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第1章
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家に帰ると、女の姿はなかった。玄関の鍵はかかったままだった。部屋も荒らされた形跡はなかった。
それでも、そのほかのどこか、なにかが違う。家具の位置が違うとかそういうわけではない。しかしなにかが違う。ぐるりと部屋を見渡す。
はた、と俺は考えるのをやめた。いや、違和感の原因に気づいた。
俺のギター、リッケンバッカーがなかった。
やられた。確かにこの部屋にあるもので、一番高価なものであることには間違いない。頭がさらに痛くなったような気がする。状況がまったく掴めなかったが、リッケンバッカーがないのがかなりマズいのはわかる。
狭い部屋をうろうろ歩き回って心当たりを探してみたが朝、横で寝ていたあの女が持っていったとしか考えられない。でも、なんのために。それに、どうやって出ていったんだ。
少し落ち着こうとシャワーを浴びることにした。服を脱いでいってチノパンに手をかけたときに、ポケットに入れた紙のことを思い出した。
ジョニー・ウォーカー……
ウイスキーのことだろうか、それとも――
俺はふっと笑った。ハルに影響されたな。まさか『ねじまき鳥クロニクル』のことではないだろう……。
とにかく電話してみることにした。
コール音が鳴る。……三回、四回、五回――
出ない。出られても怖い気持ちもあってもう切ろうかと思ったときに出た。
「毎度、こちらジョニー・ウォーカー」
俺はなにをどう言えばいいのかわからなかった。
「……用件は?」
「誰か女にこの番号を教えた覚えは?」
「いくらでもある」
「昨日、番号を書いたメモを渡した覚えは?」
「あんた、なんなんだ?」
「……いや、すまない」
俺はそう詫びて、ことのいきさつを話した。理解されるとは思わなかったが、ジョニー・ウォーカーと名乗るその男はなにか思うところがあるらしく、黙って聞いていた。俺が話し終わると「ああ、なるほどな」と呟いた。
「とりあえず会って話そう。いまから来れるか?」
ジョニー・ウォーカーが指定した場所は、駅の反対口にあるムジカという喫茶店だった。行ったことなんてなかった。そんな店じゃなくてもファミレスとかでいいんじゃないかとも思ったが黙って従うことにした。場所を訊くと、俺のアパートから歩いて二十分くらいのところだった。俺はシャワーを浴びずにそのまま家を出た。
チャリで行くことにした。アパートからバス通りへ出て、そのまま真っ直ぐ進む。チャリなら五分くらいで着くだろう。まばらな人の隙間を縫うようにして進んでいった。駅に着くと、歩行者専用の、線路をくぐるための狭い地下道に入った。下品な落書きで埋め尽くされていた。地下道をそのまま抜けて、路地からロータリーへ出る。この街に昔から住んでいるが、このあたりはあまり馴染みがなかった。チェーンの居酒屋ばかりが入っているビルが軒を連ねていて、その駅前の大通りからひとつ道を外れると、キャバクラやフィリピンパブが隠れるようにひっそりと並んでいる。ムジカはその路地を入った先にあった。
ムジカの向かいは、一階に中華料理屋、その上はソープランドになっているビルだった。夜に営業している店ばかりだからいまはムジカ以外ほとんどシャッターが下りていた。人通りはなく、気だるさだけが漂っていた。俺はムジカの薄汚れた看板の横にチャリを駐めた。ムジカは看板だけでなく、ショーウインドウや窓、むしろなにもかもが薄汚れていた。砂塵に見舞われたあとのようだった。
店には客は一人しかいなかった。ボロボロのモッズコートを着ている俺と同年代だと思われる男だった。目が合うと、その男はこっちに来いと言った。こいつがジョニー・ウォーカーか。デブのウェイトレスがやってきて、俺があの男と待ち合わせてたと言うと、なにも言わずに奥へ引っ込んでいった。愛想のない奴だ。
ジョニー・ウォーカーはナポリタンを食っていた。時々コーヒーを飲んでそれで流し込んでいるようだった。
「ご注文は」
デブのウェイトレスが席に来た。
「コーヒー」
デブは伝票になにかを書いてそのまま黙って去っていった。なんなんだあいつは。俺はその切り落としてお歳暮としてでも贈ってやりたい背中を睨みつけた。ジョニー・ウォーカーが大きくため息をついた。
「どうした」
「マズいんだよ」
ジョニー・ウォーカーはナポリタンを指差して言った。
「ナポリタンがマズいってあんまり聞いたことないけどな」
「苦いんだよ」
俺は一口食ってみた。確かになぜか苦かった。ジョニー・ウォーカーはニヤニヤして俺を見ていた。俺は喋る気さえ起きなかった。
「ただ、このコーヒーとは合うんだよ」
デブが来て、黙ってコーヒーを持ってきて黙って去っていった。俺はコーヒーを一口飲んだ。これもかなり濃くて苦かった。だけど言われたようにナポリタンの苦味の余韻と絶妙にとけあって、これはこれで魅力的だった。
「不思議なもんだよな」
ジョニー・ウォーカーはそう言ってナポリタンを平らげた。それから残ったコーヒーを飲み干して、おかわりを注文した。
「さて」ジョニー・ウォーカーは煙草に火をつけた。「あんたのギターが無くなったんだったな」
俺は黙って頷いた。
「――高いホテル代だったな」
俺は返事をしなかった。
「俺を雇うのも高くつくぞ」
「あんた、なんなんだ?」
ジョニー・ウォーカーはくっくと笑った。
「特に『私はこういう者です』ってのはないな。ただ、ギターを探してやるよ。一日五千円プラス経費だ」
「そこまで高いとは思えないけどな」
「俺にとっては高いんだよ」
ジョニー・ウォーカーはまたくっくと笑った。
それでも、そのほかのどこか、なにかが違う。家具の位置が違うとかそういうわけではない。しかしなにかが違う。ぐるりと部屋を見渡す。
はた、と俺は考えるのをやめた。いや、違和感の原因に気づいた。
俺のギター、リッケンバッカーがなかった。
やられた。確かにこの部屋にあるもので、一番高価なものであることには間違いない。頭がさらに痛くなったような気がする。状況がまったく掴めなかったが、リッケンバッカーがないのがかなりマズいのはわかる。
狭い部屋をうろうろ歩き回って心当たりを探してみたが朝、横で寝ていたあの女が持っていったとしか考えられない。でも、なんのために。それに、どうやって出ていったんだ。
少し落ち着こうとシャワーを浴びることにした。服を脱いでいってチノパンに手をかけたときに、ポケットに入れた紙のことを思い出した。
ジョニー・ウォーカー……
ウイスキーのことだろうか、それとも――
俺はふっと笑った。ハルに影響されたな。まさか『ねじまき鳥クロニクル』のことではないだろう……。
とにかく電話してみることにした。
コール音が鳴る。……三回、四回、五回――
出ない。出られても怖い気持ちもあってもう切ろうかと思ったときに出た。
「毎度、こちらジョニー・ウォーカー」
俺はなにをどう言えばいいのかわからなかった。
「……用件は?」
「誰か女にこの番号を教えた覚えは?」
「いくらでもある」
「昨日、番号を書いたメモを渡した覚えは?」
「あんた、なんなんだ?」
「……いや、すまない」
俺はそう詫びて、ことのいきさつを話した。理解されるとは思わなかったが、ジョニー・ウォーカーと名乗るその男はなにか思うところがあるらしく、黙って聞いていた。俺が話し終わると「ああ、なるほどな」と呟いた。
「とりあえず会って話そう。いまから来れるか?」
ジョニー・ウォーカーが指定した場所は、駅の反対口にあるムジカという喫茶店だった。行ったことなんてなかった。そんな店じゃなくてもファミレスとかでいいんじゃないかとも思ったが黙って従うことにした。場所を訊くと、俺のアパートから歩いて二十分くらいのところだった。俺はシャワーを浴びずにそのまま家を出た。
チャリで行くことにした。アパートからバス通りへ出て、そのまま真っ直ぐ進む。チャリなら五分くらいで着くだろう。まばらな人の隙間を縫うようにして進んでいった。駅に着くと、歩行者専用の、線路をくぐるための狭い地下道に入った。下品な落書きで埋め尽くされていた。地下道をそのまま抜けて、路地からロータリーへ出る。この街に昔から住んでいるが、このあたりはあまり馴染みがなかった。チェーンの居酒屋ばかりが入っているビルが軒を連ねていて、その駅前の大通りからひとつ道を外れると、キャバクラやフィリピンパブが隠れるようにひっそりと並んでいる。ムジカはその路地を入った先にあった。
ムジカの向かいは、一階に中華料理屋、その上はソープランドになっているビルだった。夜に営業している店ばかりだからいまはムジカ以外ほとんどシャッターが下りていた。人通りはなく、気だるさだけが漂っていた。俺はムジカの薄汚れた看板の横にチャリを駐めた。ムジカは看板だけでなく、ショーウインドウや窓、むしろなにもかもが薄汚れていた。砂塵に見舞われたあとのようだった。
店には客は一人しかいなかった。ボロボロのモッズコートを着ている俺と同年代だと思われる男だった。目が合うと、その男はこっちに来いと言った。こいつがジョニー・ウォーカーか。デブのウェイトレスがやってきて、俺があの男と待ち合わせてたと言うと、なにも言わずに奥へ引っ込んでいった。愛想のない奴だ。
ジョニー・ウォーカーはナポリタンを食っていた。時々コーヒーを飲んでそれで流し込んでいるようだった。
「ご注文は」
デブのウェイトレスが席に来た。
「コーヒー」
デブは伝票になにかを書いてそのまま黙って去っていった。なんなんだあいつは。俺はその切り落としてお歳暮としてでも贈ってやりたい背中を睨みつけた。ジョニー・ウォーカーが大きくため息をついた。
「どうした」
「マズいんだよ」
ジョニー・ウォーカーはナポリタンを指差して言った。
「ナポリタンがマズいってあんまり聞いたことないけどな」
「苦いんだよ」
俺は一口食ってみた。確かになぜか苦かった。ジョニー・ウォーカーはニヤニヤして俺を見ていた。俺は喋る気さえ起きなかった。
「ただ、このコーヒーとは合うんだよ」
デブが来て、黙ってコーヒーを持ってきて黙って去っていった。俺はコーヒーを一口飲んだ。これもかなり濃くて苦かった。だけど言われたようにナポリタンの苦味の余韻と絶妙にとけあって、これはこれで魅力的だった。
「不思議なもんだよな」
ジョニー・ウォーカーはそう言ってナポリタンを平らげた。それから残ったコーヒーを飲み干して、おかわりを注文した。
「さて」ジョニー・ウォーカーは煙草に火をつけた。「あんたのギターが無くなったんだったな」
俺は黙って頷いた。
「――高いホテル代だったな」
俺は返事をしなかった。
「俺を雇うのも高くつくぞ」
「あんた、なんなんだ?」
ジョニー・ウォーカーはくっくと笑った。
「特に『私はこういう者です』ってのはないな。ただ、ギターを探してやるよ。一日五千円プラス経費だ」
「そこまで高いとは思えないけどな」
「俺にとっては高いんだよ」
ジョニー・ウォーカーはまたくっくと笑った。
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