あがり

斗有かずお

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 朝刊にひとわたり目を通しおえたところで、急行電車が各駅に停まりはじめた。座席に背を預けた一郎は、憂鬱になっていく。空一面を覆った厚い雲のせいではない。電車が駅に停まるごとに、町との相性が徐々に悪くなっていく。叩く気を失い、契約カードを一枚もあげられない「ボウズ」におわるのは、ほとんどがこのあたりから先の新聞販売店に入るときだ。
 車内はすでにガラガラで、電車が駅と駅との中間あたりまでくると、急に窓外の視界が開ける。線路沿いの大きな田んぼで、行列を成した薄茶の刈株が、同色に枯れたヒコバエごと、トラクターに牽引された耕耘機に均されている。空風は吹いていないが、車窓越しに見える田園風景は、一郎の目に異国の荒野のように映ってしまう。
 故郷に帰りたくなるのは決まって、一年で最も季節感覚がずれる今時分から。二月の中旬以降だ。
(熊本では、もう春風が吹きはじめていても、おかしくねえのにさ)
 一郎は、穏やかに、しかし着々と訪れてくる暖かい熊本の春先が恋しくなる。
 防風林に護られた大きな農家屋敷と離れ家。細長い三階建ての一軒家がドミノのように並んで、今にも崩れ出しそうな古い小規模団地。生まれ育った町では目にしたことのない人家が、電車に乗った一郎たち新聞拡張員を避けているかのように、線路から離れて存在している。
「マッチ箱が、一つ二つ三つ四つ、五つ六つ、か。今度、叩こうかなあ」
 一郎の隣の席で、泣き歓誘の祐一が、過ぎていく古くて小さい平屋建ての公営住宅の群を目で追いながら独り言ちている。そのまた隣の席で、置き歓誘の正三が、競馬新聞を握り締め、終電の酔っ払い客のような格好で鼾をかいている。喝歓誘の浩二は、正三の向かいの席で、小汚いデッキシューズを履いたまま胡坐をかき、斜め上方にガンをつけている。相手は週刊誌の吊り下げ広告らしい。
 児童養護施設を脱走し、少年院を出た後に二度も刑務所に入っていた浩二は、柄の悪さだけは一級品だ。どこでおそわったのか、民事不介入という言葉は知っている。自分でバリカンを入れているらしい坊主頭と極細の目と無精髭で迫り、どこまで脅して契約カードをあげているのか、一郎は知りたいと思わない。
 浩二は、翌日に前借りできる数枚の千円札欲しさに、サービスだから、あるいはモニターだから契約期間中の新聞代は払わなくていいと嘘をついて、「後爆カード」をあげることも少なくない。正三におそわったのか、真似たのか、安物の認印十数本と朱肉を入れた巾着を革ジャンバーの内ポケットに忍ばせ、まったくの架空の「てんぷらカード」をあげるのもお手の物だ。どちらの契約カード料も、見つかりしだい拡張団を通して販売店に返還しなければならない。
 そんなこんなで、浩二は拡張団からの借金が雪達磨式に膨らみつづけており、「パンク」するのは、もはや時間の問題となっている。同い年の拡張員が新聞販売業界以外のどこへ売られることになるのか。一郎は、暖房の効きすぎた電車内にいても、背筋が寒くなる。
 車体が傾きはじめた。冬色の田園風景に大きな弧を描きおえると、電車は速度を落としはじめる。聳え立つ何本もの鉄塔が、お入んなさい、と長縄飛びでもしているかのように、数本の高圧電線をだらしなく垂らしている。車内に終着駅名がアナウンスされ、一郎の口からため息がもれた。

 どんよりとした寒空の下、東武鉄道グループ主導で開発された新興団地の一部と、周辺の農村とで構成された区域を、一郎は休むことなくママチャリでまわりつづけた。部数減で尻に火の点いた販売店主から頭をさげられながら預かった住宅地図のコピーは、過去に契約実績のある読者の家が色塗りされている。
 いつの間にか雲は去り、空は晴れわたっていた。預かった拡材をすべて使い切ったのは、まだ夕暮時だったが、一郎は補充のために販売店に戻る気にはなれなかった。
 終着駅の町には、パチンコ店どころか、ファミレスもファストフード店もない。一郎は、県道沿いのセブンイレブンで缶ビールとつまみとホットのジョージアのロング缶を買い、販売店の最寄りの公園に向かった。枝を刈られて寒々しい藤棚の脇のベンチに腰を下ろし、時間を潰す。二月中旬の風は、弱いが、やはり冷たい。
「むなしいねえ」
 一郎は、「乞食読者」に拡材もろとも叩く気まで吸いとられてしまった。貪欲な読者はどこにでもいるが、東武線沿いでは終着駅に近づくにつれて数が増える。
 ――洗剤もっと寄越せ、ビール券もっと寄越せ、他になにを持ってきた?
 大きくて立派な屋敷のある農家で、妖怪のような婆ちゃんから、段ボール箱と集金バッグの中身を次々とぶんどられ、一郎は珍しく一年、カード料八千円の契約をあげた。その裕福な乞食に会うのは、もう御免だった。
「……オレも、堪え性がなくなったな」
 一郎は、缶ビールを手に苦笑した。オレンジ色の太陽が、ぼかされた秩父の山々の稜線に懸かりはじめている。
「日が沈むのが早いよ、関東は。……熊本だったら、今の季節のこの時間は、もっと夕日が高いし、もっと明るい」
 苛立つ頭に、子供のころに感動を覚えた夕焼け空が浮かんだ。実家近くの公園から見える太陽は真っ赤で、金峰山の稜線をくっきりと濃く縁取っている。一郎は頭を振り、残像を消した。
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