あがり

斗有かずお

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 一郎は、無人の待合室に入った。真っ白な合皮のソファーに腰を下ろし、五十男からわたされた番号札と集金バッグをガラステーブルに投げ出す。独り占めしている十畳程の真新しい空間に、新改築して間もない独特のにおいが漂っている。またむなしさを覚え、タバコに火を点けて深いため息とともに煙を吐き出した。
(なにやってんだろうな、オレ……)
 Y新聞販売店の学生店員と専業店員をやっていた六年、代配専門で日銭を稼いでいた三年、新聞屋だった計九年の間、販売店や担当区域で拡張員を見かけるたびに眉を顰めたものだった。一郎は、その九年の歳月をかけて少しずつ、かつ着実に壊れていった。
 大学入学と同時に練馬の石神井販売店に籍を置いた一年目は、新聞奨学生らしく汗水垂らして懸命に働いた。業務用自転車を操り、降りては道路や玄関先を駆けまわり、新聞の投函を懸命に繰り返した。
 疲労がたまった重たい体に鞭打って、吉祥寺にあるS大に一日も休まず通った。朝夕で少なく見積もっても計四時間を超える配達業務に、晩は集金や拡張にくわえて翌朝の折込みの準備に区域管理と、合計八時間を超える労働からくる疲れは、四時間足らずの睡眠ではとれるはずもない。大学の講義時間になると、急に重たくなる瞼を引きあげることは不可能だった。シャープペンシルと消しゴムを両手に、ボートをこいでいるうちにノートをとるべき時間は流れていった。「優」こそ一つもなかったが、意地で全四十単位を漏れなく取得した。石神井販売店在籍の新聞奨学生としては、数年振りの「快挙」だった。
 二年目の四月に入ると、担当区域の異動に伴う引継ぎもあり、毎朝三時起きなのに午前様がつづいた。風邪をこじらせて肺炎を患ってしまい、一週間の入院を余儀なくされた。病院の真っ白なシングルベッドの上で、精神の緊張の糸はブチッと音を立てたかのように切れてしまった。退院後は、石神井から出ることが極端に少なくなり、S大に向かうこともほとんどなくなった。講義時間は、万年床で寝ている間に過ぎていった。当然のように単位は一つも取得できず、留年が決まった。三年目には一度もS大にいかなかった。一郎は、大学生と新聞奨学生を同時に辞めた。
 販売店主の清川所長から提示された専業店員としての毎月の基本給や諸手当は、契約金をもらって入店したド素人と同じ額だった。三年間さんざんこきつかいやがったくせに、馬鹿にしてやがる。一郎は憤慨し、東海先輩の説得にすら耳を貸さず、スポーツ新聞に急募の三行広告を出していた三鷹西販売店に移籍した。基本給も諸手当も、石神井販売店より高かった。電話で下交渉をすませておいた契約金は、一年で六十万円。大学などの入学金や授業料に充てられる奨学金と同様に、実質的には販売店への前借金だ。まとまった金が欲しい輩が食いつき、かつ「飛んだ」としても販売店がさほどは痛手を感じない、うまく折合いのついた額とも言える。
 一郎は、同じ額の再契約金をもらって契約を一年、さらにもう一年更新した後に、吉祥寺界隈の新聞代配専門員になった。近隣の販売店で欠員が出た場合に臨時雇いで呼ばれ、朝夕刊を配達すれば待機料込みで一日二万円になる仕事は悪くなかったが、また三年で辞めた。汗水垂らして働くことが、馬鹿らしく思えてならなかった。
 新聞屋を辞めた一郎は、吉祥寺のスナックで飲み友だちだった田中雅代から誘われ、新宿の格安ソープランドの店員になった。垂らす汗水は減ったが、そのぶん拘束時間は増えた。半年後に嫌気が差して客引きの仕事を投げ出し、蝶ネクタイを引きちぎるようにはずして辞め、四つ年上の雅代のヒモになった。
 一郎は、ソープ嬢のヒモになり切った。料理などできない。掃除も洗濯もしない。雅代の財布から万札を数枚引き抜いてはパチンコ店に通いつめ、半年後に剪定鋏でばっさり切られるように捨てられた。
 すでに根無し草人生を歩んでいた一郎は、新聞販売業界へ戻るしかなかったが、また販売店でこきつかわれるのだけは御免だった。新聞社販売局主催の拡張コンクールで、新聞奨学生のころに一度、専業店員のころに二度、表彰されたことがあった。ヒモよりもましだと思い、かつての代配員仲間から紹介された北千住の拡張団の門を叩いた。歩合給制は性に合っているのかもしれない。他にやってみたい仕事など、ない。気がつけば、拡張員として九度目の春を迎えようとしていた。

 液晶テレビが垂れ流していたドラマの再放送がおわってしまった。ドラマのオープニングソングが流れている最中に、スーツ姿の二人組が待合室に入ってきたが、ともに先に出ていった。テレビショッピングのテーマソングが耳に障り、イライラは頂点に達する。
(こんなに待たされるんだったら、一番ましな子を指名すりゃあよかった。指名料二千円プラスで、ちょうど昼間の稼ぎも全額吹っ飛んだし。二十歳の子だったっけ。風俗嬢は年をとらねえし、サバも読んでるだろうから、実年齢は二十三、四、いや五までってところか)
 黒いガラス製の小振りな灰皿は、底一面を吸殻で覆われている。一郎は、喉の渇きを覚え、根を張ったように重たくなった腰をあげた。待合室の隅で、スマートなコカ・コーラ社の自動販売機が小さな音を立てている。
(おっと、やっちまった)
 うっかり、青線の下のボタンを押してしまった。赤線は、その下の段にある。待合室の中は暖房が効きすぎていて暑いくらいだが、一郎はこだわる。寒い季節に飲むジョージアは、ホットでなければならない。
(押しちまったから仕方ねえか。後で祐一にでもくれてやれ)
 再び小銭を入れて赤線の下のボタンを押すと、コンコン、と控えめにノックする音がしてドアが開いた。
「失礼します」
 自身の柔らかな声を追って少し背中を丸めた五十男が姿を現し、また人のよさそうな平たい笑顔を見せた。
「番号札十三番のお客様、たいへんお待たせいたしまして、誠に申しわけございませんでした」
(ったく、タイミングが悪りいなあ)
 小さく首を振り、一郎は屈んで自動販売機の取り出し口に手をやった。
(あちっ)
 掴んだホットのロング缶は、思いのほか熱い。
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