれる荷の軋む音。
市場で交わされる商人たちの声。

それらが、妙に落ち着いている。

王国の王都にあった、
焦燥と緊張が混じったざわめきが、ここにはない。

隣国は海と陸の交易路が交わる位置にあり、港町を起点に発展した国だった。王城は港から少し離れた高台にあり、碧い海と秩序だった人の流れを見下ろしている。

この国では、
「動いていること」そのものが価値だった。

誰が言ったか。
誰の名義か。
どの家の血か。

そうしたものは後回しにされる。

代わりに問われるのは、
「それで、何が整ったのか」
ただ、それだけだ。

辺境の屋敷から王都へ向かう馬車の中、エリシアは窓越しに街並みを眺めながら呟いた。

「……落ち着いていますね」

港へ続く道は広く、荷を積んだ馬車がすれ違っても滞らない。

露店の配置も一見無秩序に見えて、人の流れを妨げないよう計算されている。

「無駄が、少ないです」

それは感想であり、評価だった。

ロザリーは静かに頷く。

「王国と違って、ここは“止まる”ことを嫌いますから」

止まるということは、滞るということ。
滞るということは、損失を生むということ。

それが、この国の常識だった。

エリシアの商会が隣国で最初に関わったのは、港の管理局だった。

鉱石輸送の件で、港湾管理、貴族家、商会、軍需担当がそれぞれ異なる条件を出し、話が完全に止まっていた。

誰も嘘は言っていない。だが、誰も全体を見ていない。

だから話が噛み合わない。
時間だけが過ぎ、決断が下されない。

「まず、責任の所在を一つにしましょう」

エリシアの言葉に、嘲笑はなかった。

返ってきたのは、淡々とした問いだけだ。

「誰が、責任を持つ?」

「港湾管理局です。ただし――」

彼女は条件を一つずつ整理していく。

どこで引き渡すのか。誰が輸送費を負担するのか。遅延が起きた場合、どこまでが不可抗力か。

紙の上で線が引かれ、言葉が定義されていく。

その様子を、周囲は黙って見ていた。魔法のように問題が消えていく過程を、ただ静かに。

誰も、彼女の年齢を口にしなかった。

重要なのは、話が進んでいること。それだけだった。

数刻後、止まっていた契約は、ようやく形を成した。

「……問題は、解消されましたね」

エリシアは頷く。

「はい。あとは、期限を守るだけです」

それが、商会の仕事だった。

目立たず、誇らず、だが確実に。

王城の一角に設けられた簡易執務室で、エリシアはいつものように机に向かう。

書類の束。
整理された契約案。
湯気の立つ茶。

「お茶が冷めますよ、エリシア様」

「大丈夫です。あと少しだけ」

ペンを走らせながら、彼女は迷いなく判断を下していく。

どこを削るか。
どこを残すか。
譲れる部分と、譲れない部分。

それは感情ではなく、経験から導かれる選択だった。

十七歳という年齢は、ここでは意味を持たない。王国では、彼女が前に出れば反対意見が出た。だから影に回るしかなかった。

だが、ここでは違う。

若い、とは思われる。だがそれ以上に、

「この人は、分かっている」

そう思わせる積み重ねが、すでにあった。

王城の高い窓から差し込む光が、机の上の書類を照らす。同じ光のはずなのに、王国で浴びていたものとは違って感じられる。

ここでは、誰かの影に入らなくていい。
誰かの名を借りなくていい。
仕事が、仕事として見られる。

その事実が、静かに、だが確かに胸を満たしていた。

エリシアはまだ知らない。この国で、彼女の仕事ぶりが、すでに“王子の耳”に届いていることを。

だがそれは、偶然でも幸運でもない。

彼女が積み上げてきたものが、正しく見える場所に、辿り着いただけだった。

そしてエリシアは、一つ一つ仕事をこなしていくことに、小さな幸福を覚え始めていた。
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