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インスタントウェディング
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光曜日の朝。カーテン越しの柔らかな陽射しを浴びてゆったりと目覚め、ふかふかのベッドで微睡んだままミリアを待つ。平和で怠惰な至福の時間だ。
「マリ様、おはようございます。素晴らしいお日和ですわ」
「おはよー、ミリア。なんか嬉しそうだね」
ベッドから上半身だけを起こし、あくびを噛み殺す。ミリアは輝くような笑顔でカーテンを開けた。
「本日は来週の挙式に向けてのお打ち合わせです! ドレスの色を決めてしまいましょう」
「へー。おめでたい。……ん?」
きょしき。キョシキ。挙式。結婚式、ということだ。誰の? 私が選ぶってことは、私の? ……え、私、結婚するの? 聞いてないんですけど。
いや、聞いてはいる。もちろん自分がディートリヒと婚約状態にあることは理解している。合意事項だ。王太子殿下の表向きの求婚を追認し、周囲の扱いも聖女兼次期王太子妃となっていた。
業務提携契約書に判子を押したことを忘れていたわけじゃない。でも「いつ」とは聞かされていなかった。
来週って。昨日まで何の素振りも気配もなかったじゃないですか。
「え、来週? 来週ってあの、次の週って意味の来週? 来秋……来年の秋じゃなくて?」
「来週の土曜日ですわ。いよいよなのですね」
そんなしみじみと言われても、当事者である私がまだ話についていけてないよ、ミリア。
「マリ様、もしかして殿下からお聞きになっておられなかったのですか?」
「聞いてない……っていうか、こんな土壇場に言われるとは思わなかった。王族の結婚式ってそんなインスタントにできるものなの? もっとこう、半年とか一年かけて国の内外に告知して、準備して……ってやるものじゃないの?」
「ご安心くださいませ。マリ様がいらっしゃって以来、殿下は『鉄は熱いうちに打て』と仰って、驚異的な速さで準備を進めておられましたもの」
鉄は熱いうちに打て。使いどころが間違っている気がする。
「さあ、マリ様。ドレスのお色はいかがなさいますか? 白、それともクリーム色? 淡いグリーンもお似合いになると思います」
「あ、うん。ウェディングドレスって白でなくてもいいんだ」
「殿下はマリ様のお好きなように、との仰せでした。エルハーフェン王家の色は赤ですから、ディートリヒ殿下は赤を基調としたお召し物になさるそうです」
「あー。じゃあ緑とかがいいのかな? 補色だし。でもびかびかのクリスマスカラーみたいになったら嫌だな……」
「でしたらこの淡い緑の布地にいたしましょう。マリ様の美しい黒髪も際立ちますわ」
ミリアが見せてくれた見本帳にはシックで光沢のない落ち着いたセージグリーンの布がある。うん、よさそうだ。
ディートリヒの衣装を聞いてそれに合わせるという話になった途端に気持ちが仕事モードに入って落ち着いた。
商談のスーツ選びだと思えばいい。純白のウェディングドレスなんて着せられたら「結婚!」という雰囲気が前面に出すぎて死ぬところだった。危ない危ない。
さらにミリアはサイドテーブルに運ばれていた大きな宝石箱を開けてみせる。
「装飾品はこちらの中からお選びくださいませ。王家に代々伝わる宝飾品でございます」
鈍器として作られたのではないかと疑いたくなる重厚なアクセサリーの数々。ティアラ、ネックレス、イヤリング、ブレスレット。どれも一つで家が買えそうな代物だ。
「うわあ……」
「マリ様のお好きなものをお選びください。ただし王妃様のご意見も伺いながら最終決定となります」
「じゃあもう全部リーゼロッテ様に選んでもらっ」
「だめですわ! マリ様の結婚式なのですもの!」
その理屈だったらディートリヒに選んでもらうのはいいのだろうか。ディートリヒの結婚式でもあるのだから。なんて屁理屈を捏ねたらミリアに怒られそうだ。
「この辺かなー。目立ちすぎないやつがいい」
適当にエメラルドが嵌まった軽そうなアクセサリーを指し示す。ミリアは嬉しそうにそれらを報告書に書きつけていった。
「殿下の瞳の色ですわね。さすがはマリ様です……!」
言われてみればそうだ。全然考えてなかった。でも水を差すのも何なのでそれが理由で選んだことにしておこう。
周囲で勝手に事が進んでいる分、私自身が決めなければならないことは少ないようだ。ドレスとアクセサリーが暫定的に決まってしまうと、ミリアがいつものように朝食を運んできてくれた。
二人でお茶を飲み、多めの朝ごはんを食べながら、ミリアの表情がふと淋しげなものに変わる。
「……マリ様が正式に結婚なされば、お立場が変わります。私の身分ではもう専属としてお傍に仕えることは許されないかもしれませんね」
「え?」
「王太子妃殿下ともなれば、筆頭侍女には高位貴族の令嬢が就くものですわ」
「え、やだ、無理」
つい限界オタクみたいなことを言ってしまった。自分が来週結婚するということよりも非常事態だ。
この世界にきて以来、私の精神衛生が保たれているのは完璧超人メイドであるミリアのおかげなのだ。
美味しい紅茶、絶妙な温度のお風呂、何よりも私の怠惰を全肯定してくれる有能ぶり、すべてを兼ね備えた物理的かつ精神的な頼もしさ。
彼女なしの王宮生活なんて、福利厚生の質が地に落ちる。
「だめだめだめ。私はミリアについてきてほしい。王太子妃っていうか、いずれ王妃になってもミリア以外考えられない」
「ま、マリ様……!」
感極まったミリアの目尻に涙が滲む。今の、なんかプロポーズみたいだったな。
「嬉しいです。私、死ぬまでマリ様にお仕えいたします! たとえ火の中、水の中、地の果てまでお供しますわ!」
「いやそこまでしなくていいけど。ちゃんと自分の幸せも考えてね?」
「マリ様に仕えることこそが私の至上の幸福です!」
うーん、忠誠心が重い。
朝食後、私はディートリヒの執務室を訪ねることにした。とりあえず私の生活基盤であるミリアの離職防止には成功したので、次はこの急すぎる納期の決定者に一応のクレームを入れにきたのだ。
「失礼しまーす」
部屋の中は相変わらず書類の山。この国の行政機能の何割がこの部屋に集中しているのか心配になるレベルである。
ヴィルヘルム国王もリーゼロッテ王妃も息子に業務を任せすぎではないだろうか。二人ともすでに隠居したような暮らしぶりでいる。尤も、聖女召喚が成功するとも限らなかったのだから王国にとって必要な厳しさではあったのだろうけれど。
書類の塔の向こう側で、ディートリヒ・ギュンター・フォン・エルハーフェン王太子殿下は精密機械のように万年筆を走らせていた。
「マリ。どうした。ドレスの選定は終わったか?」
「うん。ミリアがリーゼロッテ様のところに報告書を持っていってるところ。っていうか私たち、結婚するんですね」
「何を今さら。最初にそう言ったはずだが」
「それはそうなんですけど。来週っていくらなんでも急すぎません?」
ディートリヒは不思議そうに首を傾げて手を止めた。
「特に問題はないはずだが」
「いやー、結婚式ってもっとこう、時間をかけて準備するものじゃないんですか。それも王太子、次期国王の結婚式でしょう。招待状は? 料理の手配は? 警備体制は?」
私が矢継ぎ早に問い詰めると、ディートリヒは抽斗から一冊の分厚いファイルを取り出して机の上に置いた。表紙には『聖女婚姻儀礼進行計画書』とある。
「急ではない。すべて手配済みだ。招待状なら君が召喚された時点で各領主に通達し、返信率は現時点で九割九分。料理は食材の調達ルートを三ヵ月前から確保し、厨房長がメニューを用意している。警備は万全、近衛騎士団と魔法研究室による配置計画を完了した」
「……え、いつの間にそんなことしてたんですか」
「君が図書室で昼寝をしたり、中庭でエリーゼと泥遊びをしている間にな」
ぐうの音も出ない。私のほうは「結婚するぞ」と言われて「了解です」で終わったつもりでいたけれど、ディートリヒは当事者として綿密に計画を立てていたわけだ。
「ちゃんと仕事してたんですね……」
「当然だろう。私は王太子なのだぞ」
聞きようによっては権力を笠に着た嫌味な台詞となるはずの言葉が、「責任ある立場なのだから自分で働いて当然だろう」という意味で出てくる辺り、やはりディートリヒは真面目な仕事人間だ。
「王子様と結婚か……。嫌だなー」
「了承しただろう。今さら言うな」
「いや結婚自体に文句があるわけじゃなくて、王族の結婚式なんて華やかでだるそうな……格式が高そうなのが庶民的にはしんどいな、と思いまして」
ディートリヒは「なんだそんなことか」とでも言いたげに肩を竦め、計画書を開いた。
「派手なパレードや長い祝辞はすべてカットした。式典自体は一時間もかからない。その後、身内と主要貴族だけの食事会をして解散だ。君がやらねばならないことは特にない」
「それはとってもありがたいですね」
私の省エネ志向をよく理解してくれているプランニングだ。人生の一大イベントとか言ってただでさえ胃もたれしそうな重さがある結婚式、緊張で久々に気絶してもおかしくない。でも棒立ちで許されるならなんとかなるだろう。
それにしても、私が放ったらかしていたとはいえここまで一切詳細が耳に入ってこなかったのは不思議だ。
「私に相談しようとか思わなかったんですかね」
「君は聞かれたら面倒に思うだろう。『そっちで勝手に決めてくれ』と返されるのが分かっていて無駄な質問はしない」
「……へへ。よくご存知で」
「父上にも母上にも、必要なところには相談している。オルデンブルク伯爵にもな」
「オルデンブルク家にも?」
「私はエリーゼを捨てて君と結婚するのだ。万が一にもエリーゼの不名誉にならぬよう、慎重に進めねばならん」
ああ、そういう意味でも簡素な式にしたほうが好都合なのか。『婚約者を裏切って聖女を選んだ不実な男の結婚式』だから。相変わらずエリーゼ・ファーストが徹底している。
伯爵と良好な関係を継続できている辺り、ディートリヒはオルデンブルク家にとっても手放すには惜しい婚約者だったのだろうな。エリーゼが王妃向きの性格でさえあれば。
計画書を抽斗に戻してディートリヒは再び万年筆を手にした。
「いつでも式を挙げられる段階ではあった。公務を詰め込んでようやく私の予定を開けられたのが来週だったのだ」
「なんでそんな急いでるの? 予定さえ公表しておけばいつでもよかった気がするけど」
有能な王太子殿下の表情が崩れ、ディートリヒは苦々しく零した。
「……自分の理性が信用ならなくなったからだ」
「はあ?」
「最近、エリーゼが夢に出るのだ。夢の中の彼女は妻として私に微笑み、手作りのお菓子を差し出してくる。目が覚めると無性に彼女に会いたくなる。執務の最中にもふとした瞬間に窓の外を見て、彼女の姿を探してしまう自分がいる。それはいつものことだが」
いつものことなんかい。何を言っているのだろう、この人は。
「このままでは私は、エリーゼとよりを戻したくなる!」
「……」
馬鹿みたいに悲痛な叫びだった。
なんだ、いつもの病気、エリーゼへの愛情の熱暴走か。
「もし私が『やはり婚約破棄を白紙に戻してエリーゼと結婚する』と言えば、容易に叶えることができてしまうのだ。私は有能だからな」
「自分で言うな」
でも否定はできない。国王も王妃も彼を信頼しており、オルデンブルク家との仲も良好。ディートリヒとエリーゼの結婚は王国にとって良い取引で、積極的に止める者がいない。
でもあまりにも確固たる障壁として、エリーゼは王太子妃にしてはならない人物なのだった。ディートリヒは誰よりもそれを理解している。だからこそ、自分の感情を封じ込めるために既成事実が必要なのだ。
「最近、彼女を見るたびに思う。やはり私が守るべきだと。彼女の隣にいるべきだと。ノーランドに任せるのは気に障ると」
「私怨じゃん。フェリクスは有能ですよ」
「分かっている。ノーランドに問題があるわけではない。誰が相手であっても腹は立つ。理性ではなく感情が叫ぶのだ」
恋する男は大変だなあ。彼の中で理性と感情が激しく戦っている。そしてその戦いに、感情が勝ちそうになっているのだ。
「つまり、エリーゼと結婚しちゃわないために、既成事実として私と結婚してしまいたいわけですね」
「悪いか?」
「べつにいいですよ」
この結婚で特に私の生活が変わることはない。正直、本当にどっちでもいい。ただ一つの事項を除いては。
「でも、ミリアを解雇するのは無しでお願いします」
「ミリア? ……ああ、君の専属に指名したメイドか。解雇するつもりなどないが」
「よかったー。あ、それって殿下が王位を継いで私が王妃になっても続行ですよね?」
むしろ王妃になってしまえば私が自分の権限でもってメイドを指名できるだろうか。ディートリヒもそれくらいの職権乱用は許してくれそうな気がする。そう思っていたのに。
「彼女の給与は跳ね上がるだろう。王太子妃のメイドが今と同じ処遇では不当だからな」
「それは私も願ったりですけど。ミリア、めちゃくちゃ有能だし」
「高位貴族に匹敵する収入を得ることになる。それで生涯の財産を得た彼女が職を辞して田舎に帰って結婚すると言い出しても、私は引き留めない。その者の権利だからな」
「……え、えぇー……」
そんなの私だって止められないじゃないか。昇格も昇給もおめでたいことであって、「じゃあミリアが辞めない程度の給与アップに抑えてください」とは言えない。
結婚してもいいから、仕事をしなくなってもいいからミリアにはずっと私のそばにいてほしい。共に白髪が生えるまで。
来週には夫となる男の前で私もまた違う相手のことを考えていた。
私たち、ある意味ではお似合いなのかもしれない。
「マリ様、おはようございます。素晴らしいお日和ですわ」
「おはよー、ミリア。なんか嬉しそうだね」
ベッドから上半身だけを起こし、あくびを噛み殺す。ミリアは輝くような笑顔でカーテンを開けた。
「本日は来週の挙式に向けてのお打ち合わせです! ドレスの色を決めてしまいましょう」
「へー。おめでたい。……ん?」
きょしき。キョシキ。挙式。結婚式、ということだ。誰の? 私が選ぶってことは、私の? ……え、私、結婚するの? 聞いてないんですけど。
いや、聞いてはいる。もちろん自分がディートリヒと婚約状態にあることは理解している。合意事項だ。王太子殿下の表向きの求婚を追認し、周囲の扱いも聖女兼次期王太子妃となっていた。
業務提携契約書に判子を押したことを忘れていたわけじゃない。でも「いつ」とは聞かされていなかった。
来週って。昨日まで何の素振りも気配もなかったじゃないですか。
「え、来週? 来週ってあの、次の週って意味の来週? 来秋……来年の秋じゃなくて?」
「来週の土曜日ですわ。いよいよなのですね」
そんなしみじみと言われても、当事者である私がまだ話についていけてないよ、ミリア。
「マリ様、もしかして殿下からお聞きになっておられなかったのですか?」
「聞いてない……っていうか、こんな土壇場に言われるとは思わなかった。王族の結婚式ってそんなインスタントにできるものなの? もっとこう、半年とか一年かけて国の内外に告知して、準備して……ってやるものじゃないの?」
「ご安心くださいませ。マリ様がいらっしゃって以来、殿下は『鉄は熱いうちに打て』と仰って、驚異的な速さで準備を進めておられましたもの」
鉄は熱いうちに打て。使いどころが間違っている気がする。
「さあ、マリ様。ドレスのお色はいかがなさいますか? 白、それともクリーム色? 淡いグリーンもお似合いになると思います」
「あ、うん。ウェディングドレスって白でなくてもいいんだ」
「殿下はマリ様のお好きなように、との仰せでした。エルハーフェン王家の色は赤ですから、ディートリヒ殿下は赤を基調としたお召し物になさるそうです」
「あー。じゃあ緑とかがいいのかな? 補色だし。でもびかびかのクリスマスカラーみたいになったら嫌だな……」
「でしたらこの淡い緑の布地にいたしましょう。マリ様の美しい黒髪も際立ちますわ」
ミリアが見せてくれた見本帳にはシックで光沢のない落ち着いたセージグリーンの布がある。うん、よさそうだ。
ディートリヒの衣装を聞いてそれに合わせるという話になった途端に気持ちが仕事モードに入って落ち着いた。
商談のスーツ選びだと思えばいい。純白のウェディングドレスなんて着せられたら「結婚!」という雰囲気が前面に出すぎて死ぬところだった。危ない危ない。
さらにミリアはサイドテーブルに運ばれていた大きな宝石箱を開けてみせる。
「装飾品はこちらの中からお選びくださいませ。王家に代々伝わる宝飾品でございます」
鈍器として作られたのではないかと疑いたくなる重厚なアクセサリーの数々。ティアラ、ネックレス、イヤリング、ブレスレット。どれも一つで家が買えそうな代物だ。
「うわあ……」
「マリ様のお好きなものをお選びください。ただし王妃様のご意見も伺いながら最終決定となります」
「じゃあもう全部リーゼロッテ様に選んでもらっ」
「だめですわ! マリ様の結婚式なのですもの!」
その理屈だったらディートリヒに選んでもらうのはいいのだろうか。ディートリヒの結婚式でもあるのだから。なんて屁理屈を捏ねたらミリアに怒られそうだ。
「この辺かなー。目立ちすぎないやつがいい」
適当にエメラルドが嵌まった軽そうなアクセサリーを指し示す。ミリアは嬉しそうにそれらを報告書に書きつけていった。
「殿下の瞳の色ですわね。さすがはマリ様です……!」
言われてみればそうだ。全然考えてなかった。でも水を差すのも何なのでそれが理由で選んだことにしておこう。
周囲で勝手に事が進んでいる分、私自身が決めなければならないことは少ないようだ。ドレスとアクセサリーが暫定的に決まってしまうと、ミリアがいつものように朝食を運んできてくれた。
二人でお茶を飲み、多めの朝ごはんを食べながら、ミリアの表情がふと淋しげなものに変わる。
「……マリ様が正式に結婚なされば、お立場が変わります。私の身分ではもう専属としてお傍に仕えることは許されないかもしれませんね」
「え?」
「王太子妃殿下ともなれば、筆頭侍女には高位貴族の令嬢が就くものですわ」
「え、やだ、無理」
つい限界オタクみたいなことを言ってしまった。自分が来週結婚するということよりも非常事態だ。
この世界にきて以来、私の精神衛生が保たれているのは完璧超人メイドであるミリアのおかげなのだ。
美味しい紅茶、絶妙な温度のお風呂、何よりも私の怠惰を全肯定してくれる有能ぶり、すべてを兼ね備えた物理的かつ精神的な頼もしさ。
彼女なしの王宮生活なんて、福利厚生の質が地に落ちる。
「だめだめだめ。私はミリアについてきてほしい。王太子妃っていうか、いずれ王妃になってもミリア以外考えられない」
「ま、マリ様……!」
感極まったミリアの目尻に涙が滲む。今の、なんかプロポーズみたいだったな。
「嬉しいです。私、死ぬまでマリ様にお仕えいたします! たとえ火の中、水の中、地の果てまでお供しますわ!」
「いやそこまでしなくていいけど。ちゃんと自分の幸せも考えてね?」
「マリ様に仕えることこそが私の至上の幸福です!」
うーん、忠誠心が重い。
朝食後、私はディートリヒの執務室を訪ねることにした。とりあえず私の生活基盤であるミリアの離職防止には成功したので、次はこの急すぎる納期の決定者に一応のクレームを入れにきたのだ。
「失礼しまーす」
部屋の中は相変わらず書類の山。この国の行政機能の何割がこの部屋に集中しているのか心配になるレベルである。
ヴィルヘルム国王もリーゼロッテ王妃も息子に業務を任せすぎではないだろうか。二人ともすでに隠居したような暮らしぶりでいる。尤も、聖女召喚が成功するとも限らなかったのだから王国にとって必要な厳しさではあったのだろうけれど。
書類の塔の向こう側で、ディートリヒ・ギュンター・フォン・エルハーフェン王太子殿下は精密機械のように万年筆を走らせていた。
「マリ。どうした。ドレスの選定は終わったか?」
「うん。ミリアがリーゼロッテ様のところに報告書を持っていってるところ。っていうか私たち、結婚するんですね」
「何を今さら。最初にそう言ったはずだが」
「それはそうなんですけど。来週っていくらなんでも急すぎません?」
ディートリヒは不思議そうに首を傾げて手を止めた。
「特に問題はないはずだが」
「いやー、結婚式ってもっとこう、時間をかけて準備するものじゃないんですか。それも王太子、次期国王の結婚式でしょう。招待状は? 料理の手配は? 警備体制は?」
私が矢継ぎ早に問い詰めると、ディートリヒは抽斗から一冊の分厚いファイルを取り出して机の上に置いた。表紙には『聖女婚姻儀礼進行計画書』とある。
「急ではない。すべて手配済みだ。招待状なら君が召喚された時点で各領主に通達し、返信率は現時点で九割九分。料理は食材の調達ルートを三ヵ月前から確保し、厨房長がメニューを用意している。警備は万全、近衛騎士団と魔法研究室による配置計画を完了した」
「……え、いつの間にそんなことしてたんですか」
「君が図書室で昼寝をしたり、中庭でエリーゼと泥遊びをしている間にな」
ぐうの音も出ない。私のほうは「結婚するぞ」と言われて「了解です」で終わったつもりでいたけれど、ディートリヒは当事者として綿密に計画を立てていたわけだ。
「ちゃんと仕事してたんですね……」
「当然だろう。私は王太子なのだぞ」
聞きようによっては権力を笠に着た嫌味な台詞となるはずの言葉が、「責任ある立場なのだから自分で働いて当然だろう」という意味で出てくる辺り、やはりディートリヒは真面目な仕事人間だ。
「王子様と結婚か……。嫌だなー」
「了承しただろう。今さら言うな」
「いや結婚自体に文句があるわけじゃなくて、王族の結婚式なんて華やかでだるそうな……格式が高そうなのが庶民的にはしんどいな、と思いまして」
ディートリヒは「なんだそんなことか」とでも言いたげに肩を竦め、計画書を開いた。
「派手なパレードや長い祝辞はすべてカットした。式典自体は一時間もかからない。その後、身内と主要貴族だけの食事会をして解散だ。君がやらねばならないことは特にない」
「それはとってもありがたいですね」
私の省エネ志向をよく理解してくれているプランニングだ。人生の一大イベントとか言ってただでさえ胃もたれしそうな重さがある結婚式、緊張で久々に気絶してもおかしくない。でも棒立ちで許されるならなんとかなるだろう。
それにしても、私が放ったらかしていたとはいえここまで一切詳細が耳に入ってこなかったのは不思議だ。
「私に相談しようとか思わなかったんですかね」
「君は聞かれたら面倒に思うだろう。『そっちで勝手に決めてくれ』と返されるのが分かっていて無駄な質問はしない」
「……へへ。よくご存知で」
「父上にも母上にも、必要なところには相談している。オルデンブルク伯爵にもな」
「オルデンブルク家にも?」
「私はエリーゼを捨てて君と結婚するのだ。万が一にもエリーゼの不名誉にならぬよう、慎重に進めねばならん」
ああ、そういう意味でも簡素な式にしたほうが好都合なのか。『婚約者を裏切って聖女を選んだ不実な男の結婚式』だから。相変わらずエリーゼ・ファーストが徹底している。
伯爵と良好な関係を継続できている辺り、ディートリヒはオルデンブルク家にとっても手放すには惜しい婚約者だったのだろうな。エリーゼが王妃向きの性格でさえあれば。
計画書を抽斗に戻してディートリヒは再び万年筆を手にした。
「いつでも式を挙げられる段階ではあった。公務を詰め込んでようやく私の予定を開けられたのが来週だったのだ」
「なんでそんな急いでるの? 予定さえ公表しておけばいつでもよかった気がするけど」
有能な王太子殿下の表情が崩れ、ディートリヒは苦々しく零した。
「……自分の理性が信用ならなくなったからだ」
「はあ?」
「最近、エリーゼが夢に出るのだ。夢の中の彼女は妻として私に微笑み、手作りのお菓子を差し出してくる。目が覚めると無性に彼女に会いたくなる。執務の最中にもふとした瞬間に窓の外を見て、彼女の姿を探してしまう自分がいる。それはいつものことだが」
いつものことなんかい。何を言っているのだろう、この人は。
「このままでは私は、エリーゼとよりを戻したくなる!」
「……」
馬鹿みたいに悲痛な叫びだった。
なんだ、いつもの病気、エリーゼへの愛情の熱暴走か。
「もし私が『やはり婚約破棄を白紙に戻してエリーゼと結婚する』と言えば、容易に叶えることができてしまうのだ。私は有能だからな」
「自分で言うな」
でも否定はできない。国王も王妃も彼を信頼しており、オルデンブルク家との仲も良好。ディートリヒとエリーゼの結婚は王国にとって良い取引で、積極的に止める者がいない。
でもあまりにも確固たる障壁として、エリーゼは王太子妃にしてはならない人物なのだった。ディートリヒは誰よりもそれを理解している。だからこそ、自分の感情を封じ込めるために既成事実が必要なのだ。
「最近、彼女を見るたびに思う。やはり私が守るべきだと。彼女の隣にいるべきだと。ノーランドに任せるのは気に障ると」
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「分かっている。ノーランドに問題があるわけではない。誰が相手であっても腹は立つ。理性ではなく感情が叫ぶのだ」
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「つまり、エリーゼと結婚しちゃわないために、既成事実として私と結婚してしまいたいわけですね」
「悪いか?」
「べつにいいですよ」
この結婚で特に私の生活が変わることはない。正直、本当にどっちでもいい。ただ一つの事項を除いては。
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「それは私も願ったりですけど。ミリア、めちゃくちゃ有能だし」
「高位貴族に匹敵する収入を得ることになる。それで生涯の財産を得た彼女が職を辞して田舎に帰って結婚すると言い出しても、私は引き留めない。その者の権利だからな」
「……え、えぇー……」
そんなの私だって止められないじゃないか。昇格も昇給もおめでたいことであって、「じゃあミリアが辞めない程度の給与アップに抑えてください」とは言えない。
結婚してもいいから、仕事をしなくなってもいいからミリアにはずっと私のそばにいてほしい。共に白髪が生えるまで。
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