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八
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オリビア父目線
――あの娘は、誰だ?
あれは、本当に――私の娘だったのか?
書斎の扉が閉まったあとも、私はしばらく、椅子から立ち上がれずにいた。帳簿が、まだ机の上にある。叩きつけられたまま。
脱税。
横領。
不正申告。
どれも、見て見ぬふりをしてきたものだ。いや――考えないようにしてきた、と言った方が正しい。だが。あの娘は、それを「全部」並べた。言い逃れの余地もなく。
怒鳴りもせず。感情も見せず。
まるで――判決を読む裁判官のように。
(……いつからだ)
思い返す。あの娘は、昔は確かに、可愛い娘だった。小さな手で私の指を掴み、笑えば、屋敷が明るくなるような子だった。
――だが。成長するにつれて、あの目が。
前の妻、ミリアージュにあまりにも似てきていた。ミリアージュは、美しい女だった。ただし、それは人を安心させる類の美しさではない。艶やかな黒に近い濃紺の髪は、光を受けると紫を帯び、一本一本が意志を持っているかのように、背に沿って静かに流れていた。顔立ちは整いすぎていない。だが、視線を奪う。
切れ長の目。
睫毛は長く、伏せると影を落とす。
瞳の色は、深い紫。
宝石に例えるなら、研磨されすぎていないアメジストだ。覗き込めば、光より先に“深さ”が見える。微笑めば、柔らかい。
だが、怒っていなくとも、その奥に感情を隠しているのが分かる。
――読めない女。
それが、ミリアージュだった。声は低すぎず、高すぎず、静かな水面のように澄んでいる。感情を荒げることは、ほとんどなかった。叱責も、懇願も、泣き言もない。
ただ、事実を述べる。
「それは、正しくありません」
「必要ありません」
「その判断は、損です」
そう言われるたび、私は――なぜか、言い返せなくなった。彼女は、剣を振るわない。命令もしない。
それでも、
人は動いた。
屋敷の空気が整い、使用人の動きが揃い、無駄な争いが消えていった。彼女が、そこに“いるだけ”で。
それが、聖魔法の影響だったのか、彼女自身の資質だったのか。今となっては、分からない。
ただ一つ確かなのは――
彼女は、支配しないのに、支配していた。
そして。娘が成長し、あの目を持つようになったとき。私は、思い出してしまっ
静かで、
強くて、
何も言わずに、すべてを見通すような――
あの目。
私は、それが怖かった。だから、避けた。
タミアを後妻に迎え、屋敷の空気が変わっていくのを私は、止めなかった。きつく当たられていることも、分かっていた。
侍女たちが、義母の顔色をうかがいながらあの娘を扱っていることも。
――それでも。
(公爵令嬢なら、言い返せ)
(耐えられねば、当主の娘にはなれぬ)
私は、そう思い込んでいた。いや。そう思うことで、目を逸らしていた。あの娘が何も言わないのを、「従順」だと思っていた。
違う。
ただ、信じていなかっただけだ。今。
中庭で、メイドたちが怯えきった顔で頭を下げ、妻が床に座り込み、言葉を失っていた。あの女は、私の前ではいつも強気だったはずなのに。
なのに。あの娘の前では、一言も、発せなかった。
(……聖女?)
違う。あれは、そんな生易しいものではない。
祈りも、
神殿も、
もう関係ない。
あの娘は――力を持つ者の目をしていた。
支配する者。切り捨て己を曲げない覚悟を持つ者。
そして何より――私を、父として見ていない目。
あれは、「親」ではなく、「前任者」を見る視線だった。
(……私は)
背中に、冷たい汗が流れる。
私は、あの娘を娘だと思っていた。だが、違う。
あの娘は、もう――この家の“主”だ。
そして私は。ただ、居場所を与えられているだけの過去の当主にすぎない。喉が、ひくりと鳴った。あの娘の声が、耳に蘇る。
『これで、公爵家は救われます』
『――あなた以外は』
……あの娘は、誰だ?
いや。何者に、なってしまったんだ?
答えは、もう分かっている。
――
逆らってはいけない存在だ。
私は、初めて心の底から、自分の娘を恐れた。
――あの娘は、誰だ?
あれは、本当に――私の娘だったのか?
書斎の扉が閉まったあとも、私はしばらく、椅子から立ち上がれずにいた。帳簿が、まだ机の上にある。叩きつけられたまま。
脱税。
横領。
不正申告。
どれも、見て見ぬふりをしてきたものだ。いや――考えないようにしてきた、と言った方が正しい。だが。あの娘は、それを「全部」並べた。言い逃れの余地もなく。
怒鳴りもせず。感情も見せず。
まるで――判決を読む裁判官のように。
(……いつからだ)
思い返す。あの娘は、昔は確かに、可愛い娘だった。小さな手で私の指を掴み、笑えば、屋敷が明るくなるような子だった。
――だが。成長するにつれて、あの目が。
前の妻、ミリアージュにあまりにも似てきていた。ミリアージュは、美しい女だった。ただし、それは人を安心させる類の美しさではない。艶やかな黒に近い濃紺の髪は、光を受けると紫を帯び、一本一本が意志を持っているかのように、背に沿って静かに流れていた。顔立ちは整いすぎていない。だが、視線を奪う。
切れ長の目。
睫毛は長く、伏せると影を落とす。
瞳の色は、深い紫。
宝石に例えるなら、研磨されすぎていないアメジストだ。覗き込めば、光より先に“深さ”が見える。微笑めば、柔らかい。
だが、怒っていなくとも、その奥に感情を隠しているのが分かる。
――読めない女。
それが、ミリアージュだった。声は低すぎず、高すぎず、静かな水面のように澄んでいる。感情を荒げることは、ほとんどなかった。叱責も、懇願も、泣き言もない。
ただ、事実を述べる。
「それは、正しくありません」
「必要ありません」
「その判断は、損です」
そう言われるたび、私は――なぜか、言い返せなくなった。彼女は、剣を振るわない。命令もしない。
それでも、
人は動いた。
屋敷の空気が整い、使用人の動きが揃い、無駄な争いが消えていった。彼女が、そこに“いるだけ”で。
それが、聖魔法の影響だったのか、彼女自身の資質だったのか。今となっては、分からない。
ただ一つ確かなのは――
彼女は、支配しないのに、支配していた。
そして。娘が成長し、あの目を持つようになったとき。私は、思い出してしまっ
静かで、
強くて、
何も言わずに、すべてを見通すような――
あの目。
私は、それが怖かった。だから、避けた。
タミアを後妻に迎え、屋敷の空気が変わっていくのを私は、止めなかった。きつく当たられていることも、分かっていた。
侍女たちが、義母の顔色をうかがいながらあの娘を扱っていることも。
――それでも。
(公爵令嬢なら、言い返せ)
(耐えられねば、当主の娘にはなれぬ)
私は、そう思い込んでいた。いや。そう思うことで、目を逸らしていた。あの娘が何も言わないのを、「従順」だと思っていた。
違う。
ただ、信じていなかっただけだ。今。
中庭で、メイドたちが怯えきった顔で頭を下げ、妻が床に座り込み、言葉を失っていた。あの女は、私の前ではいつも強気だったはずなのに。
なのに。あの娘の前では、一言も、発せなかった。
(……聖女?)
違う。あれは、そんな生易しいものではない。
祈りも、
神殿も、
もう関係ない。
あの娘は――力を持つ者の目をしていた。
支配する者。切り捨て己を曲げない覚悟を持つ者。
そして何より――私を、父として見ていない目。
あれは、「親」ではなく、「前任者」を見る視線だった。
(……私は)
背中に、冷たい汗が流れる。
私は、あの娘を娘だと思っていた。だが、違う。
あの娘は、もう――この家の“主”だ。
そして私は。ただ、居場所を与えられているだけの過去の当主にすぎない。喉が、ひくりと鳴った。あの娘の声が、耳に蘇る。
『これで、公爵家は救われます』
『――あなた以外は』
……あの娘は、誰だ?
いや。何者に、なってしまったんだ?
答えは、もう分かっている。
――
逆らってはいけない存在だ。
私は、初めて心の底から、自分の娘を恐れた。
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