あがり

斗有かずお

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(むなしいねえ)
 一郎は、ため息をつき、長テーブルの上に飲みかけのジョージアのロング缶と、黒革の集金バッグを置いた。パイプ椅子に腰を下ろし、暇つぶしに駅売りの朝刊を広げる。新聞拡張団の朝礼が時間通りにはじまることは、まれだ。
「猪野さん、おっはよーっす。いやあ、今日も外は寒いっすねえ。冷蔵庫の中に入ってるみたいだったから、暖房の効きが悪くても、事務所の中は天国だわ。知ってますう? 急に雲行きが怪しくなってきたっすよお。これから冷たい雨、いいや雪が降るっすよ、絶対。参ったなあ」
 中村祐一は、顔を顰めて角刈りがだらしなく伸びた髪を両手で掻きむしった。新聞をまったく読まないこの拡張員は、日中の降水確率が低いことを知らないらしい。一郎の隣のパイプ椅子に腰を下ろし、だぶついたジャンバーを羽織った小さな上体を丸め、貧乏ゆすりをしながら長テーブルの上で伝票を書きはじめた。前日に稼いだ契約カード料の半額を、「前借り」するためだ。
 祐一は、なにかにつけて餌をねだる小犬のように、一郎に纏わりついてくる。自称二十歳。ボールペンを持った右手の甲はすでに張りを失っていて、実年齢が二十代後半であることを物語っていた。
「昨日ついてくれたピンサロの姉ちゃん、最高だったすっよお。マキちゃん、十九歳。若いっすよねえ。肌がピッチピチでえ、めっちゃ可愛くてえ。東武線沿いじゃあ、あんな子には、滅多なことではお目にかかれねえっすよ。これがさあ、また上手くてえ。けっけっけっ……」
 甲高い声で嗤う祐一に、この前オレも本ヘルで大当たりを引いたぞ、と一郎は言わない。そうか、とだけ相槌を打ってすませる。たまに牛丼やハンバーガーを奢ってやることはあるが、風俗までねだられ、纏わりつかれては堪らない。身長が百六十センチに満たない小男の祐一は、千円札を数枚持っていることはあっても、万札とはほとんど縁がない。
 祐一は、ボールペンを伝票の上に転がして上体を背もたれに預けた。口は動かしつづけている。百のうちに一つか二つは仕事に有益な情報が含まれているので、一郎は耳を傾けてはいる。が、祐一の話は脈絡がなく、延々とつづく。おしゃべり男を一刻も早く玄関から追い出したいがためだけに、契約カードに印鑑を押す者もいる。
(こいつは昨日、何本あげたんだっけ)
 朝刊の頁を捲りつつ、一郎は長テーブルの上に目をやった。「3000」と前借り伝票に殴り書きされている。たった一本。幸いなことに、半年契約ということになる。報酬である契約カード料の残りの半額の三千円が、給料日に祐一に支払われることは、まずない。借金返済と馬鹿高い寮費の名目で、拡張団に吸いあげられる。
 前借りする必要などない一郎は、拡張団に借金もなかった。寮には入らず、事務所の近くに安アパートを借りている。最下層の独身貴族の端くれと言っていい。一方で、今日の、下手をすればこの先一週間の食い扶持がたったの二、三千円といった、祐一のような「乞食拡張員」もいる。
 一郎は、「連歓」を苦手にしている。とくに勧誘で連れ立つ相手が祐一のときは、カードがほとんどあがらない。嘘を耳にするたびに、げんなりして口を開くことすら億劫になる。「泣き歓」の祐一は、新聞社名の刺繍が左胸に入ったジャンバーを着て勧誘の場で新聞奨学生を装い、なんのためらいもなく、顔をくしゃくしゃにして涙声で真っ赤な嘘をつく。

 ――人助けだと思ってえ、半年、いや、三ヶ月だけえ、付き合ってくださいよお。私立理系なんでえ、大学の学費がバカ高くてえ、奨学金だけじゃ賄えきれなくてえ、拡張で稼がなきゃなんないんですう。大学の事務局に未納の学費を分割払いにしてもらってるんすけどお、今月分は明日までに納めなくちゃなんなくてえ、今日契約がとれないとお、退学になっちゃうんすよお――

 実際の祐一は、新聞奨学生が夕刊配達をおえる時間まで、スーパーや公園のベンチで昼寝をしているか、新聞販売店からわたされた契約実績に基づく過去読者リストと睨めっこをしていることが多い。出所が不明な軍資金で、パチンコを打っていることもある。まだ若いんだから汗水垂らして働けよ、と言いたくもなるが、ため息とともに飲み込まざるをえない。一郎自身が新聞拡張員になったのは、二十九歳のころだった。現役の大学生がセールスメイトと名乗り、アルバイト感覚で拡張団に入ってくることも珍しくなくなっている。
 朝刊を八つ折りにして長テーブルの上に放り投げ、一郎は腕を組んだ。口を引き結ぶ。祐一は、小さな体から熱を発しつつ、パチンコ「大海物語」のリーチパターンを独り合点に頷きながら語っている。仕事中に、そんな風に怪気炎でもいいからあげてみろよ、と一郎は苦く笑った。
(……K大にいってたら、オレの人生、どうなってたんだろうな)
 ――駅弁大学なんかにいくより。今となっては、東京で新聞奨学生の道を選んだのは若気の至りだったと、後悔せざるをえない。一年の浪人生活を経て北陸にある国立大学に合格したのは、十九年前のことになる。
 一郎は、熊本人が好む文武両道の優等生だった。小学校で学級委員を、中学校で生徒会副会長を務めた。毛筆、硬筆、絵画といったコンクールにも、よく入選した。主将を務めた中学の卓球部では、個人戦で郡予選を突破して県大会に出場し、副主将を務めた高校の弓道部では、ただ一人だけ弐段を取得した。
「おっといけねえ。前借り、前借り」
 祐一がようやく口を閉じて伝票を手に立ちあがると、諸田正三が入れ替わるように加齢臭を漂わせながらパイプ椅子に腰を下ろした。ボサボサの白髪交じりの薄い頭が、フケを二つ三つ降らしながら迫ってくる。誘導するように、太い人差し指が左右に動く。
「猪野ちゃーん、いっぽん。一本でいいからさあ、見込み客を紹介してよう。苦しいのよお、今月」
(毎月じゃねえか。胡麻塩まだらハゲ親爺)
 正三の鳥の巣に似た頭を一瞥して、一郎は口元だけで笑った。祐一も正三も、新聞拡張員には不可欠とも言える狡さを備えているものの、勧誘の場ではうまく立ちまわれない。
「ないっすよ、そんなの。こっちが紹介して欲しいくらいっす」
「またまたまたあ。いいじゃない、一本くらいさあ。稼いでるくせにい」
 諦めのよさだけは一級品の還暦の拡張員が、すでに砕けた太い腰をあげる。
「しょっぱいなあ」が、着たきり雀のまだらハゲ親爺の口癖だ。訪問先でまともにとり合ってもらえないと、胡麻塩を口に含んでいるかのように、シミの目立つ顔を歪めて呟く。競馬に注ぎ込む数枚の千円札があるのなら、どれも見るからにしょっぱそうな、ブルゾンかズボンかスニーカーを買い換えるべきだと、一郎は思う。
「置き歓」の正三は、よくある名字の訪問先に洗剤を挨拶代わりだと無理やり受けとらせる。あるいは、閉まったままの玄関ドアの脇に置いてくる。氏名と電話番号は、表札や公衆電話備え付けの電話帳で調べ、住所ともども「代筆」し、手持ちの認印を押して契約カードをあげてくる。販売店が電話で行う監査で置き歓とバレても、すっとぼけるだけだ。おっかしいなあ、とほとんど毛のない頭頂部を撫でながら嘯く。
 北陸出身の正三は、学部こそ違うものの、一郎が合格した国立大学を中退している。安酒に酔うと顔を赤黒く染め、色のさめたしわくちゃの学生証を財布から大事そうにとり出し、自慢するのが常だ。正三と一郎の学力偏差値は、ほぼ同じ。人生いきついた先の職業が同じであることにも、一郎はやるせなさを覚えずにはいられない。
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