魔法使いの漂流者

三幸奨励

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絶海孤島編

第9話 ヴィラ

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朝、ファルが地図を広げた。

「東側がまだほとんど白紙だ。今日はここを潰したい」

指先が、地図の右側を叩く。
川の先、森が深くなる方向。昨夜、気配がした方角だ。

「賛成」と僕は言った。「昨夜の気配も、東だったから」

ファルが少し目を細めた。

「今朝は感じたか」
「《波長理解》で確認したけど、遠くに薄く残ってる程度だった。今のところは来てない」
「……行くなら早い方がいい。戻りに時間がかかるようなら引き返す」
「了解」

シロがすでに立ち上がっていた。

「先行する」

ドナンが作業の手を止めずに言った。

「何かあれば戻れ」
「もちろん」

レイスが設計図から顔を上げた。

「壁の一面は今日中に終わらせる。夕飯までには帰ってきてくれ」

「了解です」

三人と一匹で、東へ向かった。



森が深くなるにつれて、空気が変わった。

じんわりと重い感覚。
魔力が濃い。

「《波長理解》に引っかかってくる」

「私も感じる」とファルが言った。「地面が違う。踏み心地が重い」

探索者の感覚だ。
足裏で地面を読んでいる。

シロが低く言った。

「魔力が溜まっている場所がある。近い」

「どっちだ」

「……まっすぐ」

三人で足を進める。
木々の密度が増す。光が届きにくくなる。

そして、開けた。

崖の手前に出た。
高さ十メートルほどの岩壁。その根元に、暗い口が開いていた。

洞窟だ。

ただの洞窟じゃない。
入口から、魔力が漏れ出している。濃い。石柱の丘で感じたものに似ているが、密度が違う。こちらの方が、ずっと濃縮されている。

《波長理解》を向けると、揺らぎが重なり合って見えた。

「……すごい濃度だ」

『高濃度魔力空間を確認。内部の構造は不明。通常の洞窟とは異なる魔力の流れを検知します』

「ダンジョンだ」とファルが言った。声が、少し変わった。探索者の目になっている。

「見たことあるんですか」

「数度。ただ、これほど濃度の高いものは初めて見る」ファルが入口を観察しながら言った。「魔力が外に漏れているということは、内部は相当の密度だ。無策で入れるものじゃない」

「今日は入らない方がいいか」

「絶対に入るな」ファルが断言した。「準備なしでここに入ったら、魔力酔いを起こす。最悪、出られなくなる」

「魔力酔い」

「空気中の魔力が濃すぎると、体が制御できなくなる。スキルが暴走したり、判断力が落ちたりする。探索者なら基本中の基本だ」

「……知らなかった」

「お前は冒険者だろ。習わなかったのか」

「底辺冒険者だったので」

ファルが少し間を置いた。

「……なるほど」

それ以上は言わなかった。
優しい人だと思った。

シロが入口の傍で鼻を利かせていた。

「中に魔物はいるか」

「いる。ただ、奥だ。入口付近は今のところ静かだ」

「今のところ、か」

「濃度が高い場所の魔物は強い。ここから先は別の話になる」とファルが言った。「準備を整えてから来よう。今日は場所を把握するだけでいい」

僕は地図を広げた。

崖の位置。洞窟の入口。周囲の地形。
丁寧に書き加える。

「ファルさんって、ダンジョンに入るとき何を準備するんですか」

「魔力遮断の道具。解毒薬。光源。それと、必ず複数人で入る。一人では絶対に行かない」

「そういうルールがあるんですか」

「私が決めたルールだ」ファルが静かに言った。「一度、仲間を亡くしてから」

誰も何も言わなかった。

風が吹いて、洞窟の入口から魔力の流れが揺れた。

「……行こう」とファルが言った。「情報は十分だ」

地図を折りたたんで、来た道を戻り始めた。



帰り道の途中だった。

《波長理解》が、左側で揺れた。

複数。
それも、かなり多い。

「シロ」
「知ってる。七、いや八つ」

ファルが剣に手をかけた。

「どんな魔物だ」

「中型。魔力は中程度。ただ、数が多い」

草むらが揺れた。
現れたのは、蜥蜴に似た魔物だった。直立して歩き、爪が長く鋭い。鱗が黒光りしている。

一匹、二匹——気づけば八匹が半円を描いて囲んでいた。

『警告。黒鱗蜥蜴型魔物です。群れで行動し、連携攻撃を得意とします。個体の強さより、数と連携が脅威です』

「囲まれた」と僕は言った。

「見れば分かる」とファルが静かに答えた。声は落ち着いている。

シロが僕の前に出た。

「後ろを守れ」

「うん」

ファルが剣を抜いた。
音がなかった。鞘から剣が出る音すら、消えていた。

「カルド。弱点は」

「《慧眼》で確認します」

八匹を順番に見る。
鱗の薄い場所。首の付け根、左側。脇腹の鱗が逆立っている場所。そこだ。

「首の左側と、脇腹の鱗が逆立ってる場所。そこが薄い」

「了解」

魔物が動いた。

三匹が同時にファルへ向かう。
二匹がシロへ。
三匹が僕へ。

「来る——」

《高速移動》で横に跳ぶ。
一匹をやり過ごして、火球を脇腹に叩き込む。

命中。鱗が割れた。
一匹が怯む。

シロが向かってきた二匹の間をすり抜けた。
速い。魔物が反応できていない。
振り返りながら、一匹の首に牙を当てる。正確に、弱点を狙った。

一匹、動かなくなった。

ファルの方を見た。

三匹を相手に、まったく後退していない。

剣が、光の軌跡を描く。
一匹の攻撃を流して、そのまま体を回転させて別の一匹の首を払う。流れるような動作だった。止まっていない。常に動き続けている。

「……すごい」

思わず声が出た。

『ファル氏の剣技は高度な連携対応型です。複数の攻撃を一つの動作で捌きながら反撃に転じています』

案内人が珍しく他人のスキルを分析した。

残り五匹。
僕が怯ませた一匹にシロが追撃を入れて、二匹目が倒れた。

残り四匹。

ファルが三匹のうち一匹を仕留めた。

残り三匹。

三匹が一度下がって、また半円を作り直そうとした。

「逃がすな」とファルが言った。

シロが一匹を追って、森の中に消えた。
僕が《慧眼》で残り二匹の弱点を確認して、収束した火球を脇腹に叩き込む。

一匹、動かなくなった。

残り一匹。

その一匹が、少し距離を取った。
仲間が減ったことで、本能が退くよう叫んでいるのかもしれない。

でも、遅かった。

ファルが地面を蹴った。

剣を大きく引いて、弧を描くように振る。

風が鳴った。

一撃。

それは斬撃というより、波だった。
剣の軌跡が空気ごと圧縮されて、魔物の鱗を吹き飛ばす。

広範囲に、魔力の余波が広がった。

魔物が倒れた。

静寂。

シロが森から戻ってきた。

「こちらも終わった」

全滅。

「……ファルさん、今の最後の技」

ファルが剣を鞘に戻した。

「《圧剣》だ。魔力を剣に乗せて、広範囲に解放する。消耗が激しいから最後の手段だが」

「あれがスキルなんですか」

「私のスキルだ」

「一つだけ持ってるということですか」

「そうだ」ファルが少し笑った。「たった一つだが、十分だと思っている」

《圧剣》。
広範囲の剣技。
ファルが探索者として一人でも生き残ってきた、その力の核心だ。

「かっこいいです」

ファルが少し目を逸らした。

「……慣れないことを言うな」

シロが「同感だ」と短く言った。
ファルの耳が、少し赤くなった気がした。



拠点に戻ると、壁の一面が完成していた。

岩壁と板材が組み合わさって、しっかりとした壁になっている。昨日の屋根に続いて、小屋らしい形になってきた。

「おかえり」とレイスが言った。「何かあったか」

「いくつか」

食事の準備をしながら、今日の報告をした。
ダンジョンの発見。魔物との戦闘。

ドナンが「ダンジョンか」と低く言った。

「行くつもりか」

「準備してから。ファルさんが必要なものを教えてくれました」

「魔力遮断の道具は作れる」とドナンが言った。「素材があれば」

「どんな素材ですか」

「魔力を通さない鉱石だ。この島にあるかどうか」

「調べてみます」

レイスが「ダンジョンの濃度はどのくらいだったか」と聞いた。

「石柱の丘より高かった。案内人が既存データと一致しないと言ってました」

レイスが少し目を細めた。

「この島は、普通じゃないな」

「そうみたいです」

「島全体が、何かの力で維持されているのかもしれない」

「そう感じることはあります」

「石柱。高濃度の洞窟。山の頂の存在。東の気配」レイスが静かに並べた。「全部、繋がっているように見える」

「……僕もそう思ってます」

食事が始まった。

今日はファルが仕留めた黒鱗蜥蜴の肉を焼いた。脂が多くて、香ばしい匂いが漂う。

「うまい」とドナンが言った。

「鱗を剥ぐのが大変でしたけど」

「鱗は素材になる。捨てるな」

「取っておきます」

食事が進むうちに、会話が広がった。

レイスが「ヴァルク国を出てから、各地を見てきたが」と切り出した。

「世界は今、穏やかではない」

「魔王の話ですか」

「お前も知っているか」

「冒険者だったので、噂程度は」

「五年ほど前から、魔王の動きが活発になっている」とレイスが言った。「幹部が各地に現れて、国を脅かしている。ヴァルク国も無関係ではない」

「ヴァルク国にも来たんですか」

「幹部の一人が国境近くまで来た。ただ」

レイスが少し間を置いた。

「その幹部は、ヴィラが倒した」

「ヴィラ」

「世界最強の魔法使いと呼ばれている人間だ」とファルが言った。「単独で魔王幹部を撃破した。それだけでも化け物じみているが、エクストラスキルを持っているという噂がある」

エクストラスキル。

「……エクストラスキルって、なんですか」

「複数のスキルが融合して生まれる、上位のスキルだ」とレイスが言った。「理論上は存在すると言われていたが、実際に持つ者はほとんどいない。魔王や幹部クラスに稀に見られるという話だが」

「人間でも持てるんですか」

「ヴィラが証明したとも言われている。ただ、確認した者はいない。本人が姿を見せないから」

「どんな人なんですか」

「謎が多い」とファルが言った。「単独行動で、国に属さない。助けを求めていない場所にも現れることがある。悪意があると思われている節もあるが、実際に害を与えたという話は聞かない」

「……何がしたいんでしょうね」

「さあ」とファルが言った。「でも、幹部を一人減らしてくれたのは事実だ。それだけは感謝している」

ドナンが「会ったことがある」と言った。

全員が、ドナンを見た。

「いつですか」

「旅の途中で。一度だけ」

「どんな人でしたか」

ドナンはしばらく考えた。

「……静かな人だった。目が、遠くを見ていた」

それ以上は言わなかった。
でも、ドナンが「静かな人だった」と言ったことが、何となく印象に残った。

レイスが「ヴィラのことは誰も正確には知らない。ただ、存在しているということは確かだ」と締めた。

「いつか会ってみたいな」

「会えるかどうかも分からない」とファルが言った。「でも、お前なら会えるかもしれないな」

「なんでですか」

「変な人間には、変な人間が引き寄せられるから」

シロが短く「同感だ」と言った。

僕は少し笑った。

「ありがとうございます、たぶん」



夜が深まった。

レイスとドナンが先に寝た。
ファルが番をしながら、剣の手入れをしている。

僕は地図に今日の発見を書き加えた。

ダンジョンの入口。周囲の地形。帰り道の魔物の生息域。

「ファルさん」
「何だ」
「今日の《圧剣》、本当にかっこよかったです」

ファルが手を止めた。

「……さっきも言っただろ」
「もう一回言いたくて」
「……」

ファルが剣の手入れを再開した。

「お前は変なところで素直だな」
「そうですか」
「悪いことじゃない」

しばらく沈黙が続いた。

「ファルさんが仲間を亡くした話」

「……聞くな」

「ごめんなさい」

「いや」ファルが短く言った。「いつか話す。今じゃないだけだ」

「分かりました」

「お前は待てる人間か」

「待てます」

ファルが少し息を吐いた。

「……そうか」

その一言だけだった。
でも、何かが決まった気がした。

シロが「寝ろ」と言った。

「もう少し」

「番は私がやる」

「シロも寝ないと」

「眠くない」

そう言いながら、シロは目を閉じた。

「……眠そうだけどな」

返事はなかった。

地図を折りたたもうとしたとき、《波長理解》が揺れた。

東だ。

確認する。
昨夜より、大きい。
昨夜より、近い。

まだ遠い。でも、昨夜は感じなかった輪郭がある。

『東方向の高濃度魔力反応、増大を確認。昨夜比、約一・四倍。ただし接近はしていません』

「……案内人、これって」

『不明です。ただ』

一拍置いた。

『反応のパターンが、ダンジョンの魔力と類似しています』

ダンジョンと、同じパターン。

「……関係があるってこと?」

『断定できません。ただ、この島の魔力構造に共通点がある可能性があります』

石柱の丘。ダンジョン。東の気配。
レイスが言っていた通り、全部繋がっているのかもしれない。

僕は東の方向を見た。
暗い森。その先に何かがいる。

怖いかと聞かれれば、怖い。
でも、知りたいとも思う。

「……また明日、考えよう」

地図を折りたたんだ。

火が、静かに燃えている。
川の音が続いている。

東の気配は、今夜も消えなかった。
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