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第5章 兄弟子
5-3 恐怖
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校門まで走って必死に逃げてきた。
魔導を使って身体の動きを補助していないので、息が上がってしんどかった。
立ち止まって荒れた呼吸を整える。
あの場にいられなかった。
制御できない恐怖心で体がひらすら支配されていた。
こんな状況は初めてだ。いまだに身体が勝手に震えている。
マルクが私の嫌がることをするはずないと思っているけど、あの男の息子らしき人を彼の立ち合いの元でわざわざ私に会わせた理由が分からなかった。
ああ、でも彼もあの男の指示には逆らえなかったのかもしれない。
かつて彼が子どものころ、無抵抗で王太子に殴られていた。
私だって結局国には逆らえなかったのだから、命令に従った彼だけを責められなかった。
三十年間、マルクは何を想って過ごしてきたんだろうか。
彼の今の生活は、魔導よりも役職に付随する対応ばかりだ。
マルクと魔導を研究していた、あの輝かしい日々は、もう二度と戻らない。
そう思うと、失ったものは命だけではなかったのかもしれない。
あれほど好きだった魔導が、今は遠く感じる。
私が私らしく生きることを願っていると言ってくれたから、彼なら完全に嫌なことから守ってくれると漠然と期待してしまっていた。
彼だって苦しい立場なのに甘えすぎていた。
「ん?」
今の自分の思考に引っ掛かりを覚えた。
甘えていたという、その言葉に。
無意識だった自分の行動を改めて認識して驚いた。
気づいた途端、どんどん恥ずかしくなってきた。
そうか、彼に甘えていたのか。
元とはいえ彼の師匠として七年も勤めたのに。
「あうぅ」
思わず頭を抱えた。顔から湯気が出そうなくらい熱く、穴があったら入りたいくらいだった。
当時百年近く生きてきて情けなかった。
しかも、あの息子から逃げてしまったから、彼の顔に泥まで塗ってしまった。
どの面下げてマルクに会えばいいのだろうか。
なんとなく後ろめたくて彼の家に帰りづらかった。
今日は自分の実家に行こうかな。そう考えて、いつもとは逆の方向に足を向けたときだ。
「ミーナ!」
マルクの声がした。振り向けば、彼が慌てて追いかけていた。
しかも、その後ろにあの男の息子までついてきている。気づいた途端、ゾッとした。
「来ないでよ!」
やはり拒否反応が急に襲ってきて、怖くて仕方がなくなる。
反射的に走って逃げ出していた。
必死だった。通りには人が大勢いたけど、なりふり構う余裕などなかった。
後ろを振り向かず、ひたすらに走っていたら、急に体が見えない力で捕獲された。
前に反動が来たと思ったら、今度は後ろにスライドするように引っ張られて、マルクの腕の中に飛び込むように体が収まっていた。
「いきなり大通りに飛び込んだら、ひかれますよ」
指摘を受けて前を向けば、確かに私は通行の多い道にもかかわらず、左右を確認せずに突っ込もうとしていた。
馬車だけではなく、魔導で動く公共の乗り物までも行き交っている。
その脇を避けるように多くの通行人がいた。
きょろきょろと周囲を見回して、あの男がいないことを確認してから、ホッと胸を撫で下ろした。
「彼はいないです。ついてこないように、言っておきましたから」
「そう」
走っていたせいで、かなり息が上がっていた。
彼も同じように息遣いが荒かった。
全身を動かして燃えるように体が熱い。
彼から伝わる体温もかなり高いのに、私を抱きかかえたまま離さなかった。
「あの、ごめん」
迷惑をかけたと感じていたので、謝罪を思わず口にしていた。
「……なぜ謝るのですか?」
頭上から彼の声が降ってくる。
こちらの様子を窺うような、慎重そうな声だった。
怒っていないようで密かに安堵した。
「マルクに迷惑をかけたから。……今日来たの、あの男の息子でしょう?」
思い出すだけでも気分が悪くなってくる。
「そうです。でも、なぜ分かったんですか?」
「そっくりだよ。嫌ってほど」
マルクの息をのむ音が聞こえた。
「そうだったんですね。すみません。そこまで気が回りませんでした」
「ううん、私が悪いよ。本人じゃないのに似ているだけでダメだった。それにね、きっと近い将来、マルクの弟子なら、あの男とも会わなきゃいけないよね? でも、本当にごめん。私には無理なの。でも、マルクは弟子がそうだと困るよね」
堰を切ったようにまくし立てたら、急に彼の手で口を塞がれた。
「失礼します。とりあえず、今はここで話すより、帰りましょう。あなたの実家ではなく、私の屋敷へ」
ぎゅっと彼に手を握られる。来た道を戻るように歩き始めるので、大人しくついていった。
歩いている最中、ずっと彼は無言だった。
それが拒絶のように感じるけど、彼の手が私に触れているおかげで、かろうじて違うと分かる。
魔導を使って身体の動きを補助していないので、息が上がってしんどかった。
立ち止まって荒れた呼吸を整える。
あの場にいられなかった。
制御できない恐怖心で体がひらすら支配されていた。
こんな状況は初めてだ。いまだに身体が勝手に震えている。
マルクが私の嫌がることをするはずないと思っているけど、あの男の息子らしき人を彼の立ち合いの元でわざわざ私に会わせた理由が分からなかった。
ああ、でも彼もあの男の指示には逆らえなかったのかもしれない。
かつて彼が子どものころ、無抵抗で王太子に殴られていた。
私だって結局国には逆らえなかったのだから、命令に従った彼だけを責められなかった。
三十年間、マルクは何を想って過ごしてきたんだろうか。
彼の今の生活は、魔導よりも役職に付随する対応ばかりだ。
マルクと魔導を研究していた、あの輝かしい日々は、もう二度と戻らない。
そう思うと、失ったものは命だけではなかったのかもしれない。
あれほど好きだった魔導が、今は遠く感じる。
私が私らしく生きることを願っていると言ってくれたから、彼なら完全に嫌なことから守ってくれると漠然と期待してしまっていた。
彼だって苦しい立場なのに甘えすぎていた。
「ん?」
今の自分の思考に引っ掛かりを覚えた。
甘えていたという、その言葉に。
無意識だった自分の行動を改めて認識して驚いた。
気づいた途端、どんどん恥ずかしくなってきた。
そうか、彼に甘えていたのか。
元とはいえ彼の師匠として七年も勤めたのに。
「あうぅ」
思わず頭を抱えた。顔から湯気が出そうなくらい熱く、穴があったら入りたいくらいだった。
当時百年近く生きてきて情けなかった。
しかも、あの息子から逃げてしまったから、彼の顔に泥まで塗ってしまった。
どの面下げてマルクに会えばいいのだろうか。
なんとなく後ろめたくて彼の家に帰りづらかった。
今日は自分の実家に行こうかな。そう考えて、いつもとは逆の方向に足を向けたときだ。
「ミーナ!」
マルクの声がした。振り向けば、彼が慌てて追いかけていた。
しかも、その後ろにあの男の息子までついてきている。気づいた途端、ゾッとした。
「来ないでよ!」
やはり拒否反応が急に襲ってきて、怖くて仕方がなくなる。
反射的に走って逃げ出していた。
必死だった。通りには人が大勢いたけど、なりふり構う余裕などなかった。
後ろを振り向かず、ひたすらに走っていたら、急に体が見えない力で捕獲された。
前に反動が来たと思ったら、今度は後ろにスライドするように引っ張られて、マルクの腕の中に飛び込むように体が収まっていた。
「いきなり大通りに飛び込んだら、ひかれますよ」
指摘を受けて前を向けば、確かに私は通行の多い道にもかかわらず、左右を確認せずに突っ込もうとしていた。
馬車だけではなく、魔導で動く公共の乗り物までも行き交っている。
その脇を避けるように多くの通行人がいた。
きょろきょろと周囲を見回して、あの男がいないことを確認してから、ホッと胸を撫で下ろした。
「彼はいないです。ついてこないように、言っておきましたから」
「そう」
走っていたせいで、かなり息が上がっていた。
彼も同じように息遣いが荒かった。
全身を動かして燃えるように体が熱い。
彼から伝わる体温もかなり高いのに、私を抱きかかえたまま離さなかった。
「あの、ごめん」
迷惑をかけたと感じていたので、謝罪を思わず口にしていた。
「……なぜ謝るのですか?」
頭上から彼の声が降ってくる。
こちらの様子を窺うような、慎重そうな声だった。
怒っていないようで密かに安堵した。
「マルクに迷惑をかけたから。……今日来たの、あの男の息子でしょう?」
思い出すだけでも気分が悪くなってくる。
「そうです。でも、なぜ分かったんですか?」
「そっくりだよ。嫌ってほど」
マルクの息をのむ音が聞こえた。
「そうだったんですね。すみません。そこまで気が回りませんでした」
「ううん、私が悪いよ。本人じゃないのに似ているだけでダメだった。それにね、きっと近い将来、マルクの弟子なら、あの男とも会わなきゃいけないよね? でも、本当にごめん。私には無理なの。でも、マルクは弟子がそうだと困るよね」
堰を切ったようにまくし立てたら、急に彼の手で口を塞がれた。
「失礼します。とりあえず、今はここで話すより、帰りましょう。あなたの実家ではなく、私の屋敷へ」
ぎゅっと彼に手を握られる。来た道を戻るように歩き始めるので、大人しくついていった。
歩いている最中、ずっと彼は無言だった。
それが拒絶のように感じるけど、彼の手が私に触れているおかげで、かろうじて違うと分かる。
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