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第一章
規律の名の下に
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雲嶺山の朝は早い。
鐘が鳴る前に、沈景真は目を覚ました。
薄く霜の張った床に足を下ろし、衣を整える。動作はまだ拙いが、無駄はない。
――遅れてはいけない。
それだけが、頭にあった。
修行場に着いたとき、すでに洛玄はそこにいた。
白衣は乱れなく、剣は背に、視線は遠くの山脈に向けられていた。
沈景真は、その背を見ただけで、背筋が伸びた。
「遅刻はないな」
『はい』
短い応答。
それ以上の言葉は、必要とされていない。
洛玄は沈景真に向き直り、淡々と告げる。
「今日から基礎鍛錬に入る。
呼吸、歩法、霊気循環。
私の指示以外で動くな。」
『はい、師尊』
その呼び方に、洛玄の眉がほんのわずかに動いた。
だが、何も言わない。
修行は、想像以上に厳しかった。
霊気を巡らせるたび、体内の歪みが悲鳴を上げる。
立ち続けるだけで、膝が笑う。
それでも、沈景真は倒れなかった。
倒れる理由が、ない。
「……止め」
洛玄の声で、ようやく許しが下りる。
沈景真は、その場に膝をついた。
息が荒く、視界が滲む。
「無理をするな」
それは叱責ではなかった。
ただの事実確認のような声。
『はい』
沈景真は、そう答えながら、内心で首を振る。
――無理をしていない。
これが、やっと生きている感覚だ。
洛玄は沈景真の脈に触れ、霊気の流れを確かめる。
指先は冷たく、必要以上に触れない。
「……まだ不安定だ。勝手に霊力を引き出すな」
『はい』
その距離は、近いはずなのに、遠い。
沈景真は、洛玄の視線が自分ではなく、霊脈の状態だけを見ていることを、はっきりと感じ取っていた。
――それでいい。
師は、そうあるべきだ。
そう言い聞かせながら、
胸の奥で、名もない感情が、かすかに動いた。
夜。
沈景真は、自室で経文を写していた。
筆を持つ手は、昼の疲労でわずかに震えている。
――情を持てば、道を誤る。
昼間の洛玄の声が、ふと蘇る。
沈景真は、筆を止めた。
情を捨てきれない。
それは、弱さだ。
だが。
情がなければこの山で独り、何を頼りに生きればいいのだろう。
そのとき、戸の外に気配がした。
『……師尊?』
返事はない。
だが、霊気の質でわかる。
洛玄だ。
沈景真は、慌てて立ち上がり戸を開けようとして――止まった。
規律がある。
夜半の私的接触は禁止だ。
一拍。
やがて気配は、静かに遠ざかっていった。
沈景真は、胸の奥が、妙に冷えるのを感じた。
――用があったのだろうか。
それとも、ただの巡回か。
答えはない。
だが、その夜沈景真は何度も目を覚ました。
翌朝。
修行場での、洛玄はいつも通りだった。
「集中しろ」
『はい』
視線は合わない。
声も、変わらない。
それでも。
沈景真は、昨日より洛玄の背をよく見ていた。
剣の位置。
歩幅。
呼吸の間。
無意識のうちに、すべてを追っている。
――師だからだ。
そう、思おうとした。
だが、その日の修行の終わり際、
洛玄が、沈景真の手首を取った。
「……血が滲んでいる」
『問題ありません』
即答だった。
洛玄は、しばらく沈景真の手を離さなかった。
治療のための、必要な接触。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……無理をするな」
再び、同じ言葉。
だが、その声はほんのわずかに低かった。
沈景真は、その変化を聞き逃さなかった。
『はい、師尊』
その一言で、
二人の距離は、再び、規律の位置に戻る。
それでも。
沈景真は知ってしまった。
師は、自分を見ていないようで、
見ている。
それだけで、
この修行は、続けられる気がした。
鐘が鳴る前に、沈景真は目を覚ました。
薄く霜の張った床に足を下ろし、衣を整える。動作はまだ拙いが、無駄はない。
――遅れてはいけない。
それだけが、頭にあった。
修行場に着いたとき、すでに洛玄はそこにいた。
白衣は乱れなく、剣は背に、視線は遠くの山脈に向けられていた。
沈景真は、その背を見ただけで、背筋が伸びた。
「遅刻はないな」
『はい』
短い応答。
それ以上の言葉は、必要とされていない。
洛玄は沈景真に向き直り、淡々と告げる。
「今日から基礎鍛錬に入る。
呼吸、歩法、霊気循環。
私の指示以外で動くな。」
『はい、師尊』
その呼び方に、洛玄の眉がほんのわずかに動いた。
だが、何も言わない。
修行は、想像以上に厳しかった。
霊気を巡らせるたび、体内の歪みが悲鳴を上げる。
立ち続けるだけで、膝が笑う。
それでも、沈景真は倒れなかった。
倒れる理由が、ない。
「……止め」
洛玄の声で、ようやく許しが下りる。
沈景真は、その場に膝をついた。
息が荒く、視界が滲む。
「無理をするな」
それは叱責ではなかった。
ただの事実確認のような声。
『はい』
沈景真は、そう答えながら、内心で首を振る。
――無理をしていない。
これが、やっと生きている感覚だ。
洛玄は沈景真の脈に触れ、霊気の流れを確かめる。
指先は冷たく、必要以上に触れない。
「……まだ不安定だ。勝手に霊力を引き出すな」
『はい』
その距離は、近いはずなのに、遠い。
沈景真は、洛玄の視線が自分ではなく、霊脈の状態だけを見ていることを、はっきりと感じ取っていた。
――それでいい。
師は、そうあるべきだ。
そう言い聞かせながら、
胸の奥で、名もない感情が、かすかに動いた。
夜。
沈景真は、自室で経文を写していた。
筆を持つ手は、昼の疲労でわずかに震えている。
――情を持てば、道を誤る。
昼間の洛玄の声が、ふと蘇る。
沈景真は、筆を止めた。
情を捨てきれない。
それは、弱さだ。
だが。
情がなければこの山で独り、何を頼りに生きればいいのだろう。
そのとき、戸の外に気配がした。
『……師尊?』
返事はない。
だが、霊気の質でわかる。
洛玄だ。
沈景真は、慌てて立ち上がり戸を開けようとして――止まった。
規律がある。
夜半の私的接触は禁止だ。
一拍。
やがて気配は、静かに遠ざかっていった。
沈景真は、胸の奥が、妙に冷えるのを感じた。
――用があったのだろうか。
それとも、ただの巡回か。
答えはない。
だが、その夜沈景真は何度も目を覚ました。
翌朝。
修行場での、洛玄はいつも通りだった。
「集中しろ」
『はい』
視線は合わない。
声も、変わらない。
それでも。
沈景真は、昨日より洛玄の背をよく見ていた。
剣の位置。
歩幅。
呼吸の間。
無意識のうちに、すべてを追っている。
――師だからだ。
そう、思おうとした。
だが、その日の修行の終わり際、
洛玄が、沈景真の手首を取った。
「……血が滲んでいる」
『問題ありません』
即答だった。
洛玄は、しばらく沈景真の手を離さなかった。
治療のための、必要な接触。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……無理をするな」
再び、同じ言葉。
だが、その声はほんのわずかに低かった。
沈景真は、その変化を聞き逃さなかった。
『はい、師尊』
その一言で、
二人の距離は、再び、規律の位置に戻る。
それでも。
沈景真は知ってしまった。
師は、自分を見ていないようで、
見ている。
それだけで、
この修行は、続けられる気がした。
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