あがり

斗有かずお

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 コンコンコンコンコンコン……コンコンコンコンコンコン……。
 玄関ドアの内にいる住人の耳に、どう響こうがお構いなしの、「こんだけ叩いてるんだからよ、とにかく開けろや」と言いたげなノック音。
 掛布団と毛布をかぶり、うつ伏した猪野一郎は、浅い眠りから目覚めた。
(……同業者だな、この叩き方は。もう仕事に励む時間かよ。ったく、くたびれたアラフォー男の貴重な休日の昼寝の邪魔をしやがって)
 パイプベッドの脇にあるカラーボックスの上に目をやった。目覚まし時計の銀色のベルが、ガラス窓越しに真冬の黄色い西日を反射していて眩い。時計の針は、夕刊配達の真っ只中の時間、四時五分をさそうとしていた。一郎は、小柄な体を反転させ、後ろ頭を枕の上にのせる。
(子どものころは遠い未来だった二十一世紀も、はや七年目に入って一ヶ月がすぎたか……)
 ベッドを置いた畳敷きの六畳間と、クッションフロアの二畳半の狭い台所の間には、引き戸すらない。「ワンルーム」の古びたアパートの玄関ドアは、合板製だ。平坦なリズムで再びドアをノックする音が、また同じ回数だけ、必要以上に耳に響く。叩き慣れた、ノックし慣れた音。安アパートの住人を小馬鹿にしたような拳の動きが目に浮かぶ。玄関ドア脇の曇りガラスに、鼻先を突けんばかりに顔が寄せられていた。
 東京北千住の商店街の外れにある、荒川の堤防に程近いこの安アパートは、「しょっぱい」。勧誘ズレしているので、滅多に玄関ドアは開かない。Y新聞の拡張員を生業としている一郎も、他の住人同様に、同業者には門戸を閉ざす。新聞であれ、宗教であれ、勧誘を受けるのは御免だ。
 同業者は曇りガラスの向こうで粘っているが、やはり居留守を使うに限る。部屋備え付けの古いエアコンは切っているので、なおもノックされている玄関ドアの上方に設置された電気メーターの円盤は、ゆっくりとしかまわっていないはずた。「不在」の印を無視して叩きつづけた勘のいい拡張員は、ようやく諦めたらしく、曇りガラスの前から去っていった。
 十数秒の後、どっこらしょ、と一郎は上体を起こした。室内の二月の寒さに震えつつ、カラーボックスの上のリモコンに手を伸ばしてエアコンの電源を入れる。
「むなしいねえ」
 と呟く。仕事は、まあ順調と言っていいのだろう。収入も貯金も、三八歳バツなし独身の男にしては、多くはないにしても、そこそこある。が、声に出して、あるいは心の中で、むなしいねえ、と呟く回数は月日を重ねるごとに増えていた。
「いけねえ。東海先輩と約束してたんだった」
 一郎は、卓上ホルダに載っかった携帯電話を手にとり、三年にわたった新聞奨学生時代の先輩にあたる東海茂に、今から家を出る旨のメールを送信し、服を着替えはじめた。仕事着でもあるトレーニングスーツの色は、冬場の休日に外出する自分にもっとも相応しく思える白を選んだ。

 落ち合う場所は、東京練馬の下石神井と決まっている。東海が今は店長として勤務している新聞販売店に近い、井草通り沿いにあるファミリーレストランだ。学生店員である新聞奨学生だったころに担当した区域のすぐ近くにある。一郎は、ファミレスのガラスドアの取っ手を押した。チリンチリン、と鈴の音をくぐって程なく、
「おっ、きたきた」
 と左手の座席の最前から一郎の心の和ませる声が聞こえてきた。東海はタバコを吸わない。喫煙席をいつも選んでくれるのも、縮れ毛が薄くなってきているのを相変わらず隠そうとしないのも、この先輩らしいと、一郎は思う。
 東海は、薄い眉の下の茶褐色の瞳を光らせつつ、
「猪野ー。いつまで拡張員をやってんだ。早くうちに帰ってこいよ」
 やや早口のお決まりの台詞は、この九年間変わらない。一郎は、この二つ年上の先輩だけには頭があがらなかった。
 四流大学を出ている東海は、新聞奨学生として四年間、その後に専業店員として十八年にわたって新聞販売店に籍を置いている。先輩として三年間見守った、新聞屋としての一郎の働きっぷりをだれよりもよく知っているがゆえに、本心から帰ってきてほしいと願っている。一郎が拡張員になったことを知って以来、その思いをより強くしていた。
「肉でもなんでも、好きなもの食えよ。今月な、もう回収率百パーセントを達成したんだ。拡張手当四万三千円、満額ゲッド」
 と座席に腰を落ち着かせた一郎に微笑みかける。
「やったっすね。また、区域を持ってるんですか?」
 一郎は、東海に微笑み返しながらわかり切ったことを尋ね、失礼します、と言ってタバコに火を点けた。主任ならともかく、店長が配達、集金、拡張の三業務までやらねばならないとは余程の人手不足なのだろうと、気の毒がりながら。
「先月は一区の三業務を持ってた。今月からは集金と拡張と、新しく入った朝夕刊配達アルバイトの就職浪人が休みのときの代配」
 東海は、苦笑しながらつづける。
「先月止めの読者が、たったの四本。集金のついでに過去読者に挨拶まわりしながら、たった三本ハンコもらって七十五パー。夕刊代配中に引っ越しを一本おさえて百パー達成。新規で雇って一区に入れた専業が二人つづけて三ヶ月も持たなかったんだよ。どっちも拡張どころか集金もあんまり真面目にやらなかったし」
 お冷やを持ってきた学生風のウエイトレスに、一郎はいつも通りにサーロインステーキを単品で注文した。店長に昇格して以来、年輪を重ねるようにビール腹を膨らませている先輩は、恩着せがましさを微塵も見せずに、ただ満足そうに色黒の平たい顔で微笑んでいる。
「そうそう、四十過ぎたら物忘れが酷くなってさ。忘れないうちに」
 東海は、販売店支給のジャンバーの内ポケットから茶封筒をとり出し、一郎のお冷やの脇にそっと置いた。読者向けの無料招待券が余ると、とりにこいと一郎に携帯メールを送ってくれるのが常だ。
「いつも、すみません。助かります」
 一郎は頭をさげ、茶封筒をトレーニングスーツの上着の内ポケットに納めた。
「最近は、学生や専業が、券くれ、って言わなくなった。昔は皆でとり合いしてまで集金のときに読者に配ってたのになあ。まあ、最近は集金にいく家も少なくなったけど」
 東海は、ガラス窓に視線を向けた。一郎は、話を合わせる。
「『チケットプレゼント』って銘打った、券のリストを折込みのアタマに入れて、欲しい読者はとりにこいって販売店が、オレの入る地域では結構あるんすよね。十何年も前にオレが近くの十一区で新聞屋をやってたころを考えたら、信じらんねえっすよ」
 学生風のウエイトレスが早くもテーブルに鉄板を置き、ごゆっくりどうぞ、と電子音のような声を残して去っていった。一郎は、タバコを銀色の灰皿で揉み消す。
「一郎」
 東海にそう呼ばれると、いつもドキッとする。名字はともかく、名前を呼び捨てにしてくれるのは、今やこの先輩だけだ。
「うちの販売店も全区域な、原付バイクに替えた。配達用の自転車は予備で一台だけしか残してない。八号車だけ。お前が乗ってたやつだけな。まあ、気長に待ってるから。その気になったらいつでも帰ってこいよ。拡張専門の営業員でもいいからさ」
 一郎は、白いコーヒーカップを手にした東海からいったん目を背けた後に、切った肉片を頬張って頷くように咀嚼した。
(東京にきて楽しいことや嬉しいことがあったのは、このへんで新聞屋をやってた一年目だけだったかもな……)
東海に礼をするように、一郎の頭がさがっていった。
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